先ずは、天皇誕生日における85歳のお誕生日をお迎えして心からお祝い申し上げます。
TVで拝聴いたしました天皇陛下から皇后様に対する心温まるお言葉には、目頭が熱くなりました。
本当に皇后さまのお優しいお姿は、菩薩様のように思えます。
この国は、真に素晴らしい国だと改めて思いました。
さて、ちょうど2年前、しばらく綴ることを休んでいたブログを始めたその時、自分の祖について特に関心はありませんでした。
それが、大日堂への参拝がきっかけで平将門公に関心を抱き、平安時代の歴史へと私を誘い、東北地方一帯を統治していた安倍(阿部・阿倍)一族が自分の祖先であることを知りえたのです。
東北の安倍氏は、奈良時代にあっては阿倍氏と姓字を用いており、現代の東北における阿部氏は江戸時代に姓字を改めたものと資料から確認ができたのでした。
つまり、平安時代に東北を統治していた安倍氏は、多くの書籍で蝦夷の豪族と記されていますが、真実はもしかするとこの日本国の王家であったと考えられるのです。
天孫降臨の舞台の高千穂よりも遥か以前に、青森の地には秩序ある文化が築かれており、戦争のない共存共栄の平和な社会がそこにはありました。
その痕跡が青森県にある山内丸山遺跡や亀ヶ岡遺跡なのです。
その遺跡にみる神の中にはアラハバキ神があります。
アラハバキ神の由来は遮光土偶がその姿などと諸説ありますが、私は武人の神だと考えます。
日本刀の各部パーツの中に、鞘から刃が軽々と抜けない留め具の役割をする重要な部分があります。
その部分を金の祖と書いてハバキといいます。
争いの絶えない大国から逃れ、この島国の地で先人民たちとの共存を選んだ人々を守るために、外敵に対して心荒ぶる時、心の留め具を外すが如く剣を抜く者たちをアラハバキと呼んだのだと私には思えるのです。
そのアラハバキの神を祀る神社は、関東の地では埼玉県の氷川神社にも存在します。
アラハバキの神と東北の阿倍一族は、出雲国を治めていたのかもしれません。
それは、時代は異なりますが歌舞伎の創始となった出雲阿国(いずものおくに)という女性がいました。
普通に読むと「阿国」は「あこく」であり、「おくに」とは読みません。
それを出雲と阿国を結び付けているのは、何かいわれがあるとしか考えられないのです。
しかも、出雲阿国(いずものおくに)は巫女であったといわれることも興味をひかれます。
また、東北弁は出雲の方言が由来とする研究書があるのは興味深いところです。
先々月に行った阿倍比羅夫を祀る穂高神社のある安(阿)曇野も、出雲より糸魚川をのぼり来た神々によって開かれたという話が残っているのです。
何も感じない人や興味のない人には見えることも、気づくことも出来ないでしょうが、出雲の国が国譲り後、滅亡して以来より日本は西日本と東日本の二国に現代も分かれているのです。
その二国の分岐点は地質学的にみれば、新潟県糸魚川市と静岡県安倍川を結んだフォッサマグナです。
この境を起点に食文化や電気の周波数は今も統一されることはなく、分かれたまま継承され続けているのです。
第二次世界大戦の中、小さな島国の日本は国の存亡をかけて大国を相手に戦いました。
その結果、日本は敗戦したものの、白人から植民地として奴隷が如く扱われていたアジア各国の人々が独立するきっかけとなったのです。
そしてその時代、威信をかけ不沈艦として建造したのが、古代から西日本の中心地の名をとった戦艦「大和」でした。
戦艦大和は、アニメで一世風靡をした宇宙戦艦ヤマトもあり、多くの人々に知られるところですが、戦艦大和と全く同じ戦艦がもう一隻存在していたことはあまり知られていません。
そのもう一隻の戦艦は、東日本で古代武士の拠点である地の名をとった戦艦「武蔵」です。
氷川神社境内の片隅には、戦没した戦艦「武蔵」乗組員の鎮魂碑があります。
話は変わり私のルーツである阿部氏の歴史を調べると、何故か古代史が意図的に隠されている様に思えてきます。
その話題については次回にして、今回は平将門公から様々な気づきを受けるきっかけにもなった「将門まつり」に2度目の参加をさせて頂きました。
「将門まつり」では、前回のおまつりで知り合いになった方と一年ぶりに再会ができて、大変楽しい一日を過ごすことができました。
今回の私の役は、将門公の影武者役です。
昨年までは、髭面で格好悪いと思っていましたが、東北の阿部氏のルーツを調べる中で中国史にみる三国志に登場する義士の関羽を彷彿するようで気に入りました。
因みに関羽の仕えた劉備の息子は阿斗(劉禅)という姓でした。
平将門公は桓武天皇のひ孫にあたり、高望王を祖とする桓武平氏の出身です。
高望王の系図についてはっきりとされていませんが、高望王の子は国香、良持、良兼、良文、良正がいました。
