My HOME-15-


キョーコはソファに腰掛けて、重い溜息をついていた。
新しく手にした台本が鉛のように重く感じる。

「はぁぁぁぁー。気が重いなぁ…。」

抜擢された新しい役。
一応の台本は渡されていたものの、脚本家が拘る人物のため毎回訂正が入り、新しい台詞や動きが追加されたり訂正されたりする。
今回訂正されたシーンの撮影は3日後。
パラパラと何度読み返して見ても、キョーコの心を重くするその文字は消えることなく台本に記されていた。

「何で、ラブミー部の私にこんな仕事が来るのよ…。」

文句を言っても始まらないのは判っているがどうしても心の声がだだ漏れになってブツブツ言ってしまう。

そうしてまた再び大きな溜息をついて、キョーコは小さく呟いた。

「まさか、私からキスするシーンが入るなんて…。」

「え?」

聞こえるはずのない自分以外の声が近くで聞こえてキョーコは、ん?と思いながら振り向いた。
するとソファの後ろに目を見開いて固まっている蓮の姿を見つけて驚く。

「あ!!つ、敦賀さん?!お帰りなさい!!え?やだ!もうそんな時間?!」

キョーコは慌てて時計に目を向けた。
時計の針は22時を過ぎているところだった。

「いやぁぁぁぁぁ!!ごめんなさい!!すぐに支度しますねっ!!」

キョーコは慌てて台本を閉じると、テーブルに置いてキッチンへ駆け込んだ。

蓮はそのキョーコの後ろ姿を呆然と見送ったのち、先ほどのキョーコの言葉を反芻しながら、視線はテーブルに置かれた台本へと向いていた。



「お待たせしました。」

「いや…早いね。」

30分ほどでキョーコがリビングに現れると、蓮は着替えを済ませ、リビングのソファで寛いでいた。

「すみません。時間も時間なので簡単なものなのですが…」

「ん。充分だよ。ありがとう。」

「いえ。」

「じゃあ、冷めないうちに早速頂こうかな。」

「はい。」

二人は食事を始めた。
しかし、何と無く空気が重く感じてしまう。
蓮は何やら考えているのかいつも以上に物静かで話しかけられる雰囲気ではない。
キョーコはキョーコで、先ほどのことを反芻していた。
うっかり呟いた言葉は恐らく蓮の耳に入っただろう。

ーーー敦賀さんには…聞かれたくなかったな…。キスシーンがあること…。

思わずチラリと箸を咥えたまま、蓮を見てしまう。

ーーーこんなこと…悩んでても教えてもらうわけにはいかないし…。

蓮は黙々と箸を口に運んでいる。
その口元に思わず目が釘付けになる。

ーーーキス…か…。

ぼんやり己を見つめるキョーコの視線に気付き、蓮はチラリと見つめ返した。

蓮と目が合った瞬間、キョーコは不意にバレンタインの日のことを思い出してしまい、ボフンッと真っ赤になってしまった。

ーー頬に触れた柔らかな感触、間近で見た整った顔立ち…その全てに一瞬にして囚われたあの日。

蓮は真っ赤になったキョーコを見て驚いて目を見開く。

「…最上さん?」

「は、はわ!!はひ?!あ、お、お茶ですねっ!!すみません!!すぐにお持ちしますからっ!!」

キョーコはそう言い残すと、席を立ち慌ただしくキッチンへ逃げ込んでしまった。
蓮はその後ろ姿を最初は呆然と見送っていたが、徐に箸を置いて静かに立ち上がると、キョーコを追うようにキッチンへと足を向けた。


「もうもうもうもう!!しっかりしなさいおバカキョーコ!!あぁぁ!どうしよう!思わず逃げてきちゃった!!敦賀さんに変な子だって思われちゃったかもっ!!」

蓮がキッチンに足を踏み入れると、キョーコがキッチンで無意識のうちに盛大に独り言を言っていた。

「だってだって!!あの時のアレをあんな不意打ちで思い出しちゃうなんて!!そりゃ…キスなんてあの時のアレぐらいしか経験がないんだけどっ!!だから思い出すとしたらアレしか…!!」

「最上さん。」

「それにキスシーンがあるって敦賀さんにだけは知られたくなかったのにっ!!だってだって!思わず甘えたくなるんだもの!!敦賀さん優しいから…でもでもっ!敦賀さんに…何でもかんでも頼っていい訳じゃないんだから!!そそそそそそりゃ!敦賀さんなら懇切丁寧に教えてくれそうな気がするけど…で、でもでもっ!!何だかとっても破廉恥よぉぉぉ!!」

