(和紙人形作家:阿部夫美子さん・作)
私に閃きを与えてくださる大日如来を参拝してきました。
(大日堂・大日如来)
そこのお堂は、山門の屋根に葵御紋が掲げられているにも関わらず荒れ放題です。
本当に所在地行政の姿勢が残念に思えてなりません。
私からみたら国宝級の仏像が在るにも関わらず、なぜ荒れ放題のままなのか疑問です。
もしかすると目には見えない力によって誰もが簡単に手を出せないのかもしれません。
(東京都千代田区・将門公首塚)
平将門公の縁のある場所でもあるようですから。
さて話は変わり、母方の叔母から阿部家は中臣鎌足の末孫と聞かされてから様々な情報を調べると新たな歴史発見がみえてきました。
まず、新たな発見としては、中臣鎌足の出生地が安倍(阿倍)一族に縁のある茨城県の鹿島であったということ。
そして、安倍晴明や安倍貞任公の母が白狐であると伝承せれていますが、中臣鎌足の出生にも白狐が登場するのです。
その伝承によると中臣鎌足の名前の由来は、母が赤子を置き農作業して戻ると赤子の側に白狐が居たそうです。
心配して赤子を見ると、赤子の足元に鎌が於かれていたとのこと。
そして白狐が申すに「この子は将来、この国を背負う立派な人です。大事にされなさい。」と言い残して姿を消したとあります。
このことから「鎌足」と名が付いたそうです。
この白狐の正体は、琵琶を奏でる弁財天と崇められたペルシャ系の女性と私は考えています。
さて、母方の実家の側にある熊野神社の境内には「湯殿山」と刻まれた石碑があるのですが、湯殿山に関連する山形県の武将といえば上杉謙信が真っ先に思い浮かびます。
その上杉謙信は、鹿島の神と香取の神を祀った奈良県の春日大社と同じ名の春日城を居城とし、毘沙門天を信仰していた安倍貞任公と同じように毘沙門天(不動明王)を崇拝していました。
上杉謙信と聞くと甲冑に白い頭巾を被った姿が浮かびますが、調べると兜もしっかりあることを知りました。
今更ながら歴史に無知な自分と痛感します。
兜には自己主張を表すために前立(まえたて)という装飾を付けるのですが、上杉謙信の兜の前立には毘沙門天(不動明王)と白狐が表されています。
上杉謙信の武士道精神も鹿島神宮に縁があるだけでなく密教にもつながり、更に安倍(阿部)一族と縁のある武将であったように思えてきます。
因みに鹿島神宮の社紋は「三つ巴」で、全国に7,817社もある八幡神社と同じです。
鹿島神宮や八幡神社は古来より武人からの信仰が厚かった神社です。
そういえば私の住む神奈川県の大山にある阿夫利神社も社紋は三つ巴です。
宮城県の阿部一族は、鹿島神宮に縁をもつと考えられるもう一つの理由に、山にある母方ご先祖のお墓が日和山(日高)の近隣にあり、その山頂には鹿島御児神社が鎮座しているのです。
(所有する山には本家代々のご先祖のみの墓石が複数あり、近年に整理されました)
母方のご先祖の眠るお墓のある山の山頂には坂上田村麻呂縁の神社もあり、神社脇の林の中に坂上田村麻呂縁の石碑があります。
古代より名だたる武将が訪れていたことがうかがえます。
(坂上田村麻呂縁の石碑)
山頂にある神社は、他にも阿黒姫や阿智王とも縁があるようなのです。
(阿智王)
そして鹿島御児神社ですが、その由緒は古く、その創建の由来縁起について明らかな史料はないようですが、平安時代の『延喜式神名帳』には既にその名が見られることから国史見在社として最も由緒深い神社といえるとのことです。
ここの御祭神は、武甕槌命・鹿島天足別命の親子二神です。
武甕槌命は宮城県・塩竈神社の祭神でもあります。
(塩竈神社)
ブログを綴っていて今ふと気が付いたのですが、鹿島御児神社の社紋には3つの「菊紋」が隠されている様に見て取れます。
(鹿島御児神社・御執印)
更に御執印に押された猫の印ですが、私が知り得た情報によると「猫」には「根子」とも読み取れて「天皇」を表す隠語であるそうなのです。
そういえば安倍晴明の出生地とされる茨城県は猫島であるのも何か意味があるのかも知れません。
また不意に思いついたのが、秋田県で信仰されている鹿島様という神です。
この神の胴体には丸い飾りが3つあり、私にはこれが「菊」を表している様にしか見えません。
(秋田県・鹿島様)
