今月、16、17日と連休をとり、母方の阿部(安倍)のルーツを調べるために山梨県と長野県へ行ってきましたが、その前に先月は阿部に縁のある茨城県の鹿島神宮と千葉県の香取神宮に「はとバスツアー」を利用して一人で行ってきました。
しかし、鹿島神宮の宝物殿が改装中で観ることが出来ず残念でした。
(鹿島神宮 PR動画)
(奥宮)
そのツアーで同乗された方に千葉県成田市出身の方がおり、興味深いお話を聞くことが出来ました。
それは、「将門伝説」で平将門公に縁のある者たちは千葉県の成田山にお参りに行かないということを知ってはいましたが、その中で出てきた話では平将門公ではなく、佐倉惣五郎という江戸時代前期の人物縁の人々も行かないということです。
佐倉惣五郎は、地域では義民として知られる人物だそうです。
佐倉領主の堀田正信氏の重税に苦しむ農民のために、将軍・徳川家綱へ直訴を行い、結果、直訴は聞きとどけられて領民は救われましたが、惣五郎夫妻は磔(はりつけ)となり、子供ら一男三女人も死罪になったとのことです。
そしてその亡骸は、坂上田村麻呂公縁の東勝寺に埋葬されたそうです。
東勝寺より後に創建された〇〇寺は、平将門公を呪い討つために護摩木を焚いて祈願したことから、将門公縁の者たちは参拝しないと知られていましたが、まさか佐倉惣五郎氏縁の人々も参拝しないことを知りえたことは新たな発見でした。
佐倉惣五郎も平将門も、そして安倍(安倍)貞任も皆、不条理な税の取り立てを行う時の中央より各所に派遣されて私腹を肥やす官僚に対して、その土地で一生懸命に働き暮らす住民の安定を守るために立ち上がった武人達なのです。
黒沢映画「七人の侍」は、そうした志を持った武人の姿を描いているといえるでしょう。
「長いものには巻かれろ」と媚びる思想が蔓延る昨今ですが、私たちは先人の義民たちの心意気と存在を忘れてはいけないと思います。
話を戻し、鹿島神宮と香取神宮の神は共に「国譲り」に向かった神であるといわれ、その神を奈良の都に祀ったのが春日大社です。
春日といえば春日村にあるキトラ古墳が知られていますが、キトラ古墳がある山は阿部(安倍)山です。
そして奈良といえば東大寺が有名ですが、その別格本山は阿部文珠院なのです。
その東大寺大仏の開眼は孝謙天皇(阿倍内親王)で、その父は聖武天皇です。
聖武天皇の母は、藤原不比等の娘の阿部(藤原)宮子です。
歴史を調べると、「日本書紀」を編纂した藤原不比等という人物を好きになれません。
歴史を調べると、叔母さんが私に教えてくださった「阿部は、中臣鎌足の末孫なんだよ」の言葉が真実味を帯びてきました。
聖武天皇が亡くなると藤原仲麻呂側との皇位継承問題などが生じるようになります。
そうした内情もあり、孝謙天皇は精神的、身体的に不健康な状態になってしまいます。
そのような孝謙天皇(阿部内親王)の身を守ったのが、弓削道鏡でした。
因みに阿倍内親王が逝去すると、道鏡は栃木県に向かいます。
その途中、鑑真から授かった十一面観音菩薩の像を奉納したのが、父方の地である私が生まれ育った場所なのです。
調べると、山号は補陀落山とあり、弓削氏の氏寺とのことです。
そして、何故か私の家の家紋も阿部氏と同じ鷹の羽なのです。
昔、畑には瓦の破片が沢山転がっていたのを覚えています。
資料を見ると東大寺と同じ紋の入った瓦が出土していることは興味深いことです。
今回、16日に私が向かった先は、その孝謙天皇(阿部内親王)が療養に8年間を過ごした場所と言われる山梨県早川町奈良田です。
孝謙天皇は、ここで8年間の療養を経て、称徳天皇として返り咲くのです。
阿部のルーツを調べようと思わなければ、一生行くことがなかったと思われる場所といえます。
地図を見ると山梨県なのに近いようで遠い場所で、自宅から片道4時間以上かかりました。
前日、TV番組で書道を愛する外人が硯の産地である早川町に訪れたことを紹介しており、興味と期待が高まる気持ちを抱きながらも道中に思うことは、本当にこんな山奥に孝謙天皇が訪れたのであろうかと疑問に思ってしまいました。
孝謙天皇(阿部内親王)を祀る社は、名を奈良法王神社と言います。
この辺境の地に浩宮殿下も視察に来られていることからも、日本史上で重要な場所であるといえます。
ここでは参拝を終え民俗資料館を拝観した後、神社裏手にある古民家カフェではエゴマケーキセットを頂き、わずかな時間でしたがまったりできました。
お店の人に「これから長野県に行こうと思うのですが、この峠道を上って行けばいけますか?」と質問をすると、「ずっと通行止めだから、来た道を戻るしかないよ」と言われました。
少しショック!
