腹が立って悲しくってやり切れないんだ。
あの子の言葉が雄弁に語る本当の気持ちに、簡単に気付いてしまうから。
結婚を祝福して、自ら進んで余興のお願いを承諾して、それは私の本当の気持ちだからいいんだよ。
でも何でそんな態度を取るんだ?
何でその言葉を選ぶ?
お祝いの為に頑張るみんなの負担や苦労や、そういうのは感じないのか?
それに対して思いを巡らすことはないのか?
自分もメインとして参加するのだから、積極的に発言したり動いたりしてもいいんじゃないのか?
なぜ自分が傷つかない卑怯な言い方で相手の優しさにつけ込んで甘えるんだ?
このご時世で式を開催するリスクと、大なり小なりみんな持っているはずの不安やもどかしさに、思い至ることはないのか?
それをフォローしたり、それぞれの判断を尊重するような配慮はこんなにも出来ないものなのか?
「みんなが協力してくれるならやりたいです」
「誰も欠けずにやりたいんです」
「本音を言えば出席して欲しかったです」
「余興が素敵なものになるように頑張りましょう」
全部全部、自分のわがままじゃないか。
全部全部、自分が相手のことを考えず、他人事と思ってるから出る言葉じゃないか。
こんなことに気付くくらいなら、始めから断っておけばよかったんだ。
いいよ。
歌は私にとっての一つのイベントと思って楽しむし、運動にもなるし。
実際に出るよりは安上がりだ。
直接会って嫌な気持ちになるわけじゃないし。
ただ大人としての礼節を忘れず、これまでに感謝をするまでだ。
でも心には明確に太く消えることのない線が引かれて、君との縁が遠ざかったことを知った。
腹が立って悲しくってやり切れないけど、
これが現実だ。割り切ろう。
そしてこんなやつが勝手に自由に生きてるように、
私だって、もっと自由で自分勝手になってやるんだ。
きっとどんなに元気よく好きにやったって、私はああはなりはしないさ。
この事に憤れる私なら、色んなことに気付ける私なら、真剣に頑張れる私なら、こんな風にはならないんだ。
他の事だってそうだ。私はあんな風にやりはしない。
これまで築き上げて来た事、私の血となり肉となった経験達が、糧となった時間達が、私をきっと強くしているはずなんだ。
絶対に負けないぞ、こんな気持ちには。
絶対に成功させるんだ、絶対に諦めないんだ。
絶対、夢を叶えて、どんどん幸せになって、毎日が楽しくて、羨ましがられちゃうような時間を手に入れるんだ。
私なら出来るんだ。信じるんだ。
必ず掴み取れると。必ずその日は来るんだと。
どの日々にも意味があって、大切な経験で、
それを蓄えた私は何でもやっていけるんだって。
絶対にそうなると、信じるんだ。