みなさんこんばんは✨絶賛スピリチュアル中のりゅうかです。

本日は軽く昨日の続きです。

昨日の記事で、「神社で目を閉じてお祈りしてると、緑の目っぽい光が見えて目が合い怖かった」ということを書きました。



そのあと少し気になり、「緑の目」てスピリチュアル的に何か意味があるのかな、とググってみると・・

「丹光」

という言葉に行き当たりました。

丹光

目を閉じたさいに、瞼の裏で見える光のこと。暗い部屋での瞑想中や眠る前などに見える。
しかし、丹光が見える人は圧倒的少数。


わたしは、「丹光」ていう言葉を初めて知りました。

でも、その言葉も意味も、オーラや生命エネルギーであることも別にそんなに興味がないのです。


何より驚いたのは、
目を閉じると普通は光が見えない(らしい)こと、です。

生まれてからこのかた、ええ年のおばさんになるまで、目を閉じたら自動的に、色んな色の光が渦を巻いたり、花開くようにきれいに咲いたり揺れたりするのは、ごく当たり前だと思っていました。

そして、普通はそんな光は見えない(らしい)てことを初めて知りました。


びっくりびっくりびっくりびっくりびっくりびっくりびっくりびっくりびっくり

えーと・・

普通は見えないものなの?

そもそも、「目を閉じたら光が見える?」なんて日常生活で人様に聞くようなシチュエーションが人生にただの一度も無かったです。

わたし的にはいつも見てて当たり前で普通のことだと思ってたので・・

試しに人生で初めて次男に、「暗いところで目を閉じたら、瞼の裏で光が見える?」て聞いてみました。


次男は、「蛍光灯の明かりは赤っぽく残るけど、それが消えたら何も見えないよ」と不思議そうに訝しそうに答えました。

・・・

・・・

え?本当に見えないの?

ちなみにGoogleの記事では、「こどもは純粋なので丹光が見えることが多い」て書いてあります。でも次男には見えない。

(ただ次男は、剣道の試合では明らかに「気の動き」が見えてますよ。試合見てたらわかる。余談ですが)

びっくりびっくりびっくりびっくりびっくり

「瞼の裏では普通は光は見えないものである」

これは、自分の人生史上最大級のショックであり驚きでした。

みなさん、これ本当なの?

本当に目を閉じたら光は見えないものなんですか?



実は、

目を閉じて神社で祝詞を唱えてたら、白い靄が瞼の裏にもくもく湧くのが普通に見えてたのですが。

両端から透明な光がさあっと集まってきて弾けたり、狼みたいな形になって縁が銀色に光っていたり、

そんなのは、

普通は見えないものなんですか?

わたしはそれをいつも、「残像のせい」「まぶたの裏の光はいつも見えるので何も特筆すべきものではない」

と思っていたけど、

これって普通は見えないものなの?



↑今朝の空。霊的な蝶々。羽を広げてらっしゃいます。天にしか存在しない高い波動でした。



ガーンガーンガーンガーンガーンガーンガーンガーンガーン


瞼の裏で光が見える考えられる理由として

・緑内障などの目の病気

・強度の近視または乱視による作用

・気のせい

などがあります。
 
わたしは生まれついての強度の近視です。子供のころは、一番前に座っても黒板の文字が見えませんでした。
  
高校三年のときコンタクトレンズをするまで、自分の顔を知りませんでした。鏡で見ても、五センチぐらいに近づけないと見えないので、自分の鼻の形や目の形は知っていても全体となるとぼんやり霞のかなただったのです。

中学時代部活でテニスをしてたのですが、ボールが、実は見えてませんでした。

勘と音とボールの走る気配だけでテニスをしてました。それでも地方大会に代表で出たりしてたけど←これって何気に凄いのかもしれない😅

目がよく見えなかったぶん

ものすごく耳がいいのは自分でもわかってました。

ボソボソ聞こえてくるあちらの音なども拾いやすくなった。

小さい頃はボソボソが怖かったけど、ガン無視してればほんとにどうってことない雑音であるのがわかり、悩まされることは無いのですが。


おねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがい



目がよく見えないぶん、他の感覚で代替してたんですよね。勘とか、気配とか、気の動きとか。

そして、この「丹光」を見ることについても、まともな視力を得られなかった引き換えに、目で見えないものを「光」として捉えることを日常的に普通に行えるようになったの

「かも」。


そんなことを思うのも、昨日、「普通は目を閉じたら光は見えない」てことを知ったから勝手に思うだけです。

わたしの場合、瞑想しなくても、明るくても、目を閉じたら自動的に光が見えます。

特に、目を閉じてしばらくして残像が消え去ったあとのほうがはっきり見えます。
 
昨日神社で見えた「緑の光」は強烈で、明らかに「存在感」にみなぎっていました。







まさにこれと同じ緑の光です。それが二つ、じっとわたしを見つめてきた。


おねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがい

実はわたしは、

神社では、目を閉じたら神様がいつも見えていたのかも知れない・・

祝詞を唱えてしばらくの間お祈りしてたら、人の形の中心透明、周囲が白っぽく、縁が虹色に光っているのが見えてたりしました。

それはあくまで「イメージ」ではなく、瞼の裏で「見えて」いたものです。

でも、それらは、わたしがテニスのボールが見えなくても勘でラリーができていたのと同じで、「神様が見える」といったある意味特別のことではない、と思い込んでいました。


ほんとは、ずっとずうっと、見えていたのかもね。目を閉じるだけで。


自分は耳で聞くタイプ、て自分で勝手に決めつけていたのかも。

昨日いただいたメッセージの

「すべては今この瞬間に存在する」

ていう意味はひょっとして、「あなたは四六時中、目を閉じるだけで目に見えないものを見ているよ」という意味だったのかも。

車のミラーが何度も変な方向にねじまがっていたのも、

「自分が見ているものは、自分が思っている以外のところにいつも存在しているよ」て意味なのかも。



半世紀、わたしと共に歩んできた「丹光」がようやくその存在を認識され、意味を持とうとしている

そのことが、今はとても嬉しいのです。


今目を閉じるとね、

白い霧のような細い光が無数に、上から下にかけて流れていますよ。

先ほどまでは、右上から左下に流れていたのですが、今は、右下から左上に向けて、龍が泳ぐように動いています。

目を閉じるたびに、光の向きが変わっています。