こんにちは、祐尚です。

最高気温が10度を切っています。不思議に体調もそれに合わせるようになっています。

まだまだ、冷温度が続きます。人は、寒暖のすき間で風邪になります。中国の暦では、

一月、二月、三月が春になっています。土の中では、春の準備が、樹々たちは、蕾を膨らませて

います。『冬来りなば、春 遠からじ』の心境です。





《魂の不死》…………【ソクラテスが『パイドン』で語る魂の不死の証明は、多くの哲学の教説が
そうであるように、論理としては、さまざまな破綻をもっている。死の前において、
その教説を聞いた弟子たちも、その教説をソクラテスの言葉通りに真理とともにとろうとはしない。それを彼らは、一種の気休め、死に行くソクラテスの自身に対すると同時に彼らに対する気休めであるととる。それは、彼らにとって論理的命題としてより、心理的命題として興味があるかの
ようであった。彼は、死を魂の肉体からの分離として捉える。
この当時の哲学者は、いつも、純粋に物質から離れた魂をそれ自身として求めている。ところが、
この魂の肉体からの分離こそ、死であり、従って哲学者は、いつも、死の練習をする人であり死の
練習をしている哲学者が、実際の死が来た場合、どうしてそれを怖れる必要があろうかというのである。ここに、ソクラテスは、イデア論で解答を与える。
ギリシャ人が昔から信じた、(同じものを同じものが知る)という論理を使って、現象を知るのが
肉体であるように、イデアを知るのは、魂でありイデアが不変である限り、魂も又不変なもの、
永久なもの、不死なものであることを論証する。彼曰く、魂は、不死であり、人間が生まれて来る以前に、それ自身として純粋に存在していた。しかし、人が生まれるや否や、それは、肉体と結びついた。そこに、人間の生があるが同時に、それは魂の死である。生きている限り、魂は、肉体
の束縛をこうむり、さまざまの事に使われるが、死後、魂は、肉体を離れ、それ自身の純粋な存在に帰るはずである。魂がそれ自身として存在している場所である空高くある純粋な魂の国に行く事が出来る。】ここに於いて、ソクラテスも、往生要集の作者のように死後の極楽世界を願う人である。

しかしして、釈迦は、死後の世界を語らず、生死無常の魂を説いただけである。




仏教の思想上巻、梅原 猛より魂の不死、理性のドグマより抜粋。




合掌、感謝、安穏。