しかし、「是非、来た道の景色をもう一度見ながら帰られてください。」の言葉にほっこりしました。
時計を見ると午後3時を過ぎているので、暗くなる前に帰らなければと少し気持ちは焦り気味。
(早川町観光PR動画)
そこから長野県へ向かう途中、宿泊先を調べて連絡。
次の日の行動を考えて、大町市にあるホテル明日香に決め、午後7時に到着。
部屋の名前は「雷電」でした。
雷電と言えば、長野県出身の大相撲力士である雷電為右衛門が有名です。
また、不思議な因果にて入門した部屋は伊勢ノ海部屋で伊勢にもつながります。
そんなことを考えながら、到着早々に温泉に入り、自分で布団を敷いて就寝しました。
うとうとすると、色々な方が様々なことを教えてくれるような夢を見ました。
夢の中で、「忘れないうちにメモを取らなくちゃ!」と思いつつ、疲れていたため直ぐに熟睡。
因みに朝起きたら、全て忘れていたことは言うまでもありません。
しかし、夜中に何故か一度だけ目が覚めました。
時計を見ると午前2時。
そして部屋の中でボコボコと音がするので何かと確認すると、ポットのお湯が何故か沸騰していて、その沸騰する音で目が覚めたと分かりました。
「何故、今頃に沸騰するかなぁ?」と思いながらも直ぐに睡魔によって朝まで熟睡してしまいました。
朝、アラーム設定をしてある携帯を確認すると、午前2時30分ぴったりに非通知着信の記録が残っていました。
ポットの沸騰現象で午前2時ぴったりに目を覚まし、携帯には2時30分ぴったりに非通知着信記録が残るこの時間帯はまさに丑三つ時の時間帯!!
知り合いにこのことを話すと、「座敷童の仕業だよ。」だって。
まじか・・・。
17日の朝に戸隠神社を検索すると、ここから片道1時間半で行けそうなので、午前8時にチェックアウト。
ネット検索で戸隠神社までは1時間半となっていたのに、車のナビを見ると片道3時間半掛かるとの表示。
そのため、今回は戸隠神社参拝を断念し、途中で引き返して1時間のロス。
当初から参拝に行く目的であった仁科神社と阿部神社に向かうことにしました。
すると雲行きが怪しくなり、雨になってしまいました。
そもそも仁科神社に行くことを思いついたかというと、母方の叔母さんから「昔、阿部家は近親婚で、山形の高橋家や仁科家に嫁いだ者がいる」と話を聞いたからです。
因みに叔母さんは、佐藤家に嫁いでいます。
佐藤家の家紋は源氏車ではありますが同族であるようです。
そんなこともあり、阿部貞任公を調べる中で阿部神社が長野県にあり、しかも今まで知らなかった仁科神社もその近隣にあることを知りえたので、叔母さんが言っていた通り何らかの関係があると思い、それを確かめる目的で向かいました。
雨が降る中、車のナビに従いまずは仁科神明宮に到着!
この仁科神明宮は、なんと国宝とのことでビックリ!!
