延命措置を語る? | 月のベンチ

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両親の闘病記


ときどき、延命措置を『語る』人に出会います。

そういう人の多くは(全員とは言いません)、自分の最も大切な存在がそういう事態に直面したことがない人でした。

知り合いがそうだったとか、親戚がそうだった…という人がほとんどでした。

逆に、自分の最も大切な存在がそういう事態に直面したことのある人は、あまり多くを語りません。

そのときの、悲しい静かな決断の瞬間を身をもって知っているからです。

多くを語らず、寄り添ってくれます。

ときには、黙って涙してくれます。

ときには、穏やかに、自分の体験をポツリポツリとはなしてくれます。

肯定も否定もしません。

ただ、心のうちの葛藤がいかばかりだったか、

静かに、言葉少なに語ってくれます。



世の中には

延命措置なしでは生きられない状態で生まれて来る命もあります。

延命措置をすれば、まだまだ人生を楽しむことができる人たちもいます。

回復不能とされた人たちが、延命措置を続けながら、健康な人たちにとってはほんの僅かに見えても、私たちにとっては奇跡の回復を見せた人たちもいます。


『延命措置』が、悲惨で厭わしいものであるかのように『語る』のは止めてください。

『命』は、どれも、どんな状態であっても、大切な、たったひとつのものだからです。