今月、夜の箱根路を歩いていると猪に出くわした。

 

 

その場所は、ちょうど4年前に子供の猪と出会った場所でです。

 

その時、撮った動画が下のもの。

 

 

私は、「猪が向かって来たらどうしよう・・・。」と内心不安でしたが、もしかすると4年前に出会った子供の猪ではないかと思い、猪に「お前か?」と声を掛けました。

 

するとその猪は私の方を向き、「ブーッ」と言って尻尾を振りながらうなずいたのです。

 

やっぱり、お前はあの時の・・・。

 

 

私はドングリを食べている猪に「大きくなったなぁ」と更に声を掛けると、猪は私をチラチラと見ながら、安心した様子でドングリを食べているのです。

 

そしてドングリを食べながら、少しずつ私の方へと歩み寄ってくるので、猪に「俺も内心は怖いんだよ」と声を掛けました。

 

すると、猪は寂しそうな眼差しで私を見ると、ゆっくり反転して茂みに向かっていきました。

 

 

私はその猪の後ろ姿にに向かって「罠にかからないように気をつけろよ」と声を掛けると、「ブーッ」と返事をして尻尾を振りながら茂みの奥へと姿を消したのです。

 

猪に出くわすとやっぱり怖いと感じますが、何故かあの猪は可愛く思えます。

 

しかし、可愛いと思っても、所詮は野生の動物です。

 

野生動物である以上、むやみにエサを与えてはならないのがルールです。

 

これから寒くなる季節なので、食べ物も少なくなるでしょうから少し心配です。

 

でも、再び元気な姿を見せてくれたら嬉しいと思います。

 

 

さて、話は変わり、今月初旬、会社行事関連で再び長野県に行ってきましたが、諏訪市は1年ぶりになります。

 

 

会社行事といっても、昼食会に顔を出しただけですが、その時間までの間で諏訪大社・本宮に参拝をしてきました。

 

 

諏訪大社には、「御頭際」という奇祭があります。

 

 

この「御頭際」は諏訪の御神体とする守屋モリヤ)山に対するお祭りで、ユダヤ教に由来するといわれる祭事です。

 

 

その守屋(モリヤ)山は、ユダヤ人の国イスラエルの首都エルサレムにある山を指し、旧約聖書にも登場するとのこと。

 

旧約聖書(創世記22章2節)によれば、以下の内容が記されているそうです。

 

 

神は命じられた。

 

「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。」

 

「わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽し捧げ物としなさい。」

 

すると神の忠実な僕(しもべ)であったアブラハムは、一人息子のイサクを伴ってモリヤの山に行き、イサクを縛って刃物を振り上げ、その子を殺そうとしました。

 

 

その時、「アブラハムよ、わらべに手をかけてはいけない。」

 

「あなたの子、あなたのひとりの子をさえ、わたしのために惜しまないことで、あなたが神を畏れる人であることをわたしは今知りました。」と天から主の使いが彼に言ったのです。

 

アブラハムが気付くと、そこに角を藪に引っ掛けている山羊がいました。

 

アブラハムは、息子イサクの代わりにそこにいた雄の山羊を燔祭として神に捧げることができたのです。

 

とあり、諏訪大社の「御頭際」の祭式も、旧約聖書と同じような内容を持っています。

 

 

諏訪大社の「御頭祭」(ミサクチ祭り)と言われ、毎年四月十五日に行われているそうです。

 

 

 

そしてこの祭りの内容は、少年を柱に縄で縛り、神官が小刀で少年を切りつけようとすると、使者が現れて神官の行為を止めて、少年は解き放ち、命を救う代わりに鹿の頭を燔祭として捧げ、その首を神殿に供えるというもだそうです。

 

 

その「御頭祭」は、別名を「ミサクチ祭り」と言い、「ミサクチ」という意味は、ヘブライ語で、「ミ・イツハク」と読むことができ、「イサクから」とか「イサク由来の」という意味にとれるとトケイヤー氏(ユダヤ教のラビ)は説います。

 

諏訪には山羊がいなかったので、代わりに鹿が捧げられたそうです。

 

 

他にも日本の神社にみられる様式は、古代イスラエル神殿が木造建築であり、建築後に賽銭箱が備えられる他に幕屋の神殿の内部は赤色に塗られていたことにも類似しています。

 

更に、「鳥居」(トリイ)は、ヘブライ語で「門」という意味をもつなど、共通性がみられるのです。

 

このようなことから、今から2700年前に日本に失われた十支族といわれるユダヤ系の人々が渡来してきたと考えられているのです。

 

日本に古くから妖怪としても登場する天狗の容姿は、このユダヤ系の人々を表しているのかも。


 

諏訪の地は、古代日本に住み着いたユダヤ人がエルサレムの地を想い、そこにあった山をモリヤ(守屋)山と名付けたとも言われています。

 

それに関連して、現代でもイスラエルの大使が駐日大使として就任すると真っ先に訪れる場所が長野県諏訪市ということも興味深いところです。

 

 

そこで思うのは、私の母が幼少期に祖父から教わった正月三が日の習わしです。

 

その習わしとは、阿部家に代々伝わるもので、正月三が日に自宅屋根の周囲にカラスが舞うのを嫌い、カラスが近づくと「やーほえー、やーほえー」と大声を発して追い払うというものです。

 

母いわく、この「やーほえー、やーほえー」の掛け声の意味は分からないということですが、私にはヘブライ語の「ヤハウェ」に音が似ているように思えます。

 