将門公の父は、良将と記されることもある良持(よしもち)です。
そして将門公の母は、下総国の名族であった県犬養(あがたいぬかい)氏です。
県犬養氏といえば、孝謙(阿倍内親王)天皇の祖母にあたる県犬養三千代につながることから、平将門公と阿部(阿倍・安倍)氏は関係が深いことが確かめられました。
将門公が朝廷から逆賊のレッテルを張られ戦乱となる時、東北の安倍(阿部)氏は平将門公を支援していたと考えられます。
一方、安倍(阿部)氏を滅ぼそうと動いたのは、清和天皇側の源氏です。
阿倍(安倍・阿部)氏の系譜を調べると、孝徳天皇の皇后が安倍小足姫とある書では記されており、聖武天皇の皇后は阿倍宮子(光明皇后)とも確認ができるのですが、書籍によっては「阿倍」が「藤原」に名前が表されるなど、そこにも真実を隠すような意図を感じてしまうのです。
間人皇女は飛鳥時代の皇族で、父は舒明天皇、母は皇極天皇(斉明天皇)で、天智天皇は同母妹、天武天皇は同母姉にあたるとのこと。
そして宮子(光明子)皇后には、様々な伝承があり、中でも重症の病人の膿を自ら吸って治そうしたところ、その患者は密教における東方の仏である阿しゅく如来であったというのは知られているところだそうです。
私は、まったく知りませんでしたが・・・。
更に天皇家の系譜を調べると、驚くことに第43代(661年:飛鳥~奈良時代)の元明天皇(げんめいてんのう)は女帝で、名を阿閇皇女(あへのひめみこ)で、また阿部皇女ともいうことを知り得たのでした。
和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと)で、旧字体:−豐國成姬とあるのです。
元明天皇(阿部皇女)は、天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘(姪娘(めいのいらつめ))。
持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にあたります。
大友皇子(弘文天皇)とは、異母兄にあたります。
そして、天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母でもあるのです。
私は服装から阿倍は中国の漢民族の末裔ではないかとさえ思えます。
歴史書を読み比べていて何故か違和感を覚え納得がいかないのは、阿倍氏と藤原氏の関係です。
藤原氏は百済から渡来したとの伝承があります。
ここで注意して欲しいことは、百済=韓人ではないということです。
古代の朝鮮半島は、日本から中国歴代王朝への交易ルートに当たり、漢人やペルシャ系の人々も宿坊の地として住んでいたのです。
ペルシャ系の人々が住んでいた証として、朝鮮半島にある古墳から、ローマンガラスなどが出土しているのです。
藤原氏と阿倍氏の繋がりには、謎が隠されているように思えてなりません。
例えば中臣鎌足を藤原鎌足と書き表したりと、「藤原」(物部)という姓を印象付けたいという意図が感じられるのです。
(左下が藤原不比等とされる)
つまり裏を返して推測すれば、藤原不比等は中臣鎌足の子供ではないとも考えられるのではないでしょうか。
それに比べ「阿倍(安倍)」の姓は表に出ないようにされている様に思えます。
私が読んだ書籍の内そう思えるのは多々あるのですが、例として一冊あげるとすれば「五木寛之の百寺巡礼」もその一つと言えるかもしれません。
第7巻の東北編では、中尊寺の紹介部分に写真の通り「前九年合戦で清衡の“祖先”」とだけ記されており、安倍(阿倍)氏の名は見られないのです。
ただ、参考になった文面は、中尊寺など平泉文化は清衡が開いたのではなく、「再興」と記載されていた点です。
つまり、安倍(阿倍)氏の統治していた時代から、仏教を中心とした華やかな文化が存在していたということになります。
また、「百寺巡礼」の書籍では、毛越寺に伝わる33年に一度開帳される摩多羅神と延年の舞のことを知りえたのは有難たく思いました。
摩多羅神は京都最古の寺である広隆寺にも繋がるもので、奈良の阿倍氏とも結びついてきます。
また、延年の舞(国指定重要無形民俗文化財)は、中国語とチベット語ともいわれる古語で綴られた唐拍子と呼ばれる歌に合わせて舞うもので、漢民族との関係にも繋がるものと言えます。
関連する様々な書籍を用いて多角的に調べることの大切さを本当に感じます。
そして、阿部(阿倍・安倍)氏の系譜を何故隠さなくてはいけないのか、なんとなく想像がついてくるのではないでしょうか・・。
因みに九州の阿蘇神社祭神はタケイワタツであり、神紋は阿部家の家紋と同じ鷹の羽です。
将門公を通じてこの2年間で次々に知りえる私の祖の阿倍氏。
この目には見えない不思議な導きは、いったい何処からきているのでしょうか?
