今日、何気にスマホの記事をみると、「前九年の役終結の日」とありました。

 

 

その記事が気になり、先日購入した書籍で確認すると、そこには「衣川敗戦の日」と書かれていました。

 

              (平泉FAN-TVより)

 

(阿)貞任は秋深まるこの時期、美しい月を眺めて欲が支配する暗黒の世の中を大そう悲しんだに違いありません。

 

だけれども貞任のことだから、きっと天上に輝く美しい月を見上げて一句、素敵な詩を皆に詠んで聞かせたであろと私は思います。

 

 

先日購入した安倍宗任の末裔とする安部氏の書籍の文章から、心を打たれた一文がありますので紹介します。

 

 

「第二章 貞任、千年の想い」の中から******************************

 

貞任は、泥まみれのまま指令を待つ兵卒達を前にして、

 

「みんな、よく聞いてくれ。 今我々が戦っているのは、この国の平和を願うからだ。

 

 

平和とは何か、皆が毎日の仕事に生きがいを感じ、明日も妻や子の為に頑張ろうと思ってくれることだ。

 

もしお前達が、俺と一緒に死んだなら、村の仕事は誰がやる?

 

妻や子は誰が養う?  そうだろう。

 

俺のことなら心配はいらぬ。

 

俺には仏が付いている。」

 

と諭すように言った。

 

すると、観念したか、初老の頭分(かしらぶん)が列の奥から人を分け、貞任の前で跪(ひざまず)くと、「あなた様は日頃から、文字も読めぬ者たちを分け隔てなく、ご自分の家族のように思い、優しく接して下さった。

 

 

お父上と同様、お上の強要からも身を盾として守って下さった。

 

だからこそ我々はあなた様を信じ、ここまで付いてこれたのです。

 

命を惜しいなどと思った者は一人もおりません。

 

たとえ、今日ここでお別れしようとも、あなた様のことは子から孫へ、孫から子へと必ずや語り継ぎ、千年の後も、(阿)倍貞任(あべさだとう)の名を忘れる者はないでしょう。

 

どうか、ご無事で。」

 

これを聞いた者たちは、皆こらえきれず、咽び泣いた。

 

貞任の命の炎が短いことを、それとなく感じていたからです。

 

「皆どうした、泣かないでくれ。」

 

春になったらまた会おう。  きっとだぞ。」

 

そういいながら、目に薄っすらと光るものがあった。

 

「それにしても千年とはながいな、だけれども有難いことだ

 

俺も皆の事を決して忘れない。

 

千年の後もな。

 

貞任は兵卒の一人一人に声を掛け別れを告げました。

 

 

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(阿)倍貞任(あべさだとう)・享年43歳であったという。

 

今昔物語では44歳としている)

 

 

話は、先日行った福島県郡山市の話題に移りますが、ここにも(阿)倍貞任と同じようなお話が語り継がれています。

 

その民話は、「鬼五郎と幡五郎」です。

 

(鬼五郎と幡五郎・像)

 

この話のストーリーは、安倍貞任のイメージにも重なります。

 

           (Alltamura.TVより)

 

田村神社から望む田園風景に先人の想いを馳せます。

 

 

季節柄なのか、心が淋しく悲しい気持ちになってしまいます。

 

 

ここから福島県郡山市田村町に鎮座する田村神社をご紹介しましょう。

 

ここもまた、「阿倍神社」と検索してヒットした場所です。

 

この神社の主祭神は、坂上田村麻呂です。

 

田村神社の由来は、坂上田村麻呂が本尊に大元師明王(だいげんすいみょうおう)像を安置して鎮守山平寺としたのが起源とされています。

 

 

大元師明王については、古代インド神話に登場する鬼神(アータヴァカ)に由来し、中国では「荒野鬼神大将」と漢訳され、「林に住む者」または「林の主」という意味になるそうです。

 

また、密教において大元明王は、弱者を襲って食らう悪鬼神であったが、大日如来の功徳により善神へと変じて国を守護する神へと転身され、不動明王に匹敵する霊験を有したといわれる神だそうです。