ヤハウェとは、旧約聖書における唯一神であり、聖書の中でイエスが「」と呼んだ神だそうです。

 

ヘブライ語を調べると、日本語の由来の大半がヘブライ語から由来していることがわかり、阿部(安倍)家も何らかの縁があるように思えます。

 

 

諏訪大社・本宮へ参拝に行くと、境内に土俵があり、さらに先日私が長野県大町市に宿泊した時の部屋の名であった相撲力士の雷電の像も祀られていました。

 

 

神事である相撲は、ヤコブと天使の格闘に由来すると主張されているそうです。

 

ヤコブは天使との格闘に勝ったことで、神の使いとしての権限を与えられたとのこと。

 

神道相撲の由来は、『古事記』のタケミカズチタケミナカタの力競べにあるとされ、これによって国譲りが確定し、ニニギに地上の支配権が与えられたと語られています。

 

そして相撲で用いられている用語も、ヘブライ語から来ているそうです。

 

例えば、相撲での掛け声の「ハッケ・ヨイ」(HKH・IHI)は、ヘブライ語で「投げうて」という意味を持ち、また「ノコッタ」(NKIT)は、「征服した」と意味になるそうですよ。

 

ヘブライ語を調べるともっと面白いことがわかるかも・・・。

 

 

諏訪大社・本宮で御朱印を頂いた後は、本宮の近隣にある神長官守矢史料館に向かい、「御頭際」に関する資料も観てくることができました。

 

 

阿部(安倍)氏を調べると、何故か「鹿」と結びついてきます。

 

(仁科神社(阿部神社)で出会ったニホンカモシカ)

 

宮崎駿監督作品の「もののけ姫」に登場する鹿

 

あのアニメ映画の舞台は長野県だったりして・・・。

 

 

私の母方の阿部家のルーツを調べれば調べる程に日本古代史へと私を誘うのです。

 

 

ことを隠すのは神の誉れ。  ことを極めるのは王の誉れ。

                         (旧約聖書25章2節)

 

 

今月、16、17日と連休をとり、母方の阿部(安倍)のルーツを調べるために山梨県長野県へ行ってきましたが、その前に先月は阿部に縁のある茨城県鹿島神宮千葉県香取神宮に「はとバスツアー」を利用して一人で行ってきました。

 

 

しかし、鹿島神宮の宝物殿が改装中で観ることが出来ず残念でした。

 

(鹿島神宮 PR動画)

 

(奥宮)

 

そのツアーで同乗された方に千葉県成田市出身の方がおり、興味深いお話を聞くことが出来ました。

 

 

それは、「将門伝説」で平将門公に縁のある者たちは千葉県の成田山にお参りに行かないということを知ってはいましたが、その中で出てきた話では平将門公ではなく、佐倉惣五郎という江戸時代前期の人物縁の人々も行かないということです。

 

佐倉惣五郎は、地域では義民として知られる人物だそうです。

 

佐倉領主の堀田正信氏の重税に苦しむ農民のために、将軍・徳川家綱へ直訴を行い、結果、直訴は聞きとどけられて領民は救われましたが、惣五郎夫妻は磔(はりつけ)となり、子供ら一男三女人も死罪になったとのことです。

 

そしてその亡骸は、坂上田村麻呂公縁の東勝寺に埋葬されたそうです。

 

東勝寺より後に創建された〇〇は、平将門公を呪い討つために護摩木を焚いて祈願したことから、将門公縁の者たちは参拝しないと知られていましたが、まさか佐倉惣五郎氏縁の人々も参拝しないことを知りえたことは新たな発見でした。

 

佐倉惣五郎平将門も、そして安倍(安倍)貞任も皆、不条理な税の取り立てを行う時の中央より各所に派遣されて私腹を肥やす官僚に対して、その土地で一生懸命に働き暮らす住民の安定を守るために立ち上がった武人達なのです。

 

黒沢映画七人の侍」は、そうしたを持った武人の姿を描いているといえるでしょう。

 

長いものには巻かれろ」と媚びる思想が蔓延る昨今ですが、私たちは先人の義民たちの心意気と存在を忘れてはいけないと思います。

 

 

話を戻し、鹿島神宮香取神宮の神は共に「国譲り」に向かった神であるといわれ、その神を奈良の都に祀ったのが春日大社です。

 

 

春日といえば春日村にあるキトラ古墳が知られていますが、キトラ古墳がある山は阿部(安倍)です。

 

そして奈良といえば東大寺が有名ですが、その別格本山阿部文珠院なのです。

 

 

その東大寺大仏の開眼は孝謙天皇(阿倍内親王)で、その父は聖武天皇です。

 

 

聖武天皇の母は、藤原不比等の娘の阿部(藤原)宮子です。

 

歴史を調べると、「日本書紀」を編纂した藤原不比等という人物を好きになれません。

 

歴史を調べると、叔母さんが私に教えてくださった「阿部は、中臣鎌足の末孫なんだよ」の言葉が真実味を帯びてきました。

 

聖武天皇が亡くなると藤原仲麻呂側との皇位継承問題などが生じるようになります。

 

 

そうした内情もあり、孝謙天皇は精神的、身体的に不健康な状態になってしまいます。

 

そのような孝謙天皇(阿部内親王)の身を守ったのが、弓削道鏡でした。

 

因みに阿倍内親王が逝去すると、道鏡栃木県に向かいます。

 

その途中、鑑真から授かった十一面観音菩薩の像を奉納したのが、父方の地である私が生まれ育った場所なのです。

 

