日常生活は普通に流れていて、でもスピリチュアル方面は只今激動中です(´・д・`)
ところで「丹光」について。
わたしは生まれてからこのかた、常に目を閉じた瞼の裏に光が見えていて、通常は光は見えるものではなく、エネルギー体とかオーラとかスピ系の光であることを全然知りませんでした。
そこで、「目を閉じて見えるものはエネルギー体」つまり神様の波動なのかどうかを調べようとしてすぐにたどり着いたのがこの記事。
目を閉じて祝詞を唱えるとすぐ光が表れてました。
わたしは常に、
見えていたんだね・・
確かに神社で見る瞼の裏の光は本当にきれいで、白い靄も人型も幻想的だったけど・・
わたしはもう半世紀、この光と一緒に生きてきて、それを特別なものとも思わず、ときどき瞼の裏に生じる特別な光の共演を楽しむだけで、
ごく普通に生きてきました。
見えるからて特別なこともなく、
運が良いわけでもない。
そして、これはよく思うのですが、こういう見て感じる力を与えられている人々の人生は、それが無い人々よりもむしろ過酷で、困難な場合が多い、という実感です。
(わたしの場合は見て感じる力が弱いからさほど困難な人生ではないけど💦)
たぶん、見えるが故に魔に魅いられたり、
正しく生きるためにわざと神々から困難を強いられたり、
人に利用されたり、
持ち上げられて人格破綻したり、
たぶんですが
この方面で能力を与えられて、それが現世的な得となって戻ってくるのは、
早くても50代半ばではないか、と。
安倍晴明も世に出たのは49才。
これは現代の感覚で言うと、70代以降。
昔は50で人生が終わってたから、80代かも知れない。
江原裕之さんも、貧しくて世に出るまですごく苦労されてたていうし、
桜井識子さんも、介護士されててブログ書かれてたし、
話に聞くとかなり壮絶みたい。
青山桃子さんも、女神様に会うまでのことをブログに書かれてるのを見る限り、並大抵では無さそう💦
知り合いにものすごく見える人がいるのですが、ストーカーに付きまとわれて引っ越しを繰り返して、今は見えることを周囲には内密にしているとのことです。
言っちゃうとまたストーカーされてしまうから💦人にすがられて依存されてしまうんだろうね。
わたしは幼い頃かなり憑依に悩まされて、
ギャンブル狂いのパチ○カスだった実の両親とは絶縁状態で、
自分の家庭を持つまではたぶんかなり苦労した部類だと思います。
多少なりとも得したと思えたのは、こどもの剣道を見ていて、自分でも不思議なくらい「気」が動くのが感じられ、「合気」とか「攻め」のような、ここを乗り越えるまでにたぶんかなりの人数が振り落とされる部分をすんなり越えさせてあげられたこと。
見えて感じられて得したと言えばこれしか思い浮かびません。
むしろ、魔と高級なものも見分けがつかず、死にかけたり、
人格破綻しかけた。
そしてこれは声を大にして言いたいのですが、
人生を形作るのは、
スピリチュアル能力ではない。
ということです。
このカテで記事をかいていて、矛盾したことを言うようですが、
人生を形作るのは、ごく地道な努力や人間関係を維持する思いやりや継続、あるいは生き方やそのもの、性格であり、
霊能力ではありません。
たぶん
日本の神々の教えは、常に身を慎み、神に恥じない生き方をするための「生き方」を教えるものであり、
霊能力はあくまで「結果的におまけとしてついてくるもの」である、ということ。
神様を見たり感じたりしたい、そのために霊能力が欲しい、そこを目的にしてしまうと、いざそれを得たとき、がっかりしてしまいます。
もちろん、お声が聞こえたり、見えることは素晴らしいことではあるけども、
それを軸に人生は作れないしもし作ったとしても、端から見ると少し痛い人だったり、本当に能力が人生に生かせるのは60越えてからのような気がします。
*その点、各種「占い」や「占星術」はある種の統計学であり、学べば合理的な答えが帰ってくるのでは、と思います。
この記事は、実は自分への戒めです。
最近急にいろいろわかりかけて混乱してる部分もあるので、肝に銘じておきたいのです。