福野夜高行燈(ふくのよたかあんどん) 福島に遠征 | ☆ほし☆のブログ

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「今宵、心の灯り(あかり)を南相馬へ」
こんなメッセージを先頭に、福野夜高行燈2基が、南相馬の中心街で練り回された。

南相馬市原町区の駅前通り約800mで行われた、相馬盆踊りパレードには、約1500人が、参加。

今年は、3年振りに元通りの規模で行われた(2011年中止、2012年規模縮小)。

夜高行灯はパレードの先導役としてムード盛り上げに一役買った。

行燈2基には、「南相馬 私達は忘れない」「砺波路 祭りの灯り届けます」と、書かれた垂れ幕を掲げた。
越中夜高太鼓保存会メンバーの笛や太鼓が鳴り響く中、約1時間、勇壮にひきまわした。
練り合わせには、地元の子どもたちも参加して、拍子木を打ち鳴らした。

さかのぼること江戸時代後期に南砺から南相馬に移り住んだ7千人以上が「真宗相馬移民」として移り住んだという。

その発祥地は、福野だった。

今回の遠征は、両市の交流を発展、充実させるために意義深い。

1811(文化8)年、加賀藩領だった砺波郡野尻庄字二日町(現南砺市二日町・福野)にある普願寺の三男・林能が荒川六郎兵衛という門徒ら70人が共に移ったのが始まり。
その後、次男・光林、四男・法専が次々と相馬へ赴き、(おもむく。行ったってこと。)移民の受け入れに活躍。
それぞれが寺を開き、相馬では「草分け3か寺」と呼ばれた。

当時、福野を統治していたのは、加賀藩。
加賀藩は無断で領内を去ること、「走り人」と言ったそうだが…そのことを厳しく禁じていた。

大飢饉で荒れた見知らぬ地へひっそりと旅立つ彼ら。
「これが仏の道だ」と言う思いがあったに違いない。

困難だけれども正しいことをやらなくてはいけないというモチベーションがあったのだろう。

福島の原発事故で、その地を去らなければならなかった移民の子孫は、まず「御先祖様に申し訳ない」と口にした。

移民の始まりから200年を経た今、共通の先祖を持つ福野の人が行灯という「希望のともしび」を携えて訪ねたことは、先祖を大切にする移民の子孫たちにとって、大きな心の支えになるだろう。
今回の訪問が文化交流への発展につながることを期待している、と城端の今でも福島の支援を続ける住職さんは、いう。

と、言うわけで
いろんな繋がりがあるもんだと、思ったと共に
「まだまだ福島は、復興するには時間がかかる」と、思うのでした。