調べると、山号は補陀落山とあり、弓削氏の氏寺とのことです。

 

そして、何故か私の家の家紋も阿部氏と同じ鷹の羽なのです。

 

昔、畑には瓦の破片が沢山転がっていたのを覚えています。

 

資料を見ると東大寺と同じ紋の入った瓦が出土していることは興味深いことです。

 

今回、16日に私が向かった先は、その孝謙天皇阿部内親王)が療養に8年間を過ごした場所と言われる山梨県早川町奈良田です。

 

孝謙天皇は、ここで8年間の療養を経て、称徳天皇として返り咲くのです。

 

 

阿部のルーツを調べようと思わなければ、一生行くことがなかったと思われる場所といえます。

 

 

地図を見ると山梨県なのに近いようで遠い場所で、自宅から片道4時間以上かかりました。

 

 

前日、TV番組で書道を愛する外人が硯の産地である早川町に訪れたことを紹介しており、興味と期待が高まる気持ちを抱きながらも道中に思うことは、本当にこんな山奥に孝謙天皇が訪れたのであろうかと疑問に思ってしまいました。

 

 

孝謙天皇(阿部内親王)を祀る社は、名を奈良法王神社と言います。

 

 

この辺境の地に浩宮殿下も視察に来られていることからも、日本史上で重要な場所であるといえます。

 

 

ここでは参拝を終え民俗資料館を拝観した後、神社裏手にある古民家カフェではエゴマケーキセットを頂き、わずかな時間でしたがまったりできました。

 

 

お店の人に「これから長野県に行こうと思うのですが、この峠道を上って行けばいけますか?」と質問をすると、「ずっと通行止めだから、来た道を戻るしかないよ」と言われました。

 

 

少しショック!

 

しかし、「是非、来た道の景色をもう一度見ながら帰られてください。」の言葉にほっこりしました。

 

時計を見ると午後3時を過ぎているので、暗くなる前に帰らなければと少し気持ちは焦り気味。

 

(早川町観光PR動画)

 

そこから長野県へ向かう途中、宿泊先を調べて連絡。

 

次の日の行動を考えて、大町市にあるホテル明日香に決め、午後7時に到着。

 

 

部屋の名前は「雷電」でした。

 

雷電と言えば、長野県出身の大相撲力士である雷電為右衛門が有名です。

 

また、不思議な因果にて入門した部屋は伊勢ノ海部屋で伊勢にもつながります。

 

そんなことを考えながら、到着早々に温泉に入り、自分で布団を敷いて就寝しました。

 

うとうとすると、色々な方が様々なことを教えてくれるような夢を見ました。

 

夢の中で、「忘れないうちにメモを取らなくちゃ!」と思いつつ、疲れていたため直ぐに熟睡。

 

因みに朝起きたら、全て忘れていたことは言うまでもありません。

 

しかし、夜中に何故か一度だけ目が覚めました。

 

時計を見ると午前2時。

 

そして部屋の中でボコボコと音がするので何かと確認すると、ポットのお湯が何故か沸騰していて、その沸騰する音で目が覚めたと分かりました。

 

「何故、今頃に沸騰するかなぁ?」と思いながらも直ぐに睡魔によって朝まで熟睡してしまいました。

 

朝、アラーム設定をしてある携帯を確認すると、午前2時30分ぴったりに非通知着信の記録が残っていました。

 

 

ポットの沸騰現象で午前2時ぴったりに目を覚まし、携帯には2時30分ぴったりに非通知着信記録が残るこの時間帯はまさに丑三つ時の時間帯!!

 

知り合いにこのことを話すと、「座敷童の仕業だよ。」だって。

 

まじか・・・。

 

17日の朝に戸隠神社を検索すると、ここから片道1時間半で行けそうなので、午前8時にチェックアウト。

 

ネット検索で戸隠神社までは1時間半となっていたのに、車のナビを見ると片道3時間半掛かるとの表示。

 

 

そのため、今回は戸隠神社参拝を断念し、途中で引き返して1時間のロス。

 

当初から参拝に行く目的であった仁科神社阿部神社に向かうことにしました。

 

すると雲行きが怪しくなり、雨になってしまいました。

 

そもそも仁科神社に行くことを思いついたかというと、母方の叔母さんから「昔、阿部家は近親婚で、山形の高橋家や仁科家に嫁いだ者がいる」と話を聞いたからです。

 

因みに叔母さんは、佐藤家に嫁いでいます。

 

佐藤家の家紋は源氏車ではありますが同族であるようです。

 

そんなこともあり、阿部貞任公を調べる中で阿部神社長野県にあり、しかも今まで知らなかった仁科神社もその近隣にあることを知りえたので、叔母さんが言っていた通り何らかの関係があると思い、それを確かめる目的で向かいました。

 

雨が降る中、車のナビに従いまずは仁科神明宮に到着!

 

 

この仁科神明宮は、なんと国宝とのことでビックリ!!

