昨日、福島県に行ってきました。
(田村市のお人形様)
目的は、安倍文珠堂への参拝です。
現地へ行ってみた感想は、福島県田村市は以外に広域で、明るい気に溢れていると感じました。
そして、安(阿)倍文珠堂でも新たな発見がありました。
やっぱり現地に行かなくては分からないものですね。
(阿武隈川)
何せ私のスタイルは学者ではないので、他人がまとめた文献を読んで答えを導き出すものではなく、先ず感じえ得たものを確かめる為に文献にて紐解いていくのです。
その文献も、手に取ってこれは違うと感じてしまうと、一頁で読むのをやめて、著者を確認して「やっぱり」と納得して閉じることがしばしばです。
因みに私は霊能力やスピリチュアルがあるのか分かりません。
また、何らかの宗教団体や何某かの学会などにも入ってはいません。
ただ、ご先祖のお墓があるお寺が浄土宗なので、「南無阿弥陀仏」と手を合わせはします。
手を合わせて供養をするお念仏は、宗派を問わず、全て根源は一つで同じと思っています。
そんな自分ですが、安倍文珠堂に行った時に偶然でしょうが「おっ」と思うことがありました。
私は、音楽をUSBに記録して聴いているのですが、記録している曲のうち、安倍文珠堂手前で安倍貞任を詩う吉川団十郎氏の「白河以北一山百問」が流れたのです。
(岩手県・鬼剣舞)
私は、その曲を口ずさみながら運転して、駐車場に車を止めるタイミングでその曲は終わりました。
本当に偶然でしょうが、なんか歓迎されているような気持になって嬉しくなりました。
嘘のような本当の話しで、後で考えると不思議なことと思います。
そして安倍文珠堂の参道前に立つと、「おぉ、alltamura.TVのシオンちゃんが紹介していた場所だぁ」と感動しました。
杉並木を入ると直ぐ右手にお地蔵さんがあります。
とてもお顔がお優しい表情のお地蔵さんです。
参道へと続く杉並木は歩きやすく、時折涼しい風が吹いてきて気持ちが落ち着きます。
先に行った木幡山隠津島神社でもそうでしたが、参道の行き返りも二匹の蝶が私を導いてくれるように付いてきてくれました。
そして、いよいよ本殿です!
もう、こんなところで感動しちゃってます。
階段を上がりきると、決して大きくはない本殿ですが、その存在感は威風堂々としています。
思わず心の中で「来ましたよ」と語りました。
とにかく彫刻が素晴らしいい。
木立に囲まれているのに何故か明るく安心できる場所!
そして、ここに来て確認できたことは、安倍文珠堂は奈良県桜井市の安倍文珠院、長野県の戸隠神社や善光寺と同じ「卍」紋でした。
更に屋根をよく見ると、「鷹の羽」紋が掲げられていました。
長野県上田市の鹿教湯文珠堂の屋根には天皇家を象徴とする「菊」紋と副紋の「五七の桐」紋でしたが、本殿裏の石碑には「鷹の羽」紋と「菊」が刻まれていたので繋がりがあるように思えます。
そして、境内を見回すと奥に祠があることに気づきました。
何を祀っているのかを確認すると、そこには「明治100年記念の碑」と共に「文珠護国神社」がありました。
私は心の中で「なぜ?」と何故か納得のいかない思いになりました。
徳川時代までの日本は古来からの武士道精神が色濃く、映画「ラストサムライ」に視られるように明治時代以降は西洋の思想が全て正しいが如く洗脳され、血統などという考えは壊され弱体化されたと言っても過言ではありません。
「廃仏毀釈」の命により神社仏閣や伝承などの破壊活動を行った人々は、古代から日本に住んでいた人々ではなく、その殆どは隣国から渡来した貧しい人々によるもので、明治政府がその者たちへ賃金を支払い行わせたようです。
日本人には、こうした「罰当たり」な悪行を行うことはできないものです。
こうした悪行を行った明治政府が、護国神社を祀ることに矛盾を感じてしまいます。
廃仏毀釈を命じながらいざ他国と戦争になると、やっぱり頼り縋る処は神様なのですね。
誠に勝手なことです。
アイヌの物語の中にはフクロウの話として興味深いものがあります。
その話は「むかし、裕福な人々は、今は貧しくなっている」というものです。
