私のルーツを知って、その安倍貞任の最期がこの時期であったと想うと感慨深いものがあります。

 

 

そもそも前九年の役の発端は、源頼義の私欲によるものからなのです。

 

陸奥話記」によると、源頼義が陸奥守として5年の任期を終えて都へ帰る別れの祝宴の夜に発端となった事件が起こります。

 

その事件とは、源軍の武将の一人で藤原光貞(みつさだ)の兵馬が何者かによって殺傷されたというもの。

 

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源頼義藤原光貞に犯人を問うと、光貞は「安倍頼時の次男貞任は先年、私に妹を妻にくれと言ってきた。」

 

「その時私は、賤(いや)しいお前なぞに妹をやれるか、と断った。」

 

「それ以来、貞任はいやしめられたと悔しがっていた。」

 

「だから貞任にちがいない。」

 

「貞任以外にこのようなか仇(あだ)をする者は他にない。」と答えた。

 

ここにおいて将軍・源頼義は怒っていわく。

 

貞任に間違いない。貞任を処刑する。貞任を差し出せ!」と言って戦に発展したというのが経緯と語り継がれています。

 

 

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この言い掛りは、現代になっても物語として安倍貞任を侮辱し、品格を損なう内容で語り続けられているのです。

 

真実は、安倍貞任には妻子もあり、伝説となった千代童子丸という素晴らしい息子もいたので、武士道を重んじる一族にとって色事で人を恨み、なんの罪もない馬を殺すようなことは絶対に無いといえます。

 

藤原氏といえば、藤原不比等をはじめ欺瞞の代名詞のように思えてなりません。

 

 

中臣鎌足と血縁ではないにも関わらず、出自を装う為に藤原鎌足中臣鎌足の死後に名前を変えて実権を握り続ける一族とはそもそもの人格が異なるのです。

 

こうした源頼義の言葉に、彼らの横暴に耐え忍んでいた貞任の父・安倍頼時は、堪忍袋の緒が切れたのでした。

 

 

ましてや、息子の貞任にありもしない濡れ衣を着せ、陸奥守の任期が切れたうえ朝廷の命令がないのに戦いを仕掛けてきたのですから。

 

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安倍頼時いわく「人の道の世にあるは、皆妻子の為にあるものなり。

 

貞任我が子なり。

 

父子の愛を棄てて忘れること能(あた)わず。」(あたわず=できない)

 

安倍軍、皆いわく「我ら統領の言うことその通りである。」

 

 

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こうして前九年の役は発起したのでした。

 

 

勝てば官軍」という言葉が古代からあるように、源氏は誉れ高き武将のように云えれていますが、事実はそうではないと私は思います。

 

それは、源頼義軍についていた藤原経清(つねきよ)が安倍軍に寝返り、安倍貞任の妹・有加と婚姻を結びました。

 

 

このことに腹を立てていた源頼義は、戦いで藤原経清を捕まえて処刑するのです。

 

その処刑の方法はというと、刀の刃をボロボロにして切れにくくした鈍刀で、時間をかけて少しずつ切ってなぶり殺すというものでした。

 

こうしたやり方は、中国の拷問を連想させます。

 

他にも頼義の行いというと、ある兵士が「腹が減っては戦にならぬ」と戦の始まる前に粥を食べて出陣しました。

 

しかし、その戦いで敵兵に腹を切られ討ち死にすると、腹から食べた粥がはみ出したそうです。

 

戦いが終わって頼義はその兵士を見るや、「武士としてあるまじき見苦しい死にざまよ」と言い放ち、屍を足蹴りしたということも記されています。

 

こうした行いは、「陸奥話記」に載っているところで、武士道精神から外れ、大将のとるべき態度ではなく、小人の怨嗟の行為として頼義の人間性を伝えているものです。

 

その源頼義は晩年になって多くの人々を殺め、数々の悪行を悔い改めるかのように出家して僧侶となったということです。

 

 

因みに頼義に鈍刀で斬首された藤原経清の妻となった貞任の妹の有加は、後の奥州平泉藤原清衡を生みます。

 

             (平泉FAN-TVより)

 

そして、有加経清亡き後、安倍軍を裏切った同族の清原氏の元に後妻として嫁ぎ安倍氏の血脈を繋げるのです。

 

             (平泉FAN-TVより)

 