 

 

国宝なのに何故あまり知られていないのだろう・・・。

 

仁科神明宮は、伊勢神宮と同様に奈良時代の創祀(そうし)以来、二十年に一度の建て替えが行われていたそうです。

 

 

現在の社殿は、寛永十三年に松平直政公の代に造替えされたもので、奈良時代から続く神明造り原初の形を守り伝えるとして国宝に指定されたとのことです。

 

 

ここで御執印を頂くがてら、神職の方に阿部神社のことを尋ねると、聞いたことがないとの返答。

 

ネットで検索した所在地の番地が車載ナビに登録がなく、仕方なく近い番地に設定して向うことにしました。

 

雨の降りが激しくなるなか、かなりの距離を走ると目的地へ到着しました。

 

しかし、そこには神社らしき建物が見当たりません。

 

丁度、案内板のところに住人と思われる方が居られたのでその方に尋ねると、阿部神社仁科神社の祖の神社で、仁科神明宮はもともと阿部神社が由来と言うのです。

 

 

なんだか訳がわからなくなり、「また来た道を戻らなくてはいけないのか」と思うだけで悲しくなってきました。

 

そして横にあった案内看板に目をやると、看板に安倍(阿部)神社の文字が目に留まったのです。

 

 

住人と思われる方に「現在地の側に安倍(阿部)神社と書いてありますよ!」と私がいうと、「ほんとだ、ここならすぐそこだなぁ」となんとも頼りない返事。

 

よくよく案内看板を見ると、伊勢宮諏訪神社なども周辺に点在しているではありませんか・・・。

 

 

とりあえず、足を止めて教えてくださったご年配のおじさんにお礼を言って、案内板を頼りに周辺を探してみることにしました。

 

すると直ぐに仁科神社を発見!!

 

 

鳥居の側には仁科神社の神紋が入った上り旗が風に揺らいでいます。

 

その上り旗に表されている神紋は、平家の家紋です。

 

岩手県平泉に黄金文化を築いた阿部(安倍)貞任の妹の子供、藤原清衡厳島神社(安芸の宮島)の平清盛の後ろ盾があったとも伝えられています。

 

源平合戦で平氏が源氏に負けた時に、多くの平氏が宮城県牡鹿半島に落ち延びたことも、阿部平氏の繋がりみられます。

 

後で撮影した画像を確認すると白い影が映っておりました。

 

 

 

その影が私には神明宮の資料館に飾ってあった右側が「剣之面」と左側が「姫之面」に左の白い影が見えます。

 

 

この画像、どのように見えますか?

 

同族の佐藤家家紋は源氏車であることから、母方の叔母さんが私に話した「平氏も源氏もおんなじだよ」と言ったことを思い起こされました。

 

早速、仁科神社境内に足を踏み入れました。

 

そして手水舎に向かうと動物がいることに気づきました。

 

 

「むっ、猪か・・?この境内にも動物が飼われているのかなぁ?」と思っていると、その動物も私に気づき、しばらく見つめ合いました。

 

すると、その動物は私の方へと近づいて来ようとするではありませんか。

 

私は内心「怖い」と感じてしまいました。

 

 

するとその動物も「はっ!」我に返ったように、急に反転して物凄い跳躍で逃げていきました。

 

でも、逃げた方向はこれから行く予定の阿部神社の方角です・・。

 

私の前に現れた動物は、なんと国指定の特別天然記念物二ホンカモシカでした。

 

カモシカが現れないことを願いながら、仁科神社の裏手にある阿部神社の参道を歩んでいくと、その先に本殿が見えてきました。


 

神紋を見ると弓矢の羽を現した鷹羽の神紋です。

 

 

その神紋で不思議に思ったことがあります。

 

それは、本殿の神紋は羽の重なりが右上に対して、神楽殿に掲げられている神紋は左上なのです。

 

この羽の重なりにも意味があるようですが、母方の本家のお墓の家紋は阿部神社本殿と同じ右上の重なりになっています。

 

そして本殿の屋根には、「」と掲げられており、雨の降る中の参拝も意味があるように思えました。

 

 

考えてみれば阿部水軍ともつながるので、そうした意味もあるのかもしれません。

 

本殿を覗くと、「敬神」と掲げられていました。

 

 

敬神とは、ご先祖を敬うことを意味しています。

 

今日、様々な信仰があり、個人の信仰の対象は自由と思いますが、信仰の根幹は自分を生んで下さった親であり、ご先祖を敬うことだと私は思います。

 

阿部神社へ来て、「敬神」の心を改めて考えさせられました。

 

そして、阿部神社の境内を歩くと、そこに天照皇大神宮の一社のみが何故か祀られていました。

 

 

再び案内看板を見直すと、この阿部神社がある湖の周囲には、仁科神社のほかに諏訪神社伊勢宮なども点在しており、「」の産出を思わせる金山不動尊も祀られています。

 

様々な方面から調べると、何故か「阿部」について意図的に系譜を隠されているように思えてなりません。

 

本当に不思議なことです。

 

 

阿部神社を後にして、神明宮阿部神社のある中間地点にある若一王子神社に行きました。

 

 

若一王子神社は、御祭神をイザナミ神、仁品王、妹耶姫、若一王子です。

 

 

垂仁天皇の代に仁品王がイザナギ神を奉祀したのが始まりで、鎌倉時代初期仁科盛遠(もりとう)が熊野権現の第五殿に祀る若一王子を勧請してより、御社名が定まったといわれます。

 

私にはこの若一王子安倍(阿部)貞任公の二男の高星丸のことに思えてならないのですが、伝承では若一王子天照皇大神のことのようです。

 

やはり、天照皇大神男性の神だったのです。

 

因みに、高星丸については難を逃れ、後に水軍にみられる安東氏を名乗ったと伝えられています。

 

 

                             (鹿と菊紋)

 

そしてこの神社については、明治時代廃仏毀釈の難を逃れ、神仏習合の面影を当時のままに残す神社です。

 

 

