福島県二本松市木幡の山に鎮座する隠津島神社に行って来ました。
この神社は769年に勧請され、明治時代の神仏分離令により厳島神社と称したものの明治35年に神社名を隠津島神社に復旧したという経緯があります。
木幡山は海抜666mあり、阿武隈高地の北辺近くに属するそうですが、「666」とは何とも言えない数字ですね。
そして地名が示すように阿武隈(あぶくま)とは、阿倍(安倍)氏から由来されていることは推測できます。
私の考えを説明すると、「阿」は阿倍(安倍)氏、「武」は武人、「隈」(くま)は曲、阿、神、久万、球磨などにも当てられ、中でも「神」という意味合いが強いように思えます。
九州の熊本は昔、「隈本」と表されていたそうで、加藤清正が「熊本」と改名したと伝えられています。
宮城県の仙台も、かつては「千代」(せんだい)と書き表されていたものを、伊達政宗が「仙台」に改めたと伝えられているのです。
こうした改名には、何らかの意図があったものと私は考えます。
そして調べて驚いたことは、「阿」も一文字で「くま」と読まれていたとのことを知りました。
それを知り、熊野神社の「熊」は、「阿」であり、阿(安)倍一族に関係する隠語ではないかと思い浮かんだのです。
私の母方の阿部家の山にも熊野神社が鎮座していることからも繋がります。
そして、本家のお墓がある場所は、昔は龍巻山といわれていた場所です。
神社に観られる龍が渦を巻いている彫刻も、阿部(安倍)家本家のお墓が在る龍巻山に関係があるように思えてなりません。
既に調べて確信していることに、熊野神社に関する「八咫烏(ヤタガラス)」は、実はカラスではないということが分かりました。
これは、またの機会で説明したいと思いまが、調べると私たちはデタラメな教えにより本当の真実を知らされていないことが多くあることに気づかされます。
かつて権威ある学者とされる人物が説いたことが間違った教えであったとしても、それを訂正しないのは何故でしょう?
確かに多くの国民は、古代のことに無関心であることは事実です。
私も2年前までは古代の歴史や先祖のこと、またルーツ等について全く興味がありませんでした。
ネットのブログ記事を読むと、私と同じように50歳代になって、己のルーツを調べる方が多くいることに気づかされます。
私は思います。
こういった人々は同じルーツであるDNAを受け継いでいる者たちであると・・。
さて、本題に戻り、なぜ隠津島神社へ行ったかというと、福島県で「阿倍神社」と検索して表示された神社であったからです。
所在地だけは事前に調べたので気軽な気持ちで向かったのですが、隠津島神社へは、車1台しか通れない道幅の山道で対向車が来ないかと到着まで不安でした。
神社へ着くと、そこはロータリーになっていて広く、トイレも併設されています。
当日は土曜日でもあり、参拝客がさぞかし多いかと思いきや、私ひとりだけでした。
ロータリーに車を止めて、参道へ向かうと急な階段が続いています。
軽い登山をする気分で誰もいない参道を登っていきます。
すると、最初に現れるのは門神社といわれるお社です。
この場所の入口には石碑があり、また正面に大きな杉の木が聳え立っています。
なんでもこの杉は、木幡の大スギと呼ばれ国指定天然記念物に指定されているとのことです。
そして大スギの脇に門神社本殿は鎮座しています。
(菊の彫刻・菊紋)
この場所は空気が澄んでいて、木立の間から望む景色は素晴らしいものでした。
門神社本殿を参拝して先に進むと、蝶が私を道案内するかのように前を飛んでくれて、不安な気持ちを解いてくれました。
そして左手に素晴らしい石積みがあり、上に2階建ての第一社務所が見えてきます。
建物の構造から宿坊のようですが、この日は誰も居ないようでした。
第一社務所を後にして先に進むと、参道脇の岩が気になり立ち止まって見てみました。
よく見ると、岩には仏様が刻まれていました。
一人で行ったからこそ気が付くことができたのでしょう。
そしてその先に見えてきたお社へ向かいました。
