最近の私は、自分のためにお金を使うことを厭わなくなって来たなと思う。


数年前までは一番安い物、そうでなくても低価格な物の中から何でも選んでいた。

ポイントサイトやアンケートサイトをひっきりなしに調べて、空いた時間で一生懸命小銭を稼いでいた。


暖房もなるべく使わないようにしていたし、それどころか、お湯を使って皿を洗うことすら贅沢に感じて出来ずにいた。

気分転換に行ったカフェだって、何かを節約した分を当てたのだ、と思わなければ後に罪悪感に苛まれていた。



こんな私が贅沢をするなんて、と自分を卑下する気持ちがどうあっても抜けなかった。

でもそれは確実に父に昔からずっと刷り込まれて来た「贅沢はいけない」「何かを成していないといけない」という価値観が影響していて、
言いようのない、底知れない不安が自動的に湧き出て来てしまっていたのだ。


それなのに経済的な豊かさは持ち合わせているという矛盾。

そのギャップが一層自分をみじめに見せて、何故こんな生活をしているのだろうという深い悲しみを飲み込み続けながら過ごす日々だった。




あれから6年程、今の私は自分にきちんとお金を使う。
自分に手間をかけてあげるのは、何よりも大切なことだと実感出来たからだ。


良いものを買うことは、それそのものの品質を向上させて何度も買い直す手間を省くことに繋がる。何より買って、使っていて気分がいい。

ちょっと素敵なアイテムが目に付くだけで嬉しくなるし、手元に良い物を置いているだけで、まるで間接的に自分自身を肯定してもらえているような気にさえなるのだ。


「自分の楽しみ、心地よさ、幸せの為に、お金を使っていいんだよ」と
私は私に許可できるようになった。




手に入れることだけではなく、その変化は手放す方にもあった。

「まだ使える物を捨てる、買い換える」という行為に、私は並々ならぬ抵抗感を抱いて来た。

もったいないという気持ち以上に、その物への執着心や「私にそんな資格はない」という自己否定の感覚がそれを許さなかった。


でも今はちゃんと捨てられる。

自分の気持ちをモヤモヤさせる状態になったものはきっともう自分には合わなくなっていて、
それを持ち続けることで生まれる小さなストレスを蓄積することは、ただ自分を疲れさせてしまうだけだと知ったからだ。



まだまだ全てがこんな風に捉えられる訳じゃないけど、
「自分の時間、労力、心地よさの為にお金を使おう」「誰かにやってもらおう」という感覚は前よりずっと身についたように思う。


ゴミの本当に細かい分別だって、余裕がある人がやればいい。節約やポイ活だって、負担になるならやらなくていい。
体力に余力がないなら、この方が模範的だとされることもやらなくていい。

だって私には余裕がないんだから。
心地よく暮らせることが何より自分を元気にさせてくれるんだから。



もっともっと、人に頼れるようになりたい。

お金を払って時間やサービスや健康や楽しみを買う。働いてくれている人に、代わりにやってくれる人に、自分に価値を提供してくれる人にその分のお金を払う。

ずっと働いていないことや、自分の家が比較的裕福なことを後ろめたく、むしろ罪悪感のようなものすら抱いて来たけど、
「売るのも買うのも経済を回すことだ」という言葉が、随分自分の中で消化されて来たのだと感じる。



自分の人生を豊かにしよう、心地よく安心出来るものにしよう、実り多く喜ばしいものにしようと望むのは、人間として当たり前の感情で

そこに罪の意識を感じることなんてないんだと思えるようになって来た、この内なる大きな変化を喜びたい。


去年私がやって来たこと、過ごした日々や学び得て来たものは、人に説明すると「毎日頑張って過ごしていた」としか言えないけど

その中で模索して探り当てた感覚、実感に落とし込んで来れた価値観、自分の生活を守ろうとする気持ちは、私にとって本当に必要なものだった。



きっとこれから色々な人との交流を再開していく内に、自分の過ごし方を語らねばならない場面はいくらでもあるだろうけど

怖気付かず、引け目に感じず、やって来たことのありのまま、感じて手に入れて来たもののありのままを話せる私でありたいなと思う。

それが何より自分の生き方への確かな肯定となるだろう。



そしてほのかに湧いて来た私の展望は
「この豊かさを、何かの力に出来ないだろうか」ということ。

長期的な視野で人生を捉えたら、いずれ大きな力となって何かを変えられるかもしれない。
誰かの力を借りて、役立ててもらえるかもしれない。

私がずっと持ち歩いて来たこの記憶や感覚や経験も、もしかしたらどこか一番必要な場所で使える場面が生まれるかもしれない。


心の成長はきっと自分の人生を生きる力を育ててくれているに違いない。