仁科神明宮の参拝から雨に降られましたが、阿部神社若一王子神社の参拝を終えると急に天候が回復しました。

 

 

帰路のことを考えると雨が降る中の高速道路は、事故も多発するので心配していただけに、天気が回復して安堵しました。

 

帰路の途中、阿倍比羅夫を祀る穂高神社を再び訪れ参拝して帰ることにしました。

 

 

穂高神社にある阿倍比羅夫の像に安倍貞任公のお姿を重ね見てしまいます。

 

 

 

これも後で調べたところ、仁科神明宮若一王子神社穂高神社は仁科三大社と言われているそうで、仁科氏の祖が阿部(安倍、阿倍)であるのだから奈良の阿部文珠院から東大寺奈良法王神社、など阿部(安倍)氏一族は、国王と言える祖の系譜をもっているのではないでしょうか。

 

 

そんなことを考えながら帰り道、静岡県御殿場市から私の住む神奈川県に入る国道を走行中、前を走るトラックのナンバープレートを見ると「平泉」ナンバーでした。

 

 

奥州・平泉の没落と共に東日本に築いた阿部(安倍)一族の存在が薄れていくのです。

 

 

松尾芭蕉平泉を訪れた際に詠んだ句、「夏草や兵どもが夢の跡」がそれを物語っています。

 

 

本当に不思議な体験をした信州一人旅でした。

 

後でブログ記事をまとめている時に気づいたのですが、私の妹は、高橋家佐藤家に嫁いでいることに気づきました。

 

やっぱり人は因果でつながり、生かされているということです。

 

そして先日、驚きのニュースがありました。

 

それは、仁徳天皇陵に調査が入るとのことです。

 

今まで頑なに拒んできた宮内庁でしたが、ここへきて発掘調査も兼ねるとのこと。

 

すでに大東亜(太平洋)戦争後にアメリカGHQにより埋葬品は持ち出されたとのうわさもあります。

 

もうずいぶん昔になりますが、日本でも考古学者が自身で埋めたものを掘り出して考古学の歴史を塗り替えようとする捏造事件がありました。

 

今回も、新東名高速道路建設で神奈川県伊勢原市や秦野市付近から発掘された土偶などの埋葬品を埋め戻して歴史の捏造がされないことを祈ります。

 

最近の研究では、日本書紀においてもその信憑性は疑われているのですから・・・。

 

 

人の道の世にあるは、皆妻子の為にあるものなり。

            安倍頼時 (安倍貞任の父)

 

先月、伊勢原市の日向薬師へ行ってきました。

 

私が住む神奈川県の地にも興味をもって歩いてみると、由緒ある寺院仏閣が多く在ることに今更ながら気づかされます。

 

 

大山に在る日向薬師もそのひとつです。

 

本題に入る前に約40年ぶりに箱根でミヤマクワガタを捕まえました。

 

それも捕りに行ったわけでもなく、歩く先の道に転がっていたので助けた感じで手にしました。

 

 

写真を撮って直ぐに逃がしてあげましたが、童心にかえり久しぶりにワクワクしてしまいましたよ。

 

 

話は戻り、伊勢原市在る日向薬師奈良東大寺建立に関わった行基が716年に開山したもので、かつて日向山霊山寺と称し、子院12坊を擁する大寺院であったそうです。

 

 

しかし、明治時代廃仏毀釈の令により多くの堂舎が焼かれ、仏像も壊されたそうです。

 

現在は、霊山寺の別当坊であった宝城坊が寺籍を継いでいる仏教寺院とのことです。

 

この日向薬師は、関東地方では有数の古寺で、本尊は平安時代前期に作られた薬師三尊像や、阿弥陀如来四天王十二神将が納められています。

 

(撮影禁止の為、資料写真・厨子と薬師如来座像)

 

また、日向薬師は、高知県大豊町の柴折薬師・新潟県上越市の米山薬師とともに「日本三薬師」に数えられています。

 

(写真撮影禁止の為、資料写真・十二神将像)

 

叔母さんに日向薬師のことを話すと、「若い頃に製薬会社に勤めていたので阿夫利神社へは参拝したことがないけれど、薬師さんは何度か会社行事で行ったよ。」と話されました。

 

 

一般的には阿夫利神社が有名なので、参拝者の多い阿夫利神社に行ったことがあるかと思いきや、阿夫利神社に行ったことはなく、日向薬師に何度も行っているとは・・・。

 

(日向薬師・参道)

 

私はこの場所がとても居心地よく、安らぎを感じられる素晴らしい寺院なので、今月までに3回も参拝してしまいました。

 

そしてそこで日向薬師のことについて詳しい方と出逢え、話を伺うことができました。

 

(虚空蔵菩薩を中に納める霊樹)

 

その方のお話によると、明治時代廃仏毀釈の令により近隣の寺院や仏像などは壊されたり、焼かれましたが、それを請け負ったのは移民者で貧しい人々が時の政府からの賃金を受けて行ったということでした。

 

そう言われて考えてみれば、日本人なら安置してある仏像を盗んだり、壊したりすることは良心が許さず、おいそれと出来ることではないと思います。

 

 

「移民者」が行ったと聞いて納得をしましたが、反面、そこまでして号令をだした時の政府の策略の意図が何であったのかは深く考えない方が良いように思いまた。

 

しかしながら、今に残る寺院は、先代の僧が身を挺して命がけで破壊者から守ったからこそ、今に在ることを私たちは忘れてはならないと思います。

 

(資料写真・山伏)

 