明治時代までの日本は、お互いが譲り合い、助け与え合って生きていました。
神奈川県の小田原城の城主であった伊勢早雲も、庶民の為に奮起して戦い、領主に成るや税の負担を下げて庶民の暮らしを楽にしました。
早雲は当初、北条とは名乗っていないことを考えると、その戦いは私欲からくるものではなかったからなのかもしれません。
その早雲の北条氏は平家の末裔です。
そして民を大事に思う行いをした人物として古くは、仁徳天皇も「民の竈(かまど)」にみられます。
日本人の本質は、他人の為に自らの欲を我慢することができる精神性が身についているのだと思います。
しかし現代はどうでしょう・・・。
今の日本は、ガラスのコップに例えると、汲んだ透き通る水に黒い滴が一滴一滴と入り込み、汚れていくように私には思えます。
これは時代の摂理であり、受け入れなくてはならない。
しかし、この国を守る見えない力は、やがて汚れた水を浄化することと思います。
浄化の方法は分かりませんが、その時には私の体はこの世にないでしょう。
ただ、その時代を生きる人々を思うと憂いてしまいます。
今を生きる人々は本来、これから生まれてくる人々が幸せで暮らせるように知恵を使い、伝統を伝え、一生懸命に体を働かして己の魂を磨く生き方をしなくてはいけないと私は思います。
なんて、少し哲学的な話になってしまったので路線を戻しますね。
文珠菩薩様に行ったせいでしょうか、柄に似合わない偉そうなことを綴ってしまいました・・・。(;´∀`)
安倍文珠堂へ行って、私に降りてくるかの如く閃く内容を確かめることができて本当に行ってよかったと思いました。
帰るとき、文珠堂がある地域を見渡すと、「見てごらん、ここに広がる田畑は皆で力を合わせて開墾をしたのだ。」という言葉が入ってきました。
そうした思いの気持ちで車を運転して地域を廻ると、古代の人々の素晴らしさが心に伝わってきます。
福島県田村市へ行って本当によかったです。
因みに田村市の地名の由来は、坂上田村麻呂にあるのですね。
宮城県ではなかったのは残念ですが、やっぱり坂上田村麻呂の生誕地は東北だったのです。
坂上田村麻呂は、朝廷の命を受けて東北に討伐に向かったと武勇伝が広まっていますが、本来は本気で討伐に向かったわけではないのです。
田村麻呂の行った行動は、主に説得であったとも伝えられています。
その理由は、敵とする相手が同族だったからなのでしょう。
阿倍比羅夫もまた同じです。
坂上田村麻呂の場合は、田村麻呂の説得に応じて、それを信じて朝廷に赴いた阿弖流為でしたが、朝廷は阿弖流為を斬首の刑にしてしまいます。
坂上田村麻呂自身も本当に無念だったのでしょう。
(宝塚歌劇団・星組)
その深い悲しみと強い鎮魂と後悔の念から阿弖流為と蝦夷の族長の母礼を弔うために建てた寺が京都・清水寺なのです。
安倍貞任にも繋がる阿弖流為と坂上田村麻呂のはなし。
私の母方の阿部家の墓がある山には、田村麻呂所縁の石碑があります。
2年前まで先祖のことなど全く興味がなかったのに、調べると歴史の勉強にもなり興味が湧いてきます。
しかしながら、なんでこんな行動を起こすようになったのかと考えると、本当に不思議に思います。
今回廻った福島県には、観光ガイドやカーナビにも登録されていない「菊」紋や「卍」紋を掲げる神社や寺が数多くあることに気づきました。
時間があればもっと色々観て廻りたいのに、残念です。
本当に有意義な日となりました。
次回は、安(阿)倍氏に所縁のある木幡山隠津島神社と、坂上田村麻呂の所縁の田村神社を紹介したいと思います。
(木幡山隠津島神社)
(田村神社)
帰り道、東北道と圏央道の2か所で事故を目撃しました。
くれぐれも車の運転には、スピードの出し過ぎなどに気をつけましょう。
人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、
平等相互のくらしをするを以て祖来の業とす。
安倍頼時(貞任の父) 阿(安)倍一族・救生の誓理より)