ファッションとデザイナーとの関係を考えると、彼等の修行時代も様々だが、そのあまりにも大きな変貌に驚かされる。イメージを創造するデザインがやはり楽しそうに見えるが、それこそ人生での重要度がある。

 フランスでは、ルイ・ヴィトンが1821年スイスに近い出生地フランシュ・コンテからパリまで500キロの距離を歩いてやってきて無一文ながら木箱製造工場、荷造り用箱職人1852年ナポレオン3世のお抱え職人としてバッグで成功した。ピエール・カルダンは1922年イタリアの農村で生まれ、子供の頃フランスのロアール地方に移住。1950年パリアトリエを持ちその巨額の富を築き、1970年にエスパン。カルダン劇場を開設するなど文化活動に投資し続けた。グッチの創業者グッチオ・グッチは1898年故郷フィレンツェからイギリスのホテルで皿洗い、ウエイターをしながら、旅人のカバンをヒントに帰郷し高級皮革製品店をオープンし成功した。このグッチも倒産の危機にあったが、アメリカ人デザイナー、トム・フォードの起用で再び知られる。その頃、ベルベットのヒップハガーのパンツやピンヒール、バンブーの取っ手がついたバッグの流行を作リ2002年の売り上げは15億ユーロを上回ったが、今回の2004-2005秋冬コレクションが、フォードのグッチでの最後の仕事となる。現代ブランドは巨大化し、デザイナーは知られない存在になりつつある。サルヴァトーレ・フェラガモはろくに学校も行かなかったが、早くから靴職人の修行をはじめ、12歳で故郷を出て自宅の片隅で開業。16歳でアメリカに渡り、ハリウッドの俳優の間で一躍有名になり、後はフィレンツェを拠点。19802年パリコレクションでは社会党のフランス大統領ミッテラン政権下の文化相ジャック・ラングはルーブル美術館の中庭に巨大テントを張り、お膳立てした。
もう誰もが知っていることもあるだろうが、イタリアのファション界のおさらいをしてみよう。ジョルジョ・アルマーニは1975年に会社を設立する前は、1935年イタリアのピアチェンツァで生まれ高校卒業後医者になるためにミラノ大学に入学するが、兵役のため大学を離れた頃中退し、ミラノのデパートで紳士服のバイヤー、デザイナーのニーノ・セルッティにスカウトされデザイナーになった。年下の建築家セルジョ・ガレオッティと共同経営。独自のブランドを設立した時には41歳になっていた。

ブランドの時代。

プラダは1913年にマリオ・プラダがミラノに伝統的な皮のバッグ類をつくり孫娘ミウッチャがかつて祖父マリオが使ったパラシュート用のナイロン生地ポコノを使っていたのを1970年代に復活させ、金属の鎖ショルダー、べっ甲模様の鎖ショルダーというユニークなバッグを発表した。

 ところで、このブランドというと中国でコピー製品がつくられて問題になっているが、・・・・・また、その対策になるのが、ギャランティーカードで、並行輸入業者の標的がこの3ブランドで、どれもミラノのアーケードVittorio Emanuele IIに顔をそろえた。

 ファッションの歴史2世紀のうちに、ブランドはますます大きくなり、デザイナーのカリスマは必要ない時代になった。
 デザイナーは老舗に魂を売り、広告や店舗の立地なども重要な課題となり、企業としての戦略、アルマーニはミラノに電気製品(ソニー)や書籍、花、そしてすし屋さん(ノブ)などとのマッチを考えたトータルなコンセプトのライフデザインを提案している。ただ、僕らが目指したいのは、長続きしない研ぎ澄まされた隙のないデザインではなく、それぞれの人を向上させることもデザインの役割ではないだろうか?