つづきです










妻戸先生は公に顔を出していない。自身のプロフィールすら公表していないが、なんとなく勝手に60歳くらいだと思っていた。髭を蓄えた白髪混じりのナイスミドル。豊富な人生経験が、あの…人の感情を揺さぶるような深い表現の源になっているのだろう。

先生は一人暮らしと聞いている。

…まさか、倒れてるなんてことはないよね?!

不安で胸が苦しくなる。

失礼します と言いながら
オレは、家の中へと走り出した。


手前のドアから順に開けていく。
人の姿がないことを確認すると、奥へと進んだ。


一番奥のドアに手をかける。


「妻戸先生!」


名前を呼びながら勢いよく開けると
両手いっぱいに洗濯物を抱えた人物が
ゆっくりと…こちらを向いた。


「……あ、れ?」


そこに立っていたのは、髭を蓄えた初老の紳士でも、白髪混じりのナイスミドルでもない。


濡羽色の髪
水分を含んで、張り付いた白いシャツ

そして…
深いアメジストのような瞳


…オレは、彫刻のように整った顔をした
この人を知っていた。



「…あ……」


やっと絞り出した声は、ザァザァという雨音と雷の音にかき消されていく。


妻戸 寿門…

ツマト ジュモン


あぁ、何で気づかなかったんだろう?

ミステリ小説の常套手段
アナグラム

文字を入れ替えただけの、まるごとMJじゃないのよ。


思わず後退りしそうになって…

手に持っていた袋が、ガサッと音を立てた。


…そうだ。これは仕事。
このまま逃げ帰るわけにはいかない。


深く息を吐きだし、顔を上げた。


「妻戸先生。嵐出版の二宮と申します。
玄関で声をかけたのですが、お返事がなく、万が一にでも倒れていては大変だと勝手に上がってしまいました。申し訳ありません。
今日は大野に代わり原稿を受け取りに参りましたが、チェックさせていただいてよろしいでしょうか?」

「……」

「こちら、良かったら召し上がってください」


手土産のモンブランを渡そうと、袋を差し出したのだが、先生は微動だにしない。

受け取り手のない袋の始末に悩み…

こちらに失礼します とテーブルの上へと置いた。


無言で向かい合ったまま…
どれだけの時間が流れたのだろう。


険しい表情
明らかにピリつくオーラ

どう考えても、怒ってるよね。
呆れてる…のかも。

そりゃあそうだ。

一方的に、別れを告げて居なくなった元カレ?元カノ?が突然現れたら、そりゃあ文句の一つも言いたくなる。お前ふざけんなよって。

でも、一つだけ言い訳させてもらえるならば
一応…会社には行ってみたのよ?
通りがかった同期を見つけて、潤くんのことを聞いたけど、会社を辞めた後連絡つかないって言うし。マンションもすでに別の人が住んでいた。

オレ自身もそうだけど、この7年っていう月日は決して短くはなかったのだと、改めて感じたんだ。

……だけどさ?
この展開は予想しないでしょうよ。

元カレがベストセラー作家になってるとか
どんな冗談よ。

いろんな思いが駆け巡り、頭の中はぐちゃぐちゃだったが、オレのすべきことは決まっている。

ゆっくりと膝を折ると、パキッと乾いた音が響いた。




つづく



miu