鹿島は、天皇に何かしらの縁があることは間違いないといえるでしょう。
更に鹿島御児神社という名称から思い浮かんだのは、後に古事記が示すニニギ(邇邇芸命)が九州の地に降り立った鹿児島という地名です。
恐らく鹿児島の地名は、この鹿島御児が由来なのではないでしょうか。
(邇邇芸命・ニニギ)
宮城県の鹿島御児神社や塩竈神社がお祀りしている武甕槌命は、天孫降臨に際して葦原の國の平定に御功績を挙げられた神です。
振り返ると、叔母が小さい頃の思い出話しをされた時、半信半疑で聞いていた「子供の頃は天子様と言われていた。」という内容が真実味を帯びてくるので今更になって興味が湧いてきます。
(叔母と母)
私の母にそうしたことを話すと、「そんなこと関係ない。今が大事だ。」と返事が返ってきますが、そんな母も小学生の頃、学校へ行き校庭に水溜りがあると、年寄りの先生が水溜りで濡れないようにと背負ってくれて「何故だろう?」と思っていたそうで、叔母が話す「天子様」に関係があったのかもと理解した様子でした。
母によると、曾祖母は馬で村を闊歩していたそうで、やはり実家のある地域では有力な氏族であったことは間違いないようです。
そんなことを想いながら先日、日本中の神社で上げられる祝詞で「大祓詞」(おおはらいうた)をネットで観ていて発見がありました。
それは、「大祓詞」は別名「中臣祓詞」または「中臣祭文」ということを知りえたのです。
(初音ミク・大祓詞)
実家では昔、正月になると祭壇を設けて刀を手向け、独特な祝詞を上げていた様なので、中臣氏の末孫と言われたことに関連してその関係性に強く惹かれます。
その「大祓詞」の内容を読むと、日本国の起源は西から東へ統治されたのではなく、東から西へと統治がされていったと私は読み解きます。
つまり「高天原」とは宮城県であり(比定されている)、そこには神々が住み、皇が親がイザナギとイザナミに騒ぎが治まらない西の国を平定するように遣わしたのが始まりです。
その西の地こそが大倭日高見の国(大和・畿内)なのです。
神武天皇が九州の高千穂に降臨して、畿内に東征したことが日本国の起源とする中華思想的な者たちにより、日高の国・宮城県である根拠や証拠を日本書記をはじめ、鎌倉時代に編纂された「吾妻鏡」や様々な資料を隠し、それは明治時代の廃仏毀釈令にまでにも及び、全国の神社・仏閣を次々焼き払うが如く隠ぺいしたのであろうと史実について謎が解けてくるのです。
「大祓詞」の一小節目の「豊葦原」と地域は、石巻市の葦原(よしはら)だろうと私は推定します。
(宮城県葦原町)
「瑞穂の国」においてはササニシキが全国一位の生産量であるなど、古来より豊かなお米の産地であったことからも比定されます。
更に絞り込むと、瑞穂の国が指す地域は、宮城県の登米市地域であろうと私は思うのです。
(宮城県登米市)
そして「大祓詞」より「八百万の神たちを 神集へに集へたまひ 神議(はか)りに議りたまひて 我が皇御孫(すめみま)の命(みこと)は 豊葦原の瑞穂の国を安国と平らけく 治(し)ろし召せと・・・」である部分から、皇御孫は日和山(日高)の鹿島御児神社に宮を構えて住まわれていたのではないかと考えるのです。
やがて西日本の統治と安定を図るため、荒ぶる神々は太平洋側の海流にのり、宮城県側から天(あめ・あべ)の鳥舟で茨城県へ漕ぎ出たと想像します。
(宮城県・塩竈まつりより)
そして宮城より漕ぎ出た御子神である鹿島天足別命と香取神宮祖神の御子神は、共に神々の命を受けて畿内を大倭日高見の国として平定するべく出雲国の大国主の元に「国譲り」の交渉に向かったのでした。
当初、大きな争い事もなく国譲りが行われましたが、いつの時代も平穏な時が経つにつれて欲深い者が現れ、戦乱を起こすものです。
特に半島から渡ってきた民たちは、日本国に根付いていた伝統や文化を無視して天津神を軽んじて従わない為、その時代より西側では度々の戦乱が起こり、罪ごとが生じていたと「大祓詞」の内容や古事記から読み取ることができます。
後に、日本書記を編纂した藤原不比等ですが、私が思うに中臣鎌足の血を分けた子供ではなく、側近からの成り上った者であったと考えます。
現代社会でも高学歴で口だけは達者ですが、体を動かす労を嫌い、出世の為にはライバルに濡れ衣を着せるなどの画策をする輩がいるものです。