お社は、手前から足尾神社、白山神社、疱瘡(ほうそう)神社、八坂神社、熊野神社、養蚕神社が並んでいます。
私は手前のお社から参拝をしていったのですが、疱瘡神社を参拝した時に養蚕神社の方向から「う、う、うぅ、うぅ」と女性の声が聴こえてきたのです。
(疱瘡神社)
もう、大の中年おっさんですが、霊能者でもないので背筋がゾクゾクして、少し怖くなりました。|д゚)
(養蚕神社)
それでも奥の養蚕神社までしっかりと参拝しましたよ。
(養蚕神社の菊彫刻・菊紋)
ブログを綴るにあたり、足尾神社と疱瘡神社をネットで調べてみました。
それによると足尾神社は、茨城県に多くみられますが、中でも栃木県日光市足尾町の神社によると猿田彦に繋がり天狗のようです。
そして疱瘡神社ですが、疱瘡は天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つで、 平安時代の『続日本紀』(735年)に朝鮮半島から伝わったとあります。
当時、朝鮮半島は交易の窓口であったので、九州の筑前国(現・福岡県)の大宰府に左遷された菅原道真の御霊信仰にも関連づけられ、疱瘡は怨霊の祟りとも考えられたそうです。
その病を軽く済むよう疱瘡神を祀ったそうです。
そして、隠津島神社は九州の宗像大社の神が祀られている理由にも繋がるのです。
疱瘡神にまつわる話として、明治8年の『日新真事誌』という新聞には、疱瘡除けに赤い物を身に着けるとよいとされていた頃、本所で人力車に乗った少女がいつの間にか車上から消えたという不思議な記事があり、赤い衣服を身に着けていたことからそれが疱瘡神ではなかったのかと騒ぎになったそうです。
私に聞こえた女性の声は、もしかして疱瘡神だったりして・・・。
そして、本殿へ!
本殿は、1789年に二本松藩主の丹羽長貴公の命により造営された流れ造りの様式の社殿です。
そして社紋を見てみると、なんと「✖」です。
この「✖」の社紋は、「丹羽直違紋」(にわすじかいもん)というのですが、由来は諸説あってはっきりしません。
似ている家紋としては、島津家の紋があります。
また青森県では、キリストの墓とされる場所もあり、その地域に赤子の額へ「十字」を書く風習があります。
(赤子の額に十字を書く風習)
ネットで「バッテン」と検索すると「鷹の羽」も表されるので、もしかすると「鷹の羽」紋を簡略化したものなのかもしれません。
それに「丹羽(にわ)」とは、「二枚の羽」とも読み解けます。
無理があるかな・・・。
山の中でオヤジ一人、妄想に耽る・・・。( ^ω^)
本殿のある場所から下を見下ろすと、朱色に塗られた三重塔がありました。
内心「参拝コースを間違えてる・・・。」と思いながら、階段を下って三重塔を拝観しました。
深緑の木立の中に鎮座する朱色の三重塔のコントラストが絵になります。
少し怖い体験をしましたが、神聖なる静かな空間に一人、心が洗われる気持ちになりました。
帰り道、御朱印を頂くために山を下った場所にある第二社務所へと向かいました。
そこでのお話の中で「養蚕神社の裏側に在る鐘楼(しょうろう)へいきましたか?」と問われました。
「えっ、そんなところあるの?」
(㈱ドリームズカンパニーPR動画より)
私は下調べもせずに参拝に向かったので、境内にある重要な史跡などを見落としてしまいました。
それにしても、養蚕神社といえば女性の声が聞こえてきた方角です。
お話を伺うと、ちょうど養蚕神社の裏手側に鐘楼があるのですが、戦争で鉄が必要とされた時代、そこに吊るされている梵鐘も取り外されたそうです。
しかし、その鐘が淋しい音を奏でるので、元に戻されたという曰く付きがあるそうです。
すると、私が聞いた女性の声は疱瘡神ではなく、梵鐘からの音色だったのかもと謎が増えました。
それにしても山奥にある場所まで梵鐘を戻すとは大変な作業なのに、戻さなくてはならないと思えるほどの何かがあったのでしょうね。
(お祭りナビ動画より)
隠津島神社の第一鳥居の側に治陸寺という寺院があります。
治陸寺は、安達三十三観音の「第一札所」になっており、お顔は見えませんでしたが素晴らしい千手観音菩薩像がお祀りされていました。
