阪神・淡路大震災から24年の今日、改めて震災でお亡くなりになった方々のご冥福を心からお祈りいたします。
あの日を思えば、私の長女が1歳になる年の出来事でした。
月日の経つのは本当に早いものですね。
以前、ブログに綴った「奇跡の鉛筆」の記事を再度ご紹介させて頂きます。
そして、ブログに綴った方と今もお手紙だけですが、繋がらして頂いていることに感謝致します。
**■2017年1月のブログ「奇跡の鉛筆」から*******************************************
一昨年のこと、私の娘が通う学校のPTA会合に出席をしていた時、校長から呼び出しがありました。
私は何事かと思いながら校長室に出向くと、そこには校長と教頭の二人が私を待っていました。
「うぁ~っ、何かいけない事でもやらかしちゃったかなぁ・・」と頭を下げ下げ、ソファーに腰を下ろすと、校長から郵便封筒を渡され、「書かれている手紙の内容に心当たりがありますか?」と尋ねられました。
封筒に書かれている差出人のご住所は「大阪府豊中市・・・」、はて?
私は何が何だか訳が分からず、取り合えず手紙を読んでみました。
冒頭に「学校の皆様へ」と始まる文章で内容は以下のものでした。
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学校の皆様へ
寒さの中、それでも草は元気に美しいみどり色に輝いています。
阪神淡路大震災から20年過ぎました。
私のペン立てに20年前のエンピツが1本ずっと机の上にあります。
金色3本、紺色3本の6画のエンピツ
紺色の面に「豊かな社会に緑のそよ風」
反対の金色の面に「神奈川県緑化推進委員会」「県立〇〇高校・(私の名前)」と
私は当時、豊中市こども会連合会で役員をしていました。
あの時、文具が支援物資として全国から送られてきて、それを私達はこども会の子供達や、困っている子供達に届けたり、又、来た文具を種類別に仕分けしたりと感謝をしながら忙しい日々を送りました。
少し落ち着いて私も7本エンピツを頂き、持ち帰りました。
その中の1本に、この名前入りのエンピツがありました。
ずっと使って名前の所まで来て何となくそこまでで名前の消えるのがいとおしくなって、そのまま立っています。
もし、当時この名前が生徒さんとしたら、今35か6かと想像します。
その年齢、社会でも家庭でも一番たよりにされる年だなあと考えます。
市こ連の役員は一昨年で卒業しましたが、人手のないカルタ大会などは手伝いに行きます。
地域ではボランティアでウロウロ(80歳ですから)しています。
自分が好きで、みんなが好きで幸せです。
仲間の役員さんで亡くなった方もいらっしゃいますが、何かをしている時、ふとみてくれてるかもしれないと思います。
つまらない手紙ですがエンピツみてると山ほど空想が生まれてね
皆様の健康と幸せを心から祈りながら
27.2.3
藤原 〇〇子
お礼が後になりましたが、震災の時はありがとうございました。
心より厚くお礼申し上げます。
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私は、直ぐに高校3年生の時に標語コンクールで受賞した時の作品と分かり、手紙を読んでいてこんな形で自分の所に戻ってきた奇跡を感じながら、何だか胸が詰まり涙が溢れて止まりませんでした。
恥ずかしい話し、娘の通う高校は進学校とは言えないどちらかというと緩い学校ですが、明治時代から在る伝統校でもあり、私の父も叔父も通った学校で私の母校でもあります。
末っ子の入学を機に初めてPTA役員に成りましたが、もし、私がPTA役員をしていなければ、このお手紙を学校で受け取ったにせよ、当時の学生を調べて連絡することはなかったと校長は述べていました。
お手紙の中では、鉛筆の名前の生徒さんは、「35、6歳」と書かれていますが、既に私は50歳を超えております。
ですから、30数年ぶりに人様のお役に立てて私の所に分身が戻って来たことを考えると、本当に奇跡としか言いようがありません。
( 授賞式当時の写真 )
そして、この方々達のご尽力を考えると、私の行っていることは本当に小さく恥ずかしくなりました。
私も人生、人様のお役に少しでも立てるように心がけて、これからも生きていきたいと思います。
今年、このお手紙の方からお年賀状を頂きました。
80歳を過ぎてお会いするのは苦手と書かれていましたが、今年早々にお会いしに行きたいと思っております。
ご縁の不思議を感じながら、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとうございます。
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己れの欲せざるところは人に施すことなかれ
孔子