母方の宮城県にある阿部家の本家が3.11の復興支援道路建築のために壊されたことにも関連している様に思えてなりません。
そして来年には年号が変わることにも関連があるやもしれません。
いずれにしても、日本の古代史にこんなにも興味を持ったことは今までありませんでした。
「将門まつり」に参加された地元の方に、私が東京都千代田区にある将門公の首塚にお参りに行ったその夜、振り起されるような激しい金縛りを体験した話しをしました。
すると地元の人から、今でも将門公をお祀りするある神社に行くと、蹄の音などが聞こえる霊現象があるということでした。
やはり強い念は、現実に存在しているのです。
将門公についてもう少しご紹介すると、今から約1100年前、富士山の大噴火により東国は大飢饉に見舞われていました。
しかし、朝廷から派遣された国司(官僚)たちは民の生活などには目もくれず、不当に税を取り立て、私腹を肥やす状態に民たちは苦しんでいたのです。
そんな世の中にあって将門公は、王族の血脈ながら農民と共に荒れた土地を開墾して民たちの危機を救っていたのです。
「一所懸命」という言葉の由来は、そこから来ているといわれています。
将門公は、弱き者たちの見方であって、私腹を肥やす公家や貴族からは邪魔な存在だったのでしょう。
その時代、福島県白河より以北の殆どを統治していた安倍(阿倍・阿部)氏は、朝廷の力が及ばない独立した国のような状態で、朝廷からは蝦夷と蔑まれながら民たちの平和を守っていました。
その東北の地を手本に坂東(関東地域一帯)の民たちの平和と安息のために東国も独立したいとの強い思いが将門公にはあったのではないでしょうか。
(茨城県坂東市・将門まつり)
また、将門公と東北の安倍(阿倍・阿部)氏の関わりについて、岩手県に将門公の姫のお墓が存在していたことから、何らかの関りがあったことは間違いないでしょう。
「将門まつり」を終えた後は、国王神社で御執印を頂きに行きました。
そこでも、地元の方から興味深いお話を頂きました。
それは、私の母方の宮城県にある阿部家が所有する山には熊野神社が鎮座しているのですが、その境内には「湯殿山」と書かれた石碑があり、山形県に何らかの関係があると思っていたところ、なんと国王神社の神職家に山形県から嫁が嫁がれたと話されていました。
来年は山形県の湯殿山をはじめ、岩手県の安倍(阿部)貞任公に関連する場所や、九州の宇佐八幡宮と阿蘇神社に行きたいと思います。
また、更なる何らかの導きがあるかも・・・。
因みに熊野神社は、熊野三山の祭神の勧請受けた神社で、平安時代から鎌倉時代初期にかけて皇族、貴族が参詣していたことから全国に広まったそうです。
源氏が平清盛公に対して挙兵を挙げたのも、熊野詣での時期を狙ってのものでした。
多くの歴史書をみると、勝者となった源氏を称えるものが多くみられます。
しかし現実は、畳の上で生涯を終えたものは安倍貞任公の弟・宗任の命を助け、また貞任公の妹の子供が奥州平泉を再興した藤原清衡に加勢した源義家公だけで、あとは親族同士の欲の争いで因果応報ともいえる報いで命を失っているのです。
今回、将門公の影武者役を頂き、出陣式の壇上に座っている時に感じたことは、将門公に感謝の思いを寄せ、今もなお盛大なお祭りで大勢の民衆が集い、偲ぶ光景に感無量な気持ちになりました。
ご縁を頂き、お世話になりました坂東市観光協会の皆様へ心から感謝の気持ちでおります。
「将門まつり」の益々のご盛況と、東坂市の益々のご発展を心よりお祈りいたします。
ありがとうございました。
海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(くさむ)す屍
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへり見はせじ
大伴家持 (宮城県多賀城址にて)