寺紋は、「卍紋」と「菊紋」でした。
機会があれば、再び参拝に行きたいと思います。
そして、この地に残る安倍貞任の伝承には、源頼義、義家らと木幡の戦いで交戦中、雪が降ってきて源氏率いる軍の昇り旗がほったらかされて白く変わるや、安倍軍は白旗を揚げたと受け取り陣を引き上げました。
九年間の戦いうち、こうして何度となく源頼義らの命を助けてやったであろうか。
なんせ奥州安(阿)倍氏の信条は、「平和をもって尊しとする」なのですから。
仏を信仰する阿(安)倍一族は、非道な戦いを好まず古来からお人好しなんだよなぁ・・・。
しかし、残念なことに木幡山隠津島神社の案内書を読むと、そこには逆賊として全く逆な説明が記されていました。
内容はこうです。
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「1055年、天皇の命を受け陸奥征伐に出向いた源頼義、義家父子ら官軍勢は、戦いに敗れわずか数騎で逃れ、木幡山に立てこもった。
そして神社に戦勝を祈願した。
安倍の頼時は貞任・宗任を従え伊達信夫(だてしのぶ)に出向き陣をかまえた。
(安倍貞任・像)
その夜折からの雪で山上の木は全て源氏の白旗のようになり、貞任・宗任らの目には官軍が多数いるかに見え、戦いもせずして引き返してしまった。
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これは訂正しなくてはいけませんね。
何故なら源頼義は天皇の命を受けたのではなく、黒幕であろう関白太政大臣の藤原頼通にそそのかれ、私欲からデマを流して坂東武士を集めて戦ったのです。
もし、天皇の命を受けた官軍であるならば、大軍で押し寄せるために、戦いが九年という年月を掛けずに制圧できたはずです。
更に山上に雪が降り、その山の木々が源氏の掲げる白旗に見えて、官軍が多数いると勘違いして戦わず逃げたかのような内容も、宮城県から岩手県、青森県を領地とする安倍軍が見間違うはずはありません。
また、九年もの戦いを行い、安倍氏を討った源頼義、義家らに朝廷は恩賞を与えることがなかったのです。
なぜ、朝廷は恩賞を与えなかったのでしょうか?
それは、その戦いに大義がなかったからなのです。
源頼義はその為、安倍氏を討って得た戦利品や領地を戦いに参加した武人らに恩賞として分け与え、源氏の面目をなんとか保ったと言い伝えが残っています。
今も源頼義に信望を抱く人々は、こうした恩賞を得た者の末裔と考えることができると思います。
少し考えれば分かりそうなデマも、こうして現代に伝承され続けているのは本当に悲しいことです。
(船引町の宗像文子様、口伝に感謝致します。)
この木幡山隠津島神社へ行くことになったのは、安(阿)倍一族についての汚名な伝承を正すためであったのかもしれません。
ブログを綴っていて気が付いたのですが、木幡山隠津島神社の宮司のお名前はなんと安部さんでした!
そして先日のこと、仕事で出張中にブックオフに行きたくなり立ち寄ると、「逆説・前九年合戦史」という書籍が目に留まり購入しました。
内容は九州は大分県(豊後)にお住いの安部貞隆氏著書の本で、安部宗任(貞任の弟・異母兄弟)から35代目の血脈の家に代々受け継がれてきた秘蔵の古文書から一千年の封印を解いてまとめられたものです。
この書籍を購入して、私が感じ得ていた思いが次々と確証へと変わっていくことができました。
深い内容は次回に紹介するとして、安(阿)倍一族の新たな家紋を知ることができました。
それは、宮城県の鹽竈(しおがま)神社と出雲大社との繋がりがみえてきたのです。
(亀甲鷹羽紋)
因みに宮城県・鹽竈神社ですが、創建以来の社家は阿部家とのことです。
(宮城県・鹽竈神社)
短期間で様々なご縁で次々と明らかになる自分のルーツ。
(二本松観光連盟PR動画より)
本当に目には見えない不思議な力ってあるのですね。
「人論在世皆為妻子也。」 安(阿)倍頼時(頼良)・(安倍貞任の父)
(人の道の世にあるは、皆(みな)妻子の為にあるものなり)