田中角栄氏は、静かに言った。「おい、お前、お辞儀をしてみろ!」田中氏の家来(秘書)になった初日、早坂茂三氏は、そのように言われた。


早坂さんはムッとした。
しかし逆らうわけには、いかない。
だから黙ってお辞儀をした。

「おい、オマエそれは会釈と言うんだヨ!お辞儀というのはこうやるんだ!」

田中氏は模範を示した。

田中氏は大臣席から立ち上がって、早坂さんの隣に立ち、



腰っ骨を直角に折り曲げ、

ひと呼吸入れてから、

ゆっくりと頭をあげた。




「やってみろ!」
早坂さんは、言われるがままに従いました。

「それでよし。今の気持ちを忘れるな! ここに座れ!」
と田中角栄氏は言いました。

早坂茂三さんは、もともと新聞記者だった。東京タイムズ(既に廃刊)の政治部記者だった。そんな折、昭和37年2月6日ロバート・ケネディ
ーが来日したのです。当然に取材するわけです。


ロバート・ケネディーというのは、後に暗殺されるケネディー大統領の実弟です。そして二人とも暗殺されるのです。あのロバートです。

中曽根康弘氏、宮沢喜一氏、江崎真澄氏、山中貞則氏などが集まった場で、政務調査会長の田中氏は言った。

「沖縄返還の前提として、日本は憲法改正を米国に提示したらどうか?」
と発言した。

早坂さんは独自のルートで掴んだこの情報を新聞に載せた。
大スクープである。

そして国会は「田中発言」で大騒ぎ。
結局のところ、田中氏は謹慎処分。

正直なところ、早坂氏は鼻が高かった。
スクープを出せたからだ。

しかし田中氏に対しては、恩もなければ恨みもなかった。
早坂氏は田中氏が目白の邸宅でしょげ返っているという噂を耳にした。

だったら、あの記事を書いたのは私です、と名乗りだけは挙げようと思った。

8日の夜でした。早坂氏が目白の田中邸に向かったのは。早坂氏は正直なところ玄関払いされると思っていた。しかし応接間に通された。


やがて田中氏が現れた。

「あの記事を書いたのは私です」
早坂氏が口を開いた。

「うん、うん、君なら顔を知ってるヨ。心配するナ。野党は俺の首をとれない。
騒ぎはじきにカタがつく。それにしてもよく来てくれた。新聞記者は書くのが、商売。
政治家は書かれるのが商売。それでいいじゃあないか」

・・・・・・・・・

「この田中という男は、本物の男だ」
早坂氏は思った。

そしてしばらくしてから、田中から「秘書官にならないか」との打診が、早坂氏の元に会ったのだ。

早坂氏は迷った。
色々な人に相談もした。
若き日の読売新聞のナベツネにも相談した。

しかし最終的には、田中氏の秘書となる。

そして初出社(?)の日の出来事が、冒頭の話なのだ。「それでよし。今の気持ちを忘れるな! ここに座れ!」


田中氏は続けた。

「新聞記者はお辞儀をされるのが商売だ。しかし世間の人たちがオマエたちにお辞儀をするのか知っているのか?

新聞記者は役に立たない知識、理屈を一杯に詰め込んで、気位ばかり高い。
ぞんざいに扱えば、すぐに逆恨みをして、悪口を言う。
言うだけでなく、書く。
頼みもしないのに、書いた上に、ご丁寧に全国に配ってくれる。

そんなことされたんじゃあ困るから世間の人は、オマエ達に頭を下げる。
あっ!貧乏神が来たっ!
腹の中では舌を出しながら、オマエ達から逃げていくんだヨ。

いいか! よく聞けっ!
オマエは今日から、お辞儀される側じゃあないんだ。
お辞儀する側なんだ!

オマエは図体もでかいが、態度もでかい。
それではオマエが困らなくてもオレが困るんだ。
いつから角栄は、あんなバカを雇ったんだと!」
早坂氏は今でも昨日のように、この情景が浮かぶと言う。

合掌。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。