先月も山梨県で仏像が盗まれたと話を聞きました。

 

公のニュースには報道されていませんが、地方に在る神社仏閣の護り本尊は国民が意識を改め護らなくては危機的な状況にあると言えます。

 

しかしながら、東日本に在る古代からの貴重な文化財に対しては、国の保護が薄い様に思えてなりません。

 

神社仏閣に関する書籍をみても、内容のほとんどに奈良京都が中心であり、日本文化の発祥は西日本の近畿地方かの如く紹介されています。

 

そして私たちはその情報操作により、東日本には古代文化がなく、古来は辺境の地の如く思わされています。

 

私の祖と思われる安倍貞任の名前など関東地方の殆どの人々にも認知されていないのが現実です。

 

(安倍貞任・絵図)

 

歴史を調べると、東北の宮城県に在る多賀城は、聖武天皇孝謙天皇の時代に安倍(阿倍)氏の居城として与えられたものであり、安倍(阿倍)氏の力は関東全域にまで及んでいたのです。

 

(東大寺大仏殿)

 

以前のブログに綴ったように、安倍貞任の生誕地である宮城県石巻の私の母方の本家は、既に取り壊されて、復興道路の工事が今も進められています。

 

(熊野神社下にトンネル工事を・・・。)

 

きっと、地中から出土された古物などは公にされることなく隠されてしまうのでしょう。

 

そして、ここ日向薬師がある大山近郊は、古くから古代文化が栄えて信仰の地として縁の深い場所であって、東日本では重要な場所であるにも関わらず、現在、新東名高速道路とバイパス道路の工事が行われています。

 

(赤線:東名高速道路と国道246号・黄線:新東名高速道路と新バイパス)

 

私からしたら奈良県橿原市桜井市の地に高速道路を建設しているようなもので、この工事について「どうしてこの場所に道路を建設しなくてはならないのか?」と疑問に思えてなりません。

 

(大山周辺の状況)

 

地元の方にその問いをぶつけてみたところ、驚く答えが返ってきました。

 

(大山周辺の状況・新東名高速道路)

 

その方の話では、「道路工事で古墳などが現れ、埋葬品が次々に出土して工事が進まない」、「このままではオリンピックに間に合わなくなるから黙っている」のだと。

 

更には埋め戻している所もあるそうです。

 

後日、出土した土偶の写真を見せて頂きましたが、その土偶は長野県で発掘されて国宝になっている土偶に酷似していて驚きました。

 

(国宝の土偶・資料写真)

 

その国宝の土偶に酷似している出土した土偶は、約5000年前の物と鑑定されたそうです。

 

オリンピックと私たちのルーツの手掛りとなる遺跡とどちらが大切なのでしょうか?

 

やっぱり、国が何の補償もしない限り、今を生きるために誰しもが現実的なお金の方を選択してしまうのでしょうね・・・。

 

 

宮城県の母方の本家宅近隣の工事も暗い中でテントを張って作業をしている方々を見て違和感を覚えましたが、大山周辺で行われている新東名高速道路の工事も、お盆の時期で現場は休みのはずなのにスコップを手に作業を行っている者たちがいました。

 

観ると何かを探しているようにも思えます。

 

史跡周辺の工事は、発掘調査に協力する工事業者に限定して行う必要があるのではないでしょうか?

 

(鎧塚古墳)

 

日本の文化庁はもっと発掘調査のために予算をとって地権者へ補償して上げるべきではないかと素朴な疑問を抱きます。

 

考えると、平安時代の素晴らしく貴重な仏像が大山近郊の寺院に安置されているにも関わらず、国宝に指定せず重要文化財に指定するにとどめるのは、保護するための予算を削減する目的と東日本における文化財の軽視に他ならないと思えるのです。

 

ある書籍がヒントとなり、私は次のような考えを持ちました。

 

 

(日向薬師・聖徳太子・石像)

 

(日向薬師・弘法大師・像)

 

そこには、日本は古代より中国からの影響を受けていることは誰もが承知のことですが、その思想についてまでは考える人は少ないようです。

 

中国中華思想があり、その考えは「中国は世界の中心である」というものです。

 

(浄発願寺・三十塔)

 

同じように日本における中心を近畿とする思想が古代から現在に至るまで継承され、働きかけられている。

 

私にはそう思えてならないのです。

 

(比々多神社・本殿)

 

大山近郊にある日々多神社にも宝物館があり、神社周辺から出土した刀(直刀)などが展示されています。

 

 

日々多神社周辺から出土した狛犬の形状をみると、東北地方の古い神社にあるものと酷似していることに気づきます。

 

(写真撮影禁止の為、出土品資料写真)

 

また、伊勢原の地は伊勢神宮のある伊勢にも関係があると考えられており、古代日本文化を辿る上で大変重要な地域なのです。

 

大山阿夫利神社だけではなく周辺の神社仏閣にも興味を抱いて頂くと、新しい発見があるかもしれませんよ。

 

 

今月はじめ、北口本宮富士浅間神社で「おみくじ」を引くと、「天のみこえ」の通りに新たな書籍や人との出会いから色々な学びを受けています。

 

 

本当に何時も見られているように感じます。

 

因みに「おみくじ」は「大吉」でしたが、「待ち人」は・・・。

 

 

素晴らしい日本文化をもっと大切にしたいものです。

 

 

さして来し 日向の山を頼む身は 目も明らかに見えざらめやは

                                         相模

先日の日曜日、神奈川県の大山に行ってきました。

 

