みなさんこんにちは✨絶賛スピリチュアル中の琉風です✨
最近しつこく「前世の旅」を続けています。
前回の記事で、久しぶりに吉備津「彦」神社に行って、そのまま帰ろうとナビを設定したら、初めての道を通らされてなぜか吉備津神社の鳥居の真正面に出た、という話を書きました。
吉備津神社のほうには寄らずに帰ろうとしたのはこういう理由です。
ずうっと鍵っ子だったわたしは、自分のこどもを一人で家で待たせるのがすごく嫌で、子供が帰る前に必ず家にいてあげるようにしてたのです。
吉備津彦神社を出たのが三時前、子供の帰宅に間に合わないといけないから今日はもう帰ろう、とナビを倉敷の家に設定していたのですが、
ナビの様子がどうも変なのです。
何回かここには来たけども、こんな道通ったことのないな、と思いつつ進むと、しばらくして、どーんと吉備津神社の鳥居の正面に出てきたのでした。
そのとき、
まあ少し寄って行きなさいよ
て呼ばれた気がして、そのまま吉備津神社にも参拝したのでした。
境内はとても静かでした。ほとんど人がいません。
あー寄ってよかった、と思いました。
そのとき撮った、吉備津神社の写真。
昨日気づいたのですが、
手前右下に映ってるかた、ものすごい前のめりになってませんか?
ちなみに、この場所に階段も段差もありません。
全力失踪してる?腰をかなり曲げて歩いてるのかな・・
お年寄りの感じではないし、後ろの社殿と全然角度が違う。
小さい子の👆を引いていた?のかも、知れないけど、
他の写真では、たぶん、このかたです。
お年寄りでもなく、小さなお子さん連れでもない。
全力失踪してたわけでもなさそう。
気持ち、地面が斜めになっているのは確かですが。
まあ、前に由加神社に行ったときも、
手前の建物だけ不自然に歪んでたから、力の強い神社で撮る写真にはありがちなことなのかも知れません。
こんなのもあるしね・・
まわりは渦巻いてるのに、なぜか摂社はほぼ普通に映ってる。
それはともかく、
神社に呼ばれる、神社が参拝者を選ぶ
ということは、ひょっとして有ることかもしれない、と思ったのでした。
というのも、昨日、桜井識子さんの「吉備津神社参拝」関連のブログ記事を読んでみたのです。
この記事は前に書籍で読んだことがあるのですが、
識子さんの記事は基本書籍で読んでいるので、ブログに続編があることは知らなかったのです。
三番目の記事は、最初の吉備津神社の記事から何ヵ月も経っていて、「回想」になってます。
その中の記述に、吉備津神社へ行こうとしてナビで設定して、右折も左折も見当違いに教えられ、たどり着く前に「案内を終了します」て言われた。
さらに、吉備津神社に着くと、「核シェルターに閉じ籠られ」て、お話できずじまい。
続編の茶臼山古墳でも道に迷い、ひどい剣幕で追い返された、と書かれています。
わたしは、行こうとしてなかったのにナビが自動で吉備津神社正面に着けてくれたのです。
識子さんは何でも読み取ってしまわれるだけに、神様も見透かされるのが嫌だったのかも知れない💦
反対にわたしのような超微弱なアンテナしか持ってない、過去に仲間だった(とわたしは感じています)人間は、神様が呼んでくれたのかもしれない、と感じました。
そして、もうひとつ。
識子さんも、吉備津「彦」神社にもおいでになってたのね‼
これは嬉しかったです。
そして、その記述が、「優しい優しい慈愛に満ちた」「仏様に近い波動」「吉備津神社とはまったく違う神様」と書かれていました。
わたしもこの記事などで、吉備津彦神社を紹介しているのですが
人間の感情が圧倒的に感じられる吉備津神社と違って、吉備津「彦」神社は、ふんわり、優しい、包み込まれるような神様です。
ただ、識子さんは、「吉備津彦神社の神様は若い男性、爽やかで草食系、大人しそうな」と書かれているのを見て、わたしは、「あらら💦」と思ってしまいました。
まーわたしの超微弱アンテナでは仕方ないけども、
わたしは、吉備津彦神社は、後ろにある優しいなりをした山の「中山」がご神体だ、とずうっと思ってました。
あまりにも波動が優しく丸くてふんわりしてるし、素人に近いわたしのような者でも「高い波動」が波打つように感じられるので、山岳系神様だと思い込んでました。
元人間だったんですね・・
わたしは感じられるだけで、見えないから仕方ないか・・
このお空の輝き・・
眩しい、というのではなく、まさに「優しい」「包み込むような」光です。
ところで、スピリチュアル界において、桜井識子さんの以前と後では、かなり変わって来ましたよね。
前にも、霊能力がある人はたくさんいたと思います。
でも、そんなことうかうか口に出して言おうものなら、「頭おかしい」とか「デタラメ」と決めつけられてたから、みなさんひっそりと口をつぐんでいたのです。
でも、識子さんが世に出られてから、
「こんなことを感じた」
「あんな経験をした」
「神社の神様とお話しした」
ということが、ネット上でも堂々と言えるようになりました。
スピリチュアル界隈において、識子さんの存在は画期的だったのではないかな、と感じています。