国宝なのに何故あまり知られていないのだろう・・・。
仁科神明宮は、伊勢神宮と同様に奈良時代の創祀(そうし)以来、二十年に一度の建て替えが行われていたそうです。
現在の社殿は、寛永十三年に松平直政公の代に造替えされたもので、奈良時代から続く神明造り原初の形を守り伝えるとして国宝に指定されたとのことです。
ここで御執印を頂くがてら、神職の方に阿部神社のことを尋ねると、聞いたことがないとの返答。
ネットで検索した所在地の番地が車載ナビに登録がなく、仕方なく近い番地に設定して向うことにしました。
雨の降りが激しくなるなか、かなりの距離を走ると目的地へ到着しました。
しかし、そこには神社らしき建物が見当たりません。
丁度、案内板のところに住人と思われる方が居られたのでその方に尋ねると、阿部神社は仁科神社の祖の神社で、仁科神明宮はもともと阿部神社が由来と言うのです。
なんだか訳がわからなくなり、「また来た道を戻らなくてはいけないのか」と思うだけで悲しくなってきました。
そして横にあった案内看板に目をやると、看板に安倍(阿部)神社の文字が目に留まったのです。
住人と思われる方に「現在地の側に安倍(阿部)神社と書いてありますよ!」と私がいうと、「ほんとだ、ここならすぐそこだなぁ」となんとも頼りない返事。
よくよく案内看板を見ると、伊勢宮や諏訪神社なども周辺に点在しているではありませんか・・・。
とりあえず、足を止めて教えてくださったご年配のおじさんにお礼を言って、案内板を頼りに周辺を探してみることにしました。
すると直ぐに仁科神社を発見!!
鳥居の側には仁科神社の神紋が入った上り旗が風に揺らいでいます。
その上り旗に表されている神紋は、平家の家紋です。
岩手県の平泉に黄金文化を築いた阿部(安倍)貞任の妹の子供、藤原清衡も厳島神社(安芸の宮島)の平清盛の後ろ盾があったとも伝えられています。
源平合戦で平氏が源氏に負けた時に、多くの平氏が宮城県牡鹿半島に落ち延びたことも、阿部と平氏の繋がりみられます。
後で撮影した画像を確認すると白い影が映っておりました。
その影が私には神明宮の資料館に飾ってあった右側が「剣之面」と左側が「姫之面」に左の白い影が見えます。
この画像、どのように見えますか?
同族の佐藤家家紋は源氏車であることから、母方の叔母さんが私に話した「平氏も源氏もおんなじだよ」と言ったことを思い起こされました。
早速、仁科神社境内に足を踏み入れました。
そして手水舎に向かうと動物がいることに気づきました。
「むっ、猪か・・?この境内にも動物が飼われているのかなぁ?」と思っていると、その動物も私に気づき、しばらく見つめ合いました。
すると、その動物は私の方へと近づいて来ようとするではありませんか。
私は内心「怖い」と感じてしまいました。
するとその動物も「はっ!」我に返ったように、急に反転して物凄い跳躍で逃げていきました。
でも、逃げた方向はこれから行く予定の阿部神社の方角です・・。
私の前に現れた動物は、なんと国指定の特別天然記念物二ホンカモシカでした。
カモシカが現れないことを願いながら、仁科神社の裏手にある阿部神社の参道を歩んでいくと、その先に本殿が見えてきました。
神紋を見ると弓矢の羽を現した鷹羽の神紋です。
その神紋で不思議に思ったことがあります。
それは、本殿の神紋は羽の重なりが右上に対して、神楽殿に掲げられている神紋は左上なのです。
この羽の重なりにも意味があるようですが、母方の本家のお墓の家紋は阿部神社本殿と同じ右上の重なりになっています。
そして本殿の屋根には、「水」と掲げられており、雨の降る中の参拝も意味があるように思えました。
考えてみれば阿部は水軍ともつながるので、そうした意味もあるのかもしれません。