結局、安倍軍を裏切った同族の清原軍は親族同士の争いとなり、それが発端で後三年の役に発展し、源義家軍によって滅亡させられます。

 

まったく皮肉なものです。

 

 (森鴎外・著)

 

三男の安倍宗任(貞任の異母兄弟)については、前九年の役で投降して年齢の近い源義家に助けられる形で命拾いをしたようです。

 

英雄視される義家ですが、調べると教養は乏しかったらしく、大伴家持らが教育したとの話もあります。

 

安倍貞任源義家との戦いの中で和歌を詠む場面が語り継がれていますが、実際のところは義家にはそれだけの和歌を嗜むまでの能力はなかったものと思われます。

 

 

その根拠として、源義家貞任との戦いの中で詠ったとされる「衣の館(たて)は綻(ほころ)びにけり」以後、彼が残した和歌はみられないのです。

 

               (平泉FAN-TVより)

 

この義家の母は、桓武天皇に縁を引く桓武平氏で、上野守(こうずけのかみ)の平直方(たいらのなおかた)の娘であるとのことです。

 

 

清和天皇の縁として台頭した清和源氏ですが、結局は欲に駆られて血族間での争いが絶えず源氏は没落していきます。

 

鎌倉幕府滅亡もそうした争いが原因といえるのではないでしょうか。

 

その中で、安倍氏に内心こころを寄せていた源義家の最期は、畳の上で往生できたそうです。

 

これは、因果応報といえます。

 

 

平氏の血をひく源義家には、義綱義光という二人の弟がいました。

 

そのうち三男の義光は、系譜をたどると武田信玄に繋がっているのです。

 

武田信玄は、源氏と平氏の両方の血を受け継いでいることがわかりました。

 

 

やはり、私の母方の叔母が私に話したように、「源氏平氏も同じなんだよ」という意味が分かたように思えます。

 

源義家について、は八幡太郎義家という名前があり、八幡神社といえば源義家を思い浮かべる方もおられると思います。

 

その八幡太郎義家のいわれは、八幡神社元服(げんぶく)したことに由来しているのです。

 

 

義家の弟で次男の義綱にあっては、賀茂神社で元服して賀茂次郎と呼び、三男の義光は、新羅(しんら)明神で元服したので新羅三郎とつけているだけの事なのです。

 

元服とは、奈良時代以降に成人(11歳~16歳)になったことを示すものとして行われた儀式のことをいいます。

 

八幡太郎義家とは、後の信奉者が義家を武人の神の如く偉そうにつくり上げ呼んだものだったのでした。

 

前九年の役で、安倍軍は何度となくその源頼義頼家親子の命を助け(見逃して)ています。

 

 

これは前回のブログの中でも紹介した通り、福島県の木幡の戦いもその一例です。

 

戦いを頑なに拒んできた安倍氏の思いは、戦になると開墾をしてきた田畑は荒らされ、罪なき多くの者たちまでが巻き込まれるのを避けたかった為なのです。

 

日々の喜びと平和に暮らす罪なき人々が、欲に目がくらみ暴悪となった者たちによって掛け替えのない大切な命が奪われて、その争いによって多くの子供たちが飢えに苦しむことが目に見えていたのです。

 

 

しかし、人間という生き物は怖いものです。

 

時の勢力によって損得を判断し、道理が間違っていると知っていても勢いがある方に加担してしまうものです。

 

そんな暗黒の世界にあっても、道理を重んじて、どんな状況下でも命を懸けて曲げることなく貫く精神こそがが武士道の基となる「」の精神なのです。

 

安倍一族の精神は、武士道精神の礎となるものと私は思っています。

 

 

安倍貞任の最期について「義経記(ぎけいき)」という古書に次のように記されています。

 

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貞任は、剣を抜いて官軍に斬りかかった。

 

官軍は鉾(ほこ)をもってこれを刺した。

 

大楯にのせて6人で将軍の前に担いできた。

 

その長(身長)は、6尺有余(約1.8m)容貌魁偉(かいい=人並み外れてたくましい)で皮膚は肥白(ひはく=こえて色白)であった。

 

 (安倍貞任・絵図)         (貞任の衣柄・菊九曜紋)

 

将軍、罪を責めた。

 

貞任、一面して死んだ。

 

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一面して死すとは、罵倒する頼義を最後の力を振り絞って睨みつけたて絶命したのであろうと読み解けます。

 

この一文で貞任の無念さが強く伝わってきます。

 