(厚木市側から大山の眺望)

 

大山神奈川県の秦野市、伊勢原市、厚木市の境にある標高1,252mの山で、丹沢大山国定公園に属しています。

 

(諏訪大社との関係性がみられる御柱)

 

伊勢原市の地名は、伊勢神宮が祀られている伊勢の地に関係があるともいわれています。

 

 

また、秦野(はたの)市も古代中国の始皇帝に由来している地名ともいわれているところです。

 

大山は昨年登頂したので、今回はまだ参拝をしていない中腹に在る大山寺へ行ってみました。

 

大山寺西暦752年、僧侶・良弁によって竜宮寺とする雨降山大山寺が建立され、本尊は鎌倉時代に祀られた鉄造の不動明王(国重文)が祀られています。

 

 

古来、山頂の阿夫利神社と山腹の大山寺が一体となって大山信仰の核となっていました。

 

阿夫利神社祟神天皇の頃の創建という社伝を持つ、『延喜式』の神名帳にも名のある古社で、山自体を神格化したものです。

 

また山頂の自然の大岩御神体とすることから「石尊」とも呼ばれ、周辺では祭祀で使われたとされる縄文土器も発掘されています。

 

(阿夫利神社)

 

私は、この山の「雨降り(あめふり)」山といわれる名称は、「阿夫利(あふり)」の別名にその意味を持ち、「天降り立つ(あまおりたつ)」山が本来の名称ではないかと思います。

 

それは近郊の中井町に在る蓑笠神社の伝承にみて取れます。

 

(中井町・蓑笠神社)

 

その伝承によると、 スサノオ天照大神の怒りにふれ、上界から「根の国」(黄泉の国)に追放されて降り立った場所大山であったそうです。

 

 

スサノオが大山に降り立ったその日も雨が降っていて、蓑と笠を身に着けたスサノオが「井ノ神の杜」で一夜を過ごしたとのこと。

 

翌日に天候は晴れとなったことで蓑と笠を忘れていったことにより「井ノ神さん」を蓑笠神社と以後呼ぶようになり、祭神としてスサノオをお祀りするようになったということです。

 

大山は古くより、死後の霊魂の赴く山ともいわれ、日本神話にみる「根の国」(黄泉の国)とは、大山を中心とした東日本の関東地域を指した呼称だったのです。

 

大山に在る阿夫利(あぶり)神社阿(武)利神社ともいわれ、を示すことから中世以降には源頼朝北条氏徳川氏などの武家からも崇敬を受けてきました。

 

(宮城県・仙台青葉まつりにて)

 

武人の崇拝を受ける「阿武」からは、(阿部、安倍)氏との関係性があるように思えてなりません。

 

(穂高神社(名神大社)・倍比羅・像)

 

大山阿夫利神社の本社は大山祇大神(おおやまつみ)がお祀りされています。

 

大山祇大神(おおやまつみ)といえば山を支配する神であり、イザナギイザナミの子です。

 

 

また、火の神の子ともいわれ、浅間神社でお祀りされている木花開耶姫(このはなのさくやひめ)の父といわれる神様です。

 

(木花開耶姫・絵図:埼玉県行田市にて)

 

その「火の神」から連想されるのは不動明王です。

 

つまり、不動明王大山祇大神(おおやまつみ)を表した姿のように思えてきます。

 

(不動明王像)

 

また、私は不動明王毘沙門天槍や剣などの武具を持っていることから同じ武人の神であり、不動明王は仏法における仏神で、毘沙門天天神であって日本の国を創生するために戦った神と崇められる実在した人物を偶像化したものではないかと思うのです。

 

つまりは、あの世この世に分けたときに呼び名が異なるだけで、悪を憎み正しい人道を示す武人の同神なのではと考えるのです。

 

(毘沙門天像)

 

神奈川県下の大山に向かう道々には、道祖神と共に不動明王の石碑が置かれています。

 

(相模原市の沿道にて・不動明王)   (秦野市の沿道にて・不動明王)

 

大山を望む道の場所によっては、大日如来の石碑が置かれていますが、そこに道祖神は見られません。

 

(平塚市公所の沿道にみる大日如来像)

 

このことからも大日如来は特別なものとして信仰の対象とされていたと考えられます。

 

(大山に続く沿道には標識が神奈川県の各市町村にみられます)

 

大山阿夫利神社大山寺までは登山道もありますが、私はケーブルカーをつかいました。

 

ケーブルカーの車窓から鹿を見ることができました。

 

ここの鹿奈良春日大社同様に形態は違うも、きっと飼われているのでしょう。

 

(春日大社にて)

 

全国の神社鹿を飼っている場所は以下の通りです。

 

 野生の鹿が境内を自由に歩いている神社】

 

・  奈良県 春日大社

・   宮城県 金華山(黄金山神社)

・  広島県 厳島神社

 

(もののけ姫より)

 

 柵やフェンス越しに鹿に会える神社】

 

・  茨城県 鹿島神宮

・  新潟県 弥彦神社

・  静岡県 三嶋大社

・  神奈川県 相州春日神社

・  神奈川県 大山阿夫利神社

・   千葉県 香取神宮

 

鹿(神鹿:しんろく)の使いとして大事にされる神社には、阿倍(阿部・安倍)氏に縁があるように思えます。

 

(岩手県・鹿踊りより)

 

安倍貞任公を描いた絵図をよく見ると、鍬形(くわがた)の形鹿の角が模られていました。

 

 

絵図の作者は、何らかの伝承を基に描いたものと考えます。

 

