懐かしい神戸 | umechan のりらっくすたいむ

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今日1月17日。 あの時の被害を受けたた方への追悼、お見舞い、全国、世界から助けて下さった皆さんへの感謝、もっとしっかり書かないといけないけど、舌足らずだけど、2022年の1月17日、思ったことを少しだけ、自分用記録もかねて書き留めておきます。

これは実際避難生活された、当時55歳の方が、身近なことを記録された映像で、貴重やと思う。
引用紹介させていただきます。

https://youtu.be/XK2DqnMuNLI

報道では、配給をみんな整列して礼儀正しく受け取ってた、と、美談がクローズアップされて広まってたけど、現実ではやはり、直後は混乱もあり、被災者でありながらボランティアしてる人たちへも罵声、もあった、それが記録されている。

怒鳴った人が悪い、と言ってるのでなく、そうなってしまうくらいの大変な状況だった、ってこと。

私は当時、女子寮にいて、年長者だったので、自治組織と、同じく年長の院生友達とで相談して、女子寮は 翌日みんなで西宮北口まで歩いて、帰省した。
(「西北」以東は鉄道運行していると分かり、そこまで行けばみんな何とか帰省できると把握できたので、話し合いの末、そう決断した) 

幸い大怪我人、重病人はいなかった。

残ったら配給を受けることになり、もっと困ってる地域のためにも、避難、と考えた。女子だしトイレ困るだろうし、親も心配だろうから。

後で男子寮から 女子は逃げた、と非難もあったらしいけど、年長者としてはあれで良かったかな、と思う。
1人だけ風邪で熱あった子がいて、歩かせるの辛かったけど、数名でその子の荷物持って、せめても、だった。

卒論提出日だったため、どうしても残る子も1、2人いたっけな、細かなことは忘れてしまった。


数週間して、水が戻ってから、数名ずつ、寮、学校、地域が心配、と戻り始めた。

寮母さん、調理師さんたちが寮に仕事に出てきておられると聞いて、「いてもたってもいられなくなった」と、ぼちぼち数名ずつ戻った。

みんな、帰省先から水や、不足しがちな野菜や果物を持って戻ってきた。

私も、京都の安全なとこで悲惨なニュース見てることに耐えられなくなって、戻った。

その頃には芦屋だっけかな、もう少し西まで電車復活してたので、そこからリュックに詰めた大根や白菜背負って、あの、滑り止めが敷いてあるような強烈な坂道を登って帰った。しんどかったけど、みんなに会いたい一心で頑張って歩いた。

その後はしばらく、通学路にある小学校にボランティアに行った。もう大分落ち着いていて、組織がキチンと出来て、仕事分担もなされ、うまく回っていた。

しんどくなるから悲惨な映像は見ない、思い出さないようにしてるけど、こうして振り返ったら
昨日のことのように、あの寒さとか、6本くらい火事の火柱・煙が見えたこと、西北へ歩く途中で落ちた電車の高架を見て身体が震えたこと、とか思い出す。

あの時 死ななかったんだから、なにか世の中、人のためになることせなあかんな、と再認識。

(もし、寮生でこのブログにたどり着いた方があれば、、 寮母さんはお元気で今も六甲にお住まいです。4、5年前神戸に用事で行ったとき、六甲ご自宅近くのファミレスで一緒に食事しました。お元気で見た目も若々しく、ステーキ召し上がりましたよ!

調理師さんはお元気だけど、認知症というのかな。。知り合いのこと分からなくなっておられるそうです。あの時 すぐに駆けつけて下さって、「みんな無事?! 良かったーー」と泣き出されたこと、本当に昨日のことのように思い出しますね。)