ちょっとずつでもブログ書いていきます。

まとまった時間が取れたら書こうと思ってるといつまでも書けないかもしれないので(笑)

 

 

>100%自分の責任て
>受け入れるのにメッチャ勇気要りますね

 

というコメントも頂きました。

 

勇気というとアドラー心理学が浮かびます。

 

アドラー心理学は勇気の心理学とも言われています。

 

アドラー心理学でも、すべて自分の責任であるという考え方になっています。

 

【アドラー心理学入門 岸見一郎著】

自分の生きた方の問題として見るとき、アドラー心理学は非常に厳しいものであるといわなければなりません。

 

昔も今もすべては自分に責任があるというような考え方は容易に受け入れてこなかったのではないか、と思います。自分の人生は他の誰も代わってくれませんし、うまくいかないときも自分に代わって問題を解決してもらえるわけでもなく、うまくいかないことの責めを自分以外の外的なもの、あるいは過去の出来事、才能、そういったものに帰することを断固拒否するのです。

 

しかし、そのようであるからこそ生きるかいもあるわけで、もしもすべてが決まっていて自分には何もする余地がないとすれば不幸(あるいは不幸だと思える事態)を前にしてただ手をこまねいて待っていることしか私たちには残されていないことになります。そうではなく自分が人生を創っているのであって、自分がこの人生の主人公であることを知ったとき、人は自分が動くしかないことを学ぶことになります。

 

自分以外のせいにすることは断固拒否するというような厳しい言葉で書かれていますね。

 

「すべて自分に責任があるというのはおかしい」というコメントやメッセージも時々あります。

 

すべてあなたの責任ですよってことではないんです。

 

それが正しいということでもない。

 

そういう考え方、物事の解釈の仕方があるという話です。

 

ある出来事があって、これは誰の責任なのか?

 

これに正解はないですからね。

 

その出来事に関わった人や環境の中では、誰の責任にも考えることが可能です。

 

そこで誰の責任にするかは選択できるとも言えます。

 

そしたらシンプルに、自分が得する選択した方がいいですよね。

 

誰の責任の考えるのが一番得かというと自分の責任であると考えます。

 

 

道に石ころがあって、つまずいて転んでケガしたとします。

 

石のせいで転んだ。石のせいでケガをした。

 

石が原因です。自分以外のせいにする考え方。

 

これも間違いではない。そういう見方も正しい。

 

ただ、そういう考え方だと、自分が反省することが出来ないですよね。

 

反省して改善できないということは、また同じように石につまずいて転ぶ可能性は変わらない。

 

石はどこでもころがっています。

 

今後また同じようなことがないように、可能性を下げるには、自分が反省して改善することです。

 

 

【もう、「あの人」のことで悩むのはやめる 玉川真里著】

私はカウンセリングと子育ては、そっくりだと思います。ケガをした時に「あそこに石があったのがいけなかったよね」と親が教えると、次に石を見つけたら、腹立たしく蹴ってしまうかもしれません。
しかしこれは、原因を環境という「他者」に押しつけている他者思考にほかなりません。本来転んだのは、石があったからではなく、石に気づかず自分がぶつかったから転んだのですから、しっかり周りを見ていれば防げたかもしれないのです。
「しっかり周囲を見ようね」とか「石がありそうな時は走らないほうがいいかもしれないよ」と注意を促せば、その後は、自分で考えて注意した行動をとれるようになるのです。
もちろん、大人を叱る場合はそんなに優しくありませんが(笑)

 

他者思考:問題を他人や環境のせいにする

 

自分思考:自分の問題として解決策を模索する

 

 

しっかり周囲を見る、石がありそうな時は走らないようにしようとか、自分自身を改善することをすれば、石につまずいてケガする可能性は下げれますよね。

 

石のせい(自分以外のせい)にするとそれが出来ないんですね。

 

石のせいにしてたら、またころんでケガするかもしれない。今後も変わらない。ケガしてさらに腹も立てて、心身ともに不健康です。

 

何もする余地がないとすれば不幸(あるいは不幸だと思える事態)を前にしてただ手をこまねいて待っていることしか私たちには残されていないことになります。

 

自分は悪くない、自分は正しい、自分は反省して改善することもないと考えていたら、不幸な出来事に対して無力になってしまいます。

 

有名な「7つの習慣」という本では、反応的な人、主体的な人という話があります。

 

反応的な人というのは、目の前の出来事に対してただ反応するだけ、ただ手をこまねいて待っていることしか出来ない人。

 

主体的な人というのは、自分以外のせいにせず、自分自身を改善して解決していく人。

 

【7つの習慣 スティーブン・R・コヴィー著】

人間の本来の姿は主体的なものである。

もし自分の人生が今までの条件づけや周りの状況にコントロールされているとすれば、それは、そうしたものに主導権を譲った結果にほかならない。

 

これが精神的に受け入れにくい概念だということは、百も承知している。特に何年にもわたって環境や他人の行動を、自分の不幸の理由にしてきた人にとっては、そうだろう。

 

誰かのせい、何かのせいにすれば、自分が周りにコントロールされる人生になってしまいます。

何かのせいで、自分の幸せが制限されてしまう。

 

ただそれは自分が自分の幸せのコントロールを誰かに譲ってしまった結果ということです。