みなさんこんばんは✨絶賛スピリチュアル中の琉風です✨

軽く昨日の続きです。

霊能力、霊的過敏のこども時代、ほんとうにロクなことが無かったという話と、今の霊的バリアが張れるようになった話です。


おねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがいおねがい

最近、話の流れ的に、「霊能力」「霊的過敏」はロクでもない、ロクなことがない、みたいな話を影響力がないわたしが(涙)が頑張って伝えてきました。

○すぐ不浄霊や想念体を拾ってしまい、太りやすいこと

○霊を乗っけるとホメオスタシス(恒常性)が失われ、体重だけでなく運気の浮き沈みが激しい。なんなら性格まで変わるほどになる。

○霊障的なものが出ると命の危険にまで及ぶ

○オーラのようなモヤモヤや色が見えることをうっかりしゃべってしまい、変な目で見られる。←あとで嘘つきと言われていたことが判明。

など

ほんとうにどう考えても、霊能力はロクなことが無かったです。実生活には全く役に立たない。


このジャンルに越してきて、ある意味驚いているのは、

スピリチュアルはものすごいキラキラしていて、ハッピーで幸運になれますよ✴開運しますよ✴


的な誤解が、蔓延しているのではないか、

ということです。

波動を高めると試練の大きさも並大抵ではないし、

降霊も当たりすぎる占いも、命を少しずつ天に差し出してるのと同じだし、


あんまりカジュアルに神霊と交わるのは、逆に波動の低いものと繋がりやすくなるのになあ・・

と、いう感じです。

えーえーえーえーえーえーえー

というのも、

たとえば、エンパス的な霊能力の話。

エンパスの人は、年がら年中、

「うまくいくように願ってる」←表の声
「失敗してしまえあんたジャマなんだよ」←裏の声

て二重の声が聞こえてるんですよ。

これがどんなに日常生活の妨げになるか、想像してみてください。

霊的過敏症の人間だと。

○体重の増減にずっと苦しめられて、摂食障害ぎみになる

○不浄霊の脅しみたいなものに簡単に脅えて、あちらの思う壺になり運気を落とす

と、これもロクなことないです。

ちなみに、わたしが霊的過敏を克服して、無視できたり、「ラジオを聞くように受け流す」ことができるようになったのは、一人で苦しんで悩んで、成人して、こどもができてからの話です。

それまでは、霊的干渉の影響で受けて運気と体重の乱高下に一人で苦しみ、親のギャンブルで拾ってきた不浄霊まで家の中にたくさん抱えて、人間であるわたしが小さくなって部屋の隅でテレビ見てるしかありませんでした。

(ちなみに親は、けっこうあった財産を一代ですべてすっからかんにして逆に人に借金して回るようになってます)


そしてそういうものに慣れてしまうと、それはそれで怖いです。

そういうものに慣れ親しんで、怖さが無くなると今度は、

霊障を受けている自覚さえ無くなって半分あの世に足を突っ込んでいる状態

が普通になってしまいます。

さらに、幼い頃の経験によって、まだ「不浄霊」と交わる道が残っているので、五十がきても油断できません。


できれば、最初からこんな道はできてないほうが、もっと現実に集中できていて、人生を楽しめたと思います。



えーえーえーえーえーえーえーえーえー

よく、

○低級霊との道は完全に塞いで、見ないようにしている

○神様に対する霊能力だけを開発する

という、良いところだけを取れると主張している人もいらっしゃるみたいですが、

それは正直

無理
ではないかな。

そのように感じるものを選べるレベルになるには、かなり苦労して工夫したり霊的バリアを実生活から編み出して、中年期以降だとおもう。

その中年期以降になっても、ふっと気を抜くととたん受け入れて食べ過ぎたりしているし。

あるいは、生まれが神主さんとか、お寺さんで、特別にご加護を受けてる家系の人とか、親が霊格を高める修行を人生をかけてしていて、こどもがそれを受け継いでいる、みたいな、ものすごくレアな環境に限って可能です。


普通の人が、神様に向けてだけ霊能力を開く、とかは、志さないほうがいいです。

これは、スピリチュアル界著名人がさも簡単に霊能力開発を語る弊害もあると思います。


えーえーえーえーえーえーえーえー


このジャンルに身を置いていて、矛盾したことを言うようですが、

わたしの場合、

神々に願い事をして許されるのは、

私利私欲なく、自分のことを度外視した願い事

のみであること、周囲との調和を乱さないこと

がラインのようです。

このラインは、人によって違うと思います。

若くても人格修養ができてる人は、自分の、願い事を叶えてもらえるかもしれないし。

ともかく、

神々はものすごく高いところにいて、人間がひょいひょい感応できるものではない

と本質的に心得ていることが必要です。

何か感応しているとしたら、神々より格の何段も下がる修行中の眷族とか、あるいはそれでさえない。

ということを念頭に入れておくのもいいと思います。

眷族のかたがたは、人間の願い事をかなえるのは修行の一種になるでしょうし。

そういうのも、神社とか、そういう場所に限るのではないかな。

凡人は、「場所の力を借りる」しかないのです。

場所の力を借りずに何かに感応するのは、

危険だと思います。


神社仏閣では、正しい願い事を一心に神々に祈る姿勢だけで十分で、

神様とお話しする

感応しようとする

のような、ある意味、

神々と自分を対等の立場に置こうとする


のは死んでから魂になって、自分の本当の霊格を知ってみると、

激しく後悔するか、

恥ずかしくて居ても立ってもいられなくなるか

今よりもっと試練の多い人生を生きることに繋がるかも知れません。

死んでみてから後悔しないよう、
純粋な気持ちで、慈悲にすがり、願掛けをするようにしたいです。