私の祖を辿ることを目的にネットを調べていると、富士山周辺に「不二阿祖山太神宮」という場所があることを知りえました。

 

 

休暇となった年末に何か新たな発見があるかもと期待して現地へ行ってきました。

 

天気も良くて温かく、睡眠不足もあったので運転中にウトウトしてしまう程の陽気でした。

 

行く途中、既に知り得ていた徐福のことを思い出し、「徐福の墓」を検索して最初に向かうことにしました。

 

先ずはカーナビに番地がヒットしなかった徐福公園。

 

住宅地で散歩中の女性に声を掛けて尋ねると、2メートルとない角を右に曲がった先に祠がありました。

 

 

小さめな徐福の像が建立されていて、人物を立体的に見ることができて嬉しく思います。

 

そして、祠の中には徐福国から海を渡ってきた乗船の模様を表した模型が飾られていました。

 

 

徐福公園は、その祠の先にありました。

 

池の湖面は凍っており、暖かな日差しを受けて輝いています。

 

 

ただ、ここでは何も感じるものや得るものがなかったので、早々に徐福の墓とされる場所へと向かいました。

 

カーナビで検索すると、徐福公園から墓までは目と鼻の先で、小高い丘の上に在りました。

 

不思議なことに私のカーナビでは、何故か「天照皇大神」と表示されているのです。

 

 

空き地に車を止めて、一人で薄暗い拝殿へと向かいました。

 

参道階段の途中には、お稲荷様が祀られている祠があります。

 

 

そして丘の上は拝殿がありました。

 

 

拝殿は木々に覆われて薄暗く、頭上にはカラスが何羽と飛び交い、少し異様な空気感を感じます。

 

 

その薄暗い境内を見て回ると、「邪馬台国王」と記るす石碑を目にしました。

 

 

私の考えでは、「邪馬台国」は元々四国にあったと推測しているだけに、訳が分からなくなってきます。

 

もし、このお墓が邪馬台国に関係する者をお祀りしているとするならば、年代的に視て卑弥呼の父にあたる者の墓とも考えられます。

 

 

そして王朝文化富士山麓周辺に在ったのではと思われるのです。

 

もし、仮説が正しいとすると、その富士山王朝文化は富士山の噴火と共にこの地から消え去って、確認ができなくなっているのかもしれません。

 

そして、このお社をお祀りする丘は、もしかすると古墳と考えられます。

 

徐福という人物は、日本国が縄文時代から弥生時代へと移る時代の人です。

 

 

その時代に記された中国の『史記』によると、徐福は「東方の海上に蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、えい州という三神山に仙人が住んでおり、不老不死の霊薬がある」と秦の始皇帝に申し出ました。

 

その結果、徐福の嘆願は受け入れられ、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に向けて海上を船出したそうです。

 

そして東方の海上にある日本へ漂着すると、蓬莱(ほうらい)を探す旅に向かいます。

 

その向かってたどり着いた先が蓬莱山と信じた富士山だったのでしょう。

 

一説によると、富士山の名称は「不死(ふし)」から「富士(ふじ)」となったともいわれているのです。

 

史記」によると徐福はその後、「広い平野と湿地を得て王となり、には戻らなかった」との記述があることから、富士山周辺を拠点に技術者集団と共に都を形成していったものと考えられます。

 

中国ではこのことが伝承されており、が滅んで北宋の王朝時代にも、政治家・詩人でもあった欧陽脩が「日本刀歌」の中に「日本人の祖である徐福を欺き、薬を採取して連れて行った若者たちとその地に長らく留まった。

 

 

連れて行った者の中には各種の技術者が居たため、日本の道具は全て精巧な出来である」(「其先徐福詐秦民 採藥淹留丱童老 百工五種與之居 至今器玩皆精巧」)という内容を書き示し、日本のことを説明する部分が存在しているそうです。

 

私の住まいがある神奈川県にも、富士山に象徴される木花咲耶姫の父である大山があり、山頂には阿夫利(あま)降り立つ)神社が鎮座しています。

 

その大山の麓には秦野(秦)と伊勢原(伊勢)の地が広がっており、その中にある神社の由来をみると、大山スサノオが降り立つと記されているのです。

 

 

そしてこの秦野市には、出雲大社(相模分祀)が大山をご神体とするように鎮座しているのも意味があるように思えます。

 

 

徐福は、海上を航海して神奈川県の西部より上陸した後、山梨県の富士吉田へと向かって定住したのではないかと考えられます。

 

その過程において、機織りや土木建築などの技術を伝えた発祥地として、とつく神奈川の地名へと成ったとも思うのです。

 

そして神奈川県の大山より北側には丹沢山系が連なり、丹沢の「」が意味する単語は、始皇帝も服用していたとする水銀を指すものなのです。

 

 

神奈川県の西部、山北から小田原市の中央を流れる川は、の祭司で重要な「」に関わる「の匂いの川」、酒匂川が流れています。

 

酒匂川で有名な人物といえば、二宮金次郎ですが、金次郎は身長が180㎝程あったそうですから安部(阿倍)貞任公や平将門公らと同じようにペルシャの血を継ぐ渡来系の武人であったと考えられます。