 (赤坂迎賓館・屋根彫刻)

 

貞任の首は、1063年2月16日に藤原経清安倍重任の首と共に、近江国甲香郡(おおみのくに・こうがごおり)に送られたそうです。

 

現在でいえば、滋賀県の琵琶湖の南側に位置するとのこと。

 

この護送に当たったのは、藤原季俊と軍曹の物部長頼、そして歩兵二十人余りであったと記されています。

 

その護送に当たり官軍側が記録に残した「陸奥話記」には、安倍貞任の死を悼むエピソードが記されています。

 

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貞任の首を運ぶ者は、貞任に仕えた投降者であった。

 

一行は京都に入る前に一休みをとり、いでたちを整えた。

 

 

その時、貞任の従者であった者が首筒から首を取り出して、その顔や髪を洗った。

 

そして官軍の使者である藤原季俊に「髪が乱れているので、櫛(くし)でけずりたく、櫛をお貸し願いとうございます。」と願い出た。

 

すると藤原季俊は、憮然として「お前たちに貸す櫛など持ってはおらんわ。」と言い放った。

 

従者は黙って自分の櫛を取り出し、貞任の首の髪をすすり泣きながらけずりつぶやいた。

 

「我が主君(貞任)が生きておられたとき、私たちは主君を天日の如くにあおいでいた。」

 

 

「それを今は、私の如き者の垢のついた汚い櫛でけずるとは、なんてかたじけないことであろう。」

 

「もったいないことだ。」と泣き偲んだ。

 

 

この言葉に、一行を見物に取り巻いていた群衆も皆思わずもらい泣きをしたという。

 

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陸奥話記」にわざわざ記されているということは、いかに下級の従者とはいえども、忠義の心は人を感動させることを示しています。

 

そして忘れてならないのは、貞任の長男で13歳になる千代童子も勇敢なる立ち振る舞いであったそうです。

 

 

その勇ましい姿に武士である誰もが殺すには惜しいと思ったそうです。

 

しかし、清原氏の意見もあり、頼義千代の命を奪ったのでした。

 

当時の戦では、女性iはてごめにはするものの、一般的に子供や女性、そして僧侶の命を奪うことはなかったのです。

 

 

まだ元服もしていない幼い子供の命を奪うということは、武士としての道にも外れ、恥にあたいするのでした。

 

その為、千代の命を奪った事実は源氏の汚名となる為、武勇伝の中に記されることはなかったのです。

 

官軍と偽り、周辺地域の武士を集めて非道な戦いを行った源頼義に対して、武士道を貫いた安倍氏の戦いぶりは「忠義」の教えとして語り継がれるのです。

 

(母方の阿部家本家の家紋)

 

以後、安倍(阿部)一族にみる武士道精神千代童子の勇ましさは平安時代から江戸時代までの名だたる武将たちに受け継がれ、それが幼名にみることができるのです。

 

 

幼名とは、平安時代から江戸時代までの武家貴族の子供が元服するまでの期間につけられる名前をいいます。

 

 

千代を幼名に持つ武将は私の知る限り以下の通りです。

 

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・徳川家康-竹千代  ・松平清康千代  ・北条氏綱-千代

・徳川家光-竹千代  ・松平広忠千代  ・北条氏康-伊勢千代

・徳川家綱-竹千代  ・松平信康-竹千代  ・北条氏政-松千代丸

・徳川頼房-鶴千代  ・松平忠輝-辰千代  ・太田道灌-鶴千代

・徳川光圀-千代松  ・前田利家-犬千代  ・武田信玄-勝千代

・徳川家茂-菊千代  ・細川忠興-熊千代  ・上杉謙信-虎千代

・井伊直政-万千代  ・武田信吉-万千代  ・阿部正次-徳千代 

・土井利勝-松千代  ・浦生氏郷-鶴千代  ・青山忠俊-伊勢千代 

 

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              (平泉FAN-TVより)

 

 岩手県和賀、胆沢地方に今もなを受け継がれる鬼剣舞獅子踊りは、安倍氏が出陣の時に踊ったものと云われています。

 

 

 

本当の日本の歴史が壊された明治時代まで、安倍(阿倍)一族武士道精神は脈々と武士貴族に受け継がれてきていたのです。

 

 

と、私はそう思います。

 

    (埼玉県行田の古墳)

 

夏草や兵どもが夢の跡

                    芭蕉