一体何をどんな風に想像しているのか手に覆われたキョーコの顔は真っ赤っかだ。
蓮の呼び掛けにも気付いていないキョーコに蓮はもう一度呼びかけた。

「最上さん。」

キョーコの身体がビクンッと跳ねた。
恐る恐る顔を上げたキョーコの目と蓮の目が合った。

「%#$+○¥&/@?!:/¥&£×$€%#?!」

キョーコは声にならない叫びを上げて、一気にキッチンの壁に張り付くように飛びのいて、蓮から距離をとった。

「っつっっつつつ敦賀さんっ!!な、ななななんっなんっで?!いいい、いまの!もしかして聞いて…?!」

「あ、いや…ちょっと…。」

蓮はそんな自分を意識しまくるキョーコの反応に口元が緩みそうになり、慌てて手で覆い隠すと、言葉を濁した。
コホンと一つ咳払いをして、顔を立て直すと、キョーコに向き直り警戒させないような表情を心掛け微笑んだ。

「俺で良ければ協力するよ?いつも美味しい食事を作ってくれる最上さんの為ならどんなことでも…ね?」

「え?!ええ?!で、でも…敦賀さんもお忙しいのに、そんな私なんぞの為にワザワザ…そ、それに!食事はここに住まわせてもらうための条件に過ぎませんし…!!」

その言葉に、少しチクリと針を刺された気分になりながらも、蓮は言葉を続ける。
彼女からの初めてのキスを他の男に奪われることに悶々としていたのだからこんなチャンスを逃せる訳がない。

「最上さん?そんなこと言って…本番でちゃんと出来る自信あるの?」

「そ、それは…」

キョーコはショボンと下を向いた。そんな姿を見せられては自信がないと全身で言っているようなものだ。

「何度もリテイク出して、相手役の俳優さんに迷惑かけるつもり?」

ーーー 一度でも許せないのに、何度もリテイクのやり直しなんて…たまったもんじゃない。

蓮の中で怒りが込み上げてきた。
顔も知らない相手役の男性と変われるものなら取って代わりたいくらいだ。

キョーコも蓮の笑顔の仮面の下に現れた静かな怒りの波動に気付いて若干蒼ざめる。

「そ、れは…」

「リテイクを繰り返す必要がないくらい完璧な状態にして挑みたいと思わない?」

「お、思いますけど…。」

「一人で完璧な状態に出来ると思う?」

「お、思いません。」

「俺は…いいよ?練習台になっても…。幾らでも付き合うけど?」

「そ、そんな…でも…」

「それとも何度もリテイク出してスタッフを含め皆に迷惑をかける方がいい?」

「い、いえ!!」

「じゃあどうするのが一番君にとって最善かわかるよね?」

「は、はい。」

「じゃあ君は、俺になんて言えばいいのかな?」

有無を言わさぬ笑顔でトドメとばかりに微笑めば、キョーコは蓮の思い描いた通りの言葉を口にする。

「お、お願いします!」

キョーコは蓮に誘導されるままに気付けば勢い良くぺこりと頭を下げていた。
下げた瞬間、何をお願いしてしまったのかを理解して我に返り固まる。

「うん。任せて。」

対する蓮は光輝く朝日のように神々しい笑顔を放っていた。




「えっと、じゃあ俺はソファで寝ているだけでいいの?」

「は、はい!悠斗が眠っているところにキスをするとあるので…。」

「不意打ち…か。なるほど…。」

蓮は台本を読んでいないので、キョーコの説明を受けていた。

「明美は、悠斗がほのかが好きだとわかってて、それで叶わぬ想いをここでキスに込めてぶつけてしまうんです。」

「うん。」

「そのシーンをたまたまほのかが目撃してしまって、目覚めた悠斗は明美を突き飛ばしてショックを受けてるほのかを追い掛けて行っちゃうんです。」

「最上さんが明美なんだね?」

「はい。そうです。」

「相手役の男優は?」

「星巻竜樹さんです。」

「彼か…。」

蓮は一度共演したことがある人物を思い出した。
蓮より二つ年下だが、イケメンと評判で女性にかなり人気のある人物だ。
明るいムードメーカーだが、少し軽い今時の若者という印象の男だ。
女子中高生や年下好きの女性層の人気が高く、抱かれたい男ランキングでも今年からランキングに入っていたはずだ。

「かなり気さくなお兄さんって感じの方で、現場でもとても良くして頂いてるんです。」

「とても良く?」

蓮はキョーコの言葉にピクリと反応した。

「はい。休憩中なんかも良く笑わせてくれたり、手品をみせてくれたり、ハンバーグが好きだと話したら美味しいお店知ってるから今度一緒に行こうって誘ってくださったり。」

「…へぇ。」

蓮の中で立派な馬の骨として認定される。
そんな奴を相手にやはりリテイクを繰り返させる訳にはいかないだろう。

「食事…行ったの?」

「いえ、それが…京子ちゃんは後輩だから奢るよなんて言われちゃって…それは本当に申し訳ないので、丁重にお断りしました。」

「…うん。それがいいよ。男性と無闇に二人で食事なんか行ったら、週刊誌に載せられる可能性だってあるし…」

「はっ!そ、そうですよね!!私なんかと噂になったりしたら星巻さんにも星巻さんの事務所にも迷惑かけちゃいますね!!今後誘われてもしっかりお断りするようにします!!」