つまりは、古代から人間の本質や行いは、然程変わっていないといえるのです。
藤原不比等も悪知恵を画策すことに長けていたのでしょう。
古事記の後に編纂された日本書記には、歴史の隠ぺいや捏造が行われ、藤原の正当性を示すのものとして作り上げるのですから・・・。
もし、藤原不比等が中臣鎌足の血縁者であるならば、東日本の地に藤原不比等の痕跡が少ないのはおかしな話です。
私は、藤原不比等は畿内に築いた都から遠征することがなかったのではないかと考えます。
恐らく、陰謀を巡らせるあまり信じられる者が少なく、常に命の危機を感じていたのかも知れません。
都で色事や蹴鞠を楽しみ、外の国で行われる戦いで散った武将の首を都に晒して楽しんでいたに違いありません。
(藤原不比等・絵図)
そもそも「藤原」姓の由来は、藤の花であることは知られていますが、藤という植物は花の美しさとは裏腹に、壮樹になると他の樹木に蔓で巻き付き、養分を吸い取って樹冠を奪いとって巻き付いた樹木を死なせてしまう林業では有害植物とされているのです。
文字通り、藤原不比等は中臣鎌足の権力と地位を奪い取り、鎌足の死後に藤原鎌足とまで改名して営利を貪り尽して藤原を絶対的な地位までの仕上げたのだと私は思います。
ある書籍に高天原は宮城県と比定されていると書かれてありました。
それが本当であるならば、母方本家のお墓の戒名にみる「本源院」という院号から、「本当の源」と解釈できないでしょうか?
もしかすると阿部家は本当に天子の血筋であるのかもしれません。
嘘みたいな話ですが、本当に不思議な導きから様々なことが繋がって古代に私を誘います。
母方の祖父が長男と長女である叔母さんに口伝で「当家はは安倍貞任の末裔なんだよ」と言い残した言葉。
(祖父)
改めて東京国立博物館に所蔵されているという絵画資料を視ると天子に縁があることに気づきます。
(東京国立博物館所蔵絵巻の関連資料より)
平安時代に描かれたとされる絵巻に描かれている安倍貞任公の衣服を注意深く視ると、その柄は嵯峨天皇も好んで用いたとされる九曜菊紋が描かれているのです。
(安倍(阿倍)貞任の絵図より)
(嵯峨天皇愛用の調度品に施されている九曜菊紋)
更に安倍(阿倍)貞任公が手に持つ扇子は、皇室でも使用されている日章旗と配色が同じです。
(皇室社用車に掲げられている日章旗)
3年前に大日堂の大日如来に参拝してからというもの、次から次とご先祖について導かされる事柄を本当に不思議に思えてなりません。
探求し過ぎるとDNA検査までしないといけなくなりそうです・・・。
(江戸時代・老中:阿部正弘 伊勢守)
桓武天皇の時代より、神を敬うことを忘れ、私欲を膨らます畿内の都に住む者達によって、金が採れる東北地方の財の収奪を目的に侵略的な争い事が始まり、その戦いで多くの人々の命が失われたのです。
その時代から、畿内の人々は争いの大義に東日本に住む民を蝦夷といって野蛮人と蔑む教育がされたのでした。
畿内から押し寄せる無礼で荒くれ者な連中に対して、地域社会と民を守るために立ち向かったのが歴史書に名を遺す阿弖流為や安倍貞任公なのです。
上杉謙信公もまた国盗りの為の戦いはせず、義を貫き、国を守るために戦った武将であったことは安倍貞任公にも重なります。
宮城県多賀城に訪れた大伴家持が天子を守るために戦い、命を落とした多くの人々の屍をみて詠った和歌を基に作曲されたのが準国歌の「海ゆかば」です。
幼き頃、詞の意味も分からず歌を聴いて涙を流したものです。
今になり、その詞の内容を考えると、とても悲しい気持ちになります。
私たち日本人は先人の想いを受け継ぎ、大君と共に在ることを尊く思い、正しい日本の文化・伝統を守り続けなくてはいけないと思います。
しんみりな気持ちでYouTubeを観ていたら、元気を頂ける動画と結びついたので紹介させていただきますね!
川田愛子さんの「ああ宮城県2020」です。
健康維持のために振付を覚えようかな・・
やっぱりいいなぁ宮城県!!
そして最近、私の父方の家も阿部家に繋がる新たな発見がありました。
人は因果で生かされていることをつくづく実感しています。
国譲り 祀られましし 大神の 奇しき御業を 偲びて止まず
上皇后美智子さま