 

 

もしかすると、東日本でみられる「アラハバキの神」の由来は、この「荒野鬼」が語源なのかもしれませんね。

 

 

そしてその後の東日本に登場する武人たちは、悪を懲らしめる神として大元明王不動明王らを同一身とする毘沙門天に習合して信仰したのかもしれません。

 

私はそう考えます。

 

そして文字通り、坂上田村麻呂鎮守府将軍でもあったので、そこから「鎮守山」と名付けられたのでしょう。

 

また、「平寺」からは、平家に由来されると考えられます。

 

 

私の叔母が話していましたことに、「平家も源氏も関係ないんだよ」とあります。

 

確かに歴史をみると「源平合戦」もあり、平家源氏の対立がクローズアップされていますが、(阿)倍一族の婚姻関係をみると「平家」や「藤原家」とも姻戚であり、源家とも繋がっています。

 

そうなると、坂上田村麻呂平氏の祖に当たるのかもしれません。

 

 

さて、その田村神社ですが、参道の階段で驚かされました。

 

 

階段を上り際に気づいてしまったのですが、よく見るとここの小高い山全体の表面部分には巨石を積み上げて造られているのです。

 

 

田村麻呂をただお祀りする目的であれば、ここまでの大規模な工事は行わないはずです。

 

 

ここまでの石工の技術の高さを視ると、田村麻呂の生きた時代以前に造られたものであると考えられ、恐らくは田村麻呂の出生地が田村市との伝承もあることから、田村麻呂の先祖がここに城を築いていたのではないかと推察されます。

 

階段を上りきると山門が現れます。

 

 

その山門には仁王像が睨みを利かしています。

 

その山門をくぐり振り向くと、そこには足を投げ出した格好で座っている右・左大臣の像があります。

 

 

右・左大臣の像が本殿の方角に向いているのは珍しいと私は思いました。

 

 

そして太鼓が中央の天井に吊るされている舞台のような建物を抜けると本殿が鎮座しています。

 

 

社紋を視ると、「三つ巴紋」と「葵紋」でした。

 

恐らく江戸時代にあっては、徳川家からも大事に信仰されていた神社であったものと思われます。

 

 

そしてこの神社で重要に思ったのは、諏訪大社同様に境内に相撲の土俵があること。

 

 

そして、前回紹介した木幡山隠津島神社と同じに養蚕神社をお祀りし、彫刻は龍が渦を巻くものでした。

 

 

更に興味深いのは、石造りの祠の彫刻です。

 

 

これらは古代の神々の謎を紐解くカギとなるものと思いますが、ブログの字数も増えて、まとめるのも大変な作業になってしまうので、この辺で切り上げたいと思います。

 

 

最後は安倍貞任のことを少しだけ綴りますね。

 

 

昨年、宮城県安倍貞任の出生地とされる場所に行ってきたときの話です。

 

安倍貞任毘沙門天を信仰していました。

 

 

また、貞任自身も毘沙門天の化身と言われていたそうです。

 

私の母方の実家の側に、その貞任縁のお堂があります。

 

お堂の在る場所は、まるでお堂を守るように集落になっています。

 

私が行った時、その集落の住人の誰一人とも会わず、更にはお堂の扉は鍵が外されていました。

 

私はそのお堂に招かれるように上がりました。

 

 

そこには、優しいお顔の毘沙門天像が「よく来たな。」と言わんばかりに鎮座していました。

 

 

お堂の中は、安らぎを感じられる空間で、心から有難く思いました。

 

 

ただその時の私の目には、その毘沙門天像が安倍貞任に見えました。

 

安倍貞任は、本当に優しいお人柄であったと思います。

 

 

後で考えてみると、お堂の在る集落の住人に一人すら合わなかったことや、お堂の扉の鍵が何故開いていたのか不思議に思います。

 

私は先祖の顔に泥を塗るような生き方をしないように、残りの人生を生きていきたいと思いました。

 

 

ありがとうございます。

 

 

みや人に 見せばやいかにめずるらん 

   日和の山の秋の夜の月