「うん。その方がいいよ。あと男性が多い飲み会とかも行かない方がいい。女の子なんだから、どうしてもという時は俺を呼ぶんだよ?」

「えぇ?!そんな敦賀さんも迷惑じゃ!」

「俺はほら、社長からも最上さんの面倒見るように言われてるし。君に何かあったら俺が怒られるんだ。」

「ええぇ?!そ、そうなんですか?!わかりました!!気をつけます!!そして何処か行く時は必ず敦賀さんに報告します!!」

「うん。よろしくね?」

蓮はしっかりと今は関係ないことまでちゃっかり言葉でキョーコを丸め込むことに成功した。

上機嫌でごろりとソファに寝転がる。

「じゃあ、早速やろうか?」

「は、はいっ!!」

「いつでもどうぞ?」

ビシッと緊張しているキョーコに笑みを漏らして蓮はそっと目を閉じた……フリをする。

「わ、わかりました!!」

薄目を上げて様子を伺えば、キョーコは誰も見てないか確かめるようにキョロキョロと辺りを見回していた。
明美になっているのだろう。
そうしてそっと一つ決意をしたように息を吐いて、頭をグワシッと両手で思いっきり掴まれ、蓮は驚いて目を開ける。

「え、えっと…最上、さん?」

「え?な、何でしょうか?」

緊張がピークに達している状態のキョーコの顔はとてもじゃないがキスする顔には見えない。
どちらかといえば、腹を切られる覚悟をした表情だ。

「…この手は…」

「あ、えっと、目を閉じたら的がわからなくなりそうなので、外さないように固定しようかと…」

「…的?」

「あ…はい…」

カァァと真っ赤になって俯いてしまったキョーコを見て察する。
恐らく唇という言い方が恥ずかしから的と称して呼んだのだろう。

色々と問題だらけなので、とりあえず一度身体を起こしてため息をついた。

「あ、あのっ!や、やっぱりおかしかったですよね?!」

「うん。まぁ…そうだね?流石にこれは…。」

キョーコがガックリと肩を落とす。
蓮は慌ててフォローをする。

「だ、大丈夫だよ!最上さんは初めてなんだし、ちゃんと教えるから…。」

蓮はとりあえずそんな強い力で思いっきり両手で顔を掴んだら、いくらなんでも相手が起きてしまうし、雰囲気もなくなってしまうということを伝え、やるならこうだと、そっとキョーコの頬に優しく手を添えた。

すべすべの肌につい心が持って行かれそうになりながら指導を続ける。

「そうしてーーこう…」

首を傾け、キョーコの唇に触れる直前で寸止めをした。

「わかった?」

スッと顔を離してニッコリと微笑めば、いつの間にかソファに押し倒されていたキョーコは真っ赤な顔のまま、コクコクコクコクと勢い良く頷いていた。

キョーコと体の位置を入れ替え、再び蓮がソファに寝転がる。

「俺はいつでもいいよ?」

「は、はいっ!」

キョーコのしなやかな手がそっと蓮の頬に触れた。キョーコの顔が徐々に近付いてくる。

蓮の期待が高まり、心臓がうるさいくらい脈打ったのだが、そんなことは微塵も出さずキョーコからの接触を待つ。

しかし、いくら待ってもキョーコからの接触がないので、蓮はそろりと目を開いた。
キョーコは口を真一文字に結んでとてもキスする顔には見えないほど真剣な顔のまま蓮と10cmほど接近した距離で真っ赤になって固まっていた。

「最上さん…?」

「はっ!!すすすすすすみません!!」

キョーコは我に返ると慌てて蓮から離れ、土下座をした。
どうしてもキスをする勇気が出ないらしい。
頭を下げたまま中々顔を上げないキョーコに蓮は一つため息を落とす。

「ふぅ。まぁ初めてだからね。仕方ないとは思うけど…。」

「す、すみません!!」

「大丈夫。謝らないで。ゆっくり最上さんのペースでいいから。」

「は、はい!!」



その後、夜中の2時まで粘ってみたが、何度チャレンジしてもキョーコは途中で固まってしまい、結局この日はキスをすることが出来なかった。
また夜帰ってから続きをしようということになって、明日の朝も早い二人は寝ることとなり、この場はお開きとなった。

ベッドの中で蓮は何度も寝返りを打つ。

ーーー眠れない…。

キスをしそうでしないキョーコ。くっつきそうでいつまでもくっつかない唇。
蓮は焦らされまくった挙句、御褒美もなかったことに、只管一人ベッドの中で悶々としてしまうのだった。


(続く)


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