本殿を覗くと、「敬神」と掲げられていました。
敬神とは、ご先祖を敬うことを意味しています。
今日、様々な信仰があり、個人の信仰の対象は自由と思いますが、信仰の根幹は自分を生んで下さった親であり、ご先祖を敬うことだと私は思います。
阿部神社へ来て、「敬神」の心を改めて考えさせられました。
そして、阿部神社の境内を歩くと、そこに天照皇大神宮の一社のみが何故か祀られていました。
再び案内看板を見直すと、この阿部神社がある湖の周囲には、仁科神社のほかに諏訪神社や伊勢宮なども点在しており、「金」の産出を思わせる金山不動尊も祀られています。
様々な方面から調べると、何故か「阿部」について意図的に系譜を隠されているように思えてなりません。
本当に不思議なことです。
阿部神社を後にして、神明宮と阿部神社のある中間地点にある若一王子神社に行きました。
若一王子神社は、御祭神をイザナミ神、仁品王、妹耶姫、若一王子です。
垂仁天皇の代に仁品王がイザナギ神を奉祀したのが始まりで、鎌倉時代初期に仁科盛遠(もりとう)が熊野権現の第五殿に祀る若一王子を勧請してより、御社名が定まったといわれます。
私にはこの若一王子が安倍(阿部)貞任公の二男の高星丸のことに思えてならないのですが、伝承では若一王子は天照皇大神のことのようです。
やはり、天照皇大神は男性の神だったのです。
因みに、高星丸については難を逃れ、後に水軍にみられる安東氏を名乗ったと伝えられています。
(鹿と菊紋)
そしてこの神社については、明治時代の廃仏毀釈の難を逃れ、神仏習合の面影を当時のままに残す神社です。
仁科神明宮の参拝から雨に降られましたが、阿部神社、若一王子神社の参拝を終えると急に天候が回復しました。
帰路のことを考えると雨が降る中の高速道路は、事故も多発するので心配していただけに、天気が回復して安堵しました。
帰路の途中、阿倍比羅夫を祀る穂高神社を再び訪れ参拝して帰ることにしました。
穂高神社にある阿倍比羅夫の像に安倍貞任公のお姿を重ね見てしまいます。
これも後で調べたところ、仁科神明宮、若一王子神社、穂高神社は仁科三大社と言われているそうで、仁科氏の祖が阿部(安倍、阿倍)であるのだから奈良の阿部文珠院から東大寺、奈良法王神社、など阿部(安倍)氏一族は、国王と言える祖の系譜をもっているのではないでしょうか。
そんなことを考えながら帰り道、静岡県御殿場市から私の住む神奈川県に入る国道を走行中、前を走るトラックのナンバープレートを見ると「平泉」ナンバーでした。
奥州・平泉の没落と共に東日本に築いた阿部(安倍)一族の存在が薄れていくのです。
松尾芭蕉が平泉を訪れた際に詠んだ句、「夏草や兵どもが夢の跡」がそれを物語っています。
本当に不思議な体験をした信州一人旅でした。
後でブログ記事をまとめている時に気づいたのですが、私の妹は、高橋家と佐藤家に嫁いでいることに気づきました。
やっぱり人は因果でつながり、生かされているということです。
そして先日、驚きのニュースがありました。
それは、仁徳天皇陵に調査が入るとのことです。
今まで頑なに拒んできた宮内庁でしたが、ここへきて発掘調査も兼ねるとのこと。
すでに大東亜(太平洋)戦争後にアメリカGHQにより埋葬品は持ち出されたとのうわさもあります。
もうずいぶん昔になりますが、日本でも考古学者が自身で埋めたものを掘り出して考古学の歴史を塗り替えようとする捏造事件がありました。
今回も、新東名高速道路建設で神奈川県伊勢原市や秦野市付近から発掘された土偶などの埋葬品を埋め戻して歴史の捏造がされないことを祈ります。
最近の研究では、日本書紀においてもその信憑性は疑われているのですから・・・。
人の道の世にあるは、皆妻子の為にあるものなり。
安倍頼時 (安倍貞任の父)