禅宗の一派である臨済宗では、瞑想中に神が見えたら神を斬り捨て、仏が見えたら仏を斬り捨てよ、と言われています。
たとえそれがものすごく明瞭で、はっきりと見えてきても、それは心のなかに湧くただの偶像であり、それを真実と思い込んでしまうと危険です。
思い込みの極端な例が、オウム真理教です。
瞑想の果てに見えるのは本物の神である、と独善的になってしまう。
独善的になると、自分はすごい、偉い、みたいな方向に行きがちになり、それが攻撃性に向いてしまったのがオウム真理教の事件の背景です。
スピリチュアルは常にこういう罠が口を開けていると感じます。
見えたから、感じられるから、て、それが本当に高度なものとは限らない。
そして、それは実験で証明したりできないから、ただの「記憶」だったり誰かの感情の残像だったりするかも知れないし。
神が見えたら斬り捨てよ
とまでは言わないけども、見えてくるものが神とは限らないことを心に留めておくほうがいいと思います。
前に、ある漫画で、こんな話がありました。
子供のころ、自分の腹がぱっくり割れていて、神と名乗る存在にはらわたまで見られてしまった、て夢を見た少女がいました。
その両親は少女の夢の話を聞いて、ものすごく喜んだそうです。
霊能一家だったその子の両親は、こどものころから神の夢を視るなんてすごい!とその子に期待した、とか。
そのときわたしはなんとなくですが
神様って自分のことを神だと名乗るものなのか?
て疑問に思いました。
神様は自分を崇めよ、とか、自分が神であるぞ~みたいな主張はされないのではないでしょうか。
霊格が上の神様であればあるほど、自分が神だみたいなことを主張しないと思います。
なぜなら、神様ていうのは存在するだけですでに神様であり、
「自称」する必要がないからです。
ここらへん難しいのですが、
「自称」芸能人と
本物の芸能人とは全然違いますよね。
本物の芸能人は人を喜ばせ、夢を見させることができる。
でも「自称」芸能人は、ただ事務所に所属して通行人の役しても自分を芸能人と言ったりもできるわけです。
スピリチュアルの罠はけっこう深いです。
こういうのは検証がしにくいから、「自称」できやすい。
わたしはスピリチュアル好きだけども、現実に比重を置きたいです。
今一番身近にいるひとが幸せに過ごせているかどうか、のほうが、瞑想中や神社で感じるビジョンよりも大切だと言い切ってしまいます。
かといって、目に見えない世界は現実と激しく相互に絡まりあっており、切っても切っても切り離せないほどにもつれあってる、とも感じます。
次男の足の痛みが「過去の記憶」から来てたのはその典型です。
https://ameblo.jp/20021130777/entry-12630144304.html
医者は高校生になるまで治らない、と言い、カリスマ整体師さんも「根が深いややこしいタイプ」と難色を示した次男の足の痛みが、神社でお祈りするとケロリと治る、とかいうような事象も、普通に起きてきます。
医者は高校生になるまで治らない、と言い、カリスマ整体師さんも「根が深いややこしいタイプ」と難色を示した次男の足の痛みが、神社でお祈りするとケロリと治る、とかいうような事象も、普通に起きてきます。
現実だけを見て、「骨が成長するまで治らない」と悲観したり、
スピリチュアル方面だけ見てやみくもにお祈りしてても、たぶん治らなかったと思います。
水をたくさん飲んだり、カリスマ整体師さんの施術を受けたり、体を緩める体操を毎晩したり、そういう方面からのアプローチも絶対に必要だったと思います。
結局、「バランス」を重んじる、これに尽きるのではないでしょうか。
わたしにとっては、見えない世界があったほうが人生が豊かになるし、広がるし、楽しいし神秘的だし、それが現実に彩りをもたらす、て思うからスピリチュアルも大切にしたいです。
最近、神社に行くたびに、お社からぼんやりと立ち上る気、というか、エネルギーというか、そんなものが何となく感じられるようになりました。
剣道してる人は、常にこの「気」を捉えてますし、全身で感じています。
もっと言えば、大勢が利用する駅や学校、それぞれのスポーツで感じられる「気迫」とか、そういうのも、感じられますよね?
気配を感じとることは誰にでもできると思います。
神社の気は、早朝の空気に似ています。
朝一番に窓を開けたあの空気、あれが一日中存在してる感じです。
一方で、昭和○年奉献、とか、「皇軍将兵武運長久」とかの文字を見たとたん、空気が重くなり、体にまとわりつくような気がしました。
大勢の人間が命を落とす戦争の必勝祈願を聞いて、神様が流した涙や受け止め切れなかった想念が渦を巻いているのです。
神社の神様は、人間が背負いきれない想念を共に浄化しようとしてくれます。
ほとんどの想念は、神様が清烈な気で浄化してくれるけど、それでも時間がかかる膨大な念も存在しています。
日本の国には神社がたくさんあって、常に古い想念を浄化してくれる神々と共存しています。
だからこそ、震災に打ちのめされても、戦争で苦しんでも、その都度前を向いて歩いていけます。
「人の記憶や念をほどいて浄化する」こと、日本人は神々と共にこれができるからこそ、いつでも復活でき、人に優しくなれるんではないかな、と思っています。