伝説によると春日大社(奈良県)の創建は、武御雷之男神(タケミカヅチノオノカミ)が白鹿に乗って鹿島神宮(茨城県)から奈良三笠山(御蓋山・みかさやま)に降り立ったことに由来します。

 

鹿島神社(茨城県)は武人の神として知られていますが、そこには私の祖にあたる阿倍(安倍・阿部)氏とつながる阿弖流為(アテルイ)の首がお祀りされていることを調べる中で知りました。

 

 

私は、その首が貞任公ではないかと無念の気持ちから思ったりします。

 

 

やはり、阿倍(安倍・阿部)氏を象徴する場所には鹿が関係しているようです。

 

また、戦いの組織においては弓と馬を用いる武人を象徴とする「鷹の羽」を用いていたと考えます。

 

東日本の歴史を調べていくと、飛鳥時代奈良時代の前は東日本がこの国の中心地であったと推測できます。

 

そして神奈川県の相模(さがみ)の国は、武御雷之男神(タケミカヅチノオノカミ)が雷神剣の神相撲(すもう)の始祖とされる神様であったことから、「相模(さがみ)」の字は「相撲(すもう)」から由来しているのです。

 

また万葉集では、「相模峯」ともうたわれていました。

 

そんなこんなで前置きが長くなりましたが、先ずは昨年関係ないと思い削除してしまった阿夫利神社参拝の記事を再アップします。

 

後半は、先日参拝した大山寺の記事を綴りたいと思います。

 

 

 

※先ずは昨年の記事から~

 

阿夫利神社は今から二千二百余年以前の崇神天皇の御代に創建されたと伝えられている式内社です。 

 

奈良時代以降は神仏習合の霊山として栄え、延喜式にも記される国幣の社になったそうです。

 

 

阿夫利神社は、古代から人々の心の拠り所となり、国を護る山・神の山として崇められてきたそうです。

 

阿夫利神社の拝殿したに地下道を見つけたので入ってみました。

 

そして地下道には、先に行った穂高神社にも見られた道祖神が祀られていました。

 

 

そこに名水が湧いていたので、水が半分しか無くなったペットボトルに名水を補充しました。

 

 

この補充が後の行動の助けと成りました。

 

地下道を出ると木花咲耶姫をお祀りする浅間社があります。

 

 

浅間社を参拝して先に進むと、猿田彦をお祀りする碑もありました。

 

 

ここ大山には別天子が皆お祀りされており、正に神の山であり、」の神様がいる「相模(さがみ)の国」なのです。

 

更に左手奥に進むと祈願所があったので、何も考えずにお賽銭を入れて御守りを購入しました。

 

 

その奥に奥の院への登山道入り口があります。

 

 

見ると、門の先は急傾斜の階段になっています。

 

 

階段の先に奥の院が在ると勘違いして、安易に登って行ってしまいました。

 

急な階段を登り終えると、そこから大山山頂へと続く登山道になっていたのす・・・。

 

軽い気持ちで登山装備も持たず、ただカメラとペットボトル1本だけを所持して、ワイシャツとジーパン姿で登山することになりました。

 

 

すれ違う登山者は皆「こんにちわ」と声を掛け合い険しい道を行き交います。

 

参道の途中樹齢5、6百年と曖昧な杉の大木も在ったりします。

 

 

更に登ると、参道に石積みで整っている場所があり、古代に石工職人の学びの場所であったのではと考えられます。

 

 

そのすぐ先には、天狗が鼻で突いて出来た穴とされる鼻突き岩があります。

 

 

どう見ても人工的に開けられたとしか思えない不思議な穴です。

 

大山は、富士山の御祭神である木花咲耶姫の父君に当たることから「富士に登らば大山に登るべし、大山に登らば富士に登るべし」と伝えられ、大山富士山の両山をお参りする「両詣り」も盛んに行われていたそうです。

 

途中、下山者から「頂上まであと少しですよ」と何度も声を掛けられ、なんとか登頂出来ました。

 

 

登山は、見ず知らずの行き交う人々が親しく声を掛け合って励まし合う光景が見れて素敵だなと思いました。

 

勤め先でもエレベーターを使わない為、自分が思っていた以上にハイペースで登山ができたので、老いた体にしてはまだまだ「イケる!!」と、自分の体力に少し驚きと共に喜びがわきました。

 

来年は富士登山にチャレンジしてみようかな・・・。

 

ただし、登山は登山用の装備をして行かないとね!(;^ω^)

 

阿夫利神社でペットボトルに水を補充したお陰で脱水に成らず助かりました。

 

 

一人登山も案外楽しいかも。

 

一部の地域では、大山に登れば一人前として認められると伝承されており、立身出世としても知られているそうです。

 

 

頂上からの眺望は相模平野相模湾が一望です。

 

 

ここ大山は、山野の幸をつかさどる水の神山の神として、また、海上からは羅針盤をつとめる海洋の守り神、さらには、大漁の神として信仰をあつめると共に、山岳信仰の中心として大天狗と称され今日に及んでいる山で、平成二十八年四月には「大山詣り」が日本遺産に認定をされたそうです。

 

帰りは、阿夫利神社の階段下にある食事処で「大山きのこカレー」を頂きました。

 

 

カレールーに青のりが降り掛けられていて、香りも良く美味しく頂きました。

 

御執印もしっかり頂きましたよ。

 

 

 

 

 

※ここから以下は、先日に参拝した大山寺の記事~

 

大