 

 

 

その根拠は、秦の始皇帝兵馬俑は原寸大で作られているとのことで、そこからみると日本人の平均身長が160㎝前後の古代にあって、兵士たちの身長は180㎝前後と長身だったことからも言えます。

 

 

将門伝説では、将門公の家臣であった者たちは、山北に住んだと伝えられているのです。

 

 

ヤマトタケル関東(坂東)に遠征したときに通ったとされる金太郎で有名な足柄峠には、天狗寺ともいわれる最乗寺(http://www.daiyuuzan.or.jp/が鎮座しているのも、西日本からの侵略者から守る要の関所であったのです。

 

 

他には、東京都内になっている八王子市ですが、昔は神奈川県の地域内にあって、その人の王子が住む丹沢山系から流れ下る川を相模川(さ神川)といい、その川の流域に広がる平野を「神の川」(からの)から由来して「神奈川」となるのです。

 

また、神武天皇の子で2代天皇となる綏靖天皇は、御名を「名川みみ尊」とといい、もしかすると神奈川とも何らかの所縁があるやもしれません。

 

 

話は戻り、徐福の墓を後にして「不二阿祖山太神宮」へ向かいました。

 

そこまでの距離は車で5分程、細い川沿いの道の先に在りました。

 

 

しかし、「不二阿祖山太神宮」は現在建築中の様子で、何ら気を感じることも出来なかったので参拝せずに失礼させて頂きました。

 

 

一昨年の暮れ、奈良橿原神宮に行った時と同じような気持ちになりました。

 

 

それは、私には「空っぽ」の様に感じてしまったのです。

 

 

ただ、「不二阿祖山太神宮」へ向かう途中にあった山神社敬神と入口に刻まれた石碑の場所が気になり、帰りに寄らせて頂きました。

 

山神社は、安倍(阿部)貞任公の生誕の地とされる宮城県の場所にもあり、「敬神」は前々回のブログに綴った信州阿部神社社殿内に掲げてあったので気になってしまったからです。

 

 

山神社は林の中にあるのですが、心地よい風が通り、先に行った徐福の墓の空気感とは全く違いました。

 

 

山神社の直ぐ脇に「不二阿祖山太神宮」は建築されているので、「ご神体をこの山神社にすればいいのに・・・。」と思ってしまいました。

 

 

そして山神社を後にして「敬神」と刻まれた石碑の所に向かうと、鳥居が左右に存在しているのです。

 

 

左側の鳥居には「南朝英霊社」とあり、右側の鳥居には「秦山府君大神」と掲げられてありました。

 

 

秦山府君大神から、秦の始皇帝の時代に国から渡来した徐福がこの地に都を開いたと推測できます。

 

 

石碑には何故か安倍清明と同じ五芒星が刻まれていました。

 

 

両方を参拝すると中央の奥に祠が見えたので、何の神様を祀ってあるのか分からないまま、自然と手を合わせたくなり、参拝をしてきました。

 

 

後で調べると、その中央の祠は「北東本宮小室 浅間神社・旧社」と確認ができました。

 

 

阿部(安倍・阿倍)氏は中臣(中臣鎌足の墓所は、阿武山古墳)を祖とし、忌部氏とも関係があることから南朝ということのようで、「ここに来た意味が何かあったのかな・・。」と考えさせられました。

 

 

天皇家は、南朝北朝に分かれているのですね。

 

興味がなかったので、日本史に南北朝時代があったことをすっかり忘れていました。

 

北口本宮富士浅間神社にはよくよく参拝に行くのですが、浅間神社のこんなに近い所にこのような場所が存在していたとは、正直驚きでした。

 

帰宅して大晦日から元旦のこの数日で、阿部(安倍・阿倍)の祖のことが次々と結びついて、ルーツをまとめ上げるまでになってきました。

 

そして、私が母や母方の叔母さんから氏族で、祖父が幼少のころ「天子様」、「立派様」と呼ばれていたことや、明治時代初期に亡くなった曾祖父の戒名は、坂上田村麻呂縁の寺より賜った「本源院」となる院号であること等から嘘ではないと信じるようになりました。

 

ルーツを調べる中で「」となることは、日本書紀などにみる内容は藤原氏(物部氏)が都合よく改ざんして、真実を隠しているということに気づくことです。

 

例えば、中臣鎌子中臣鎌足に置き換えて「藤原鎌足」と言い換えるなど・・・。

 

 (中臣鎌子)

 

 

奥州平泉の「藤原清衡」も、本来は阿倍(安倍・阿部)清衡と名乗りたかったに違いありません。

 

そう思うと不憫に思えます。

 

 

そして、その証拠隠しは、今も現在進行形ということです。

 

2年間でここまでのことが分かるということは、本当に不思議な導きのおかげとしか言えません。

 

母や叔母さんが元気なうちに、何とかまとめ上げたいと思います。

 

 

新しき 年の初めは いや年に 

      雪踏み平(なら)し 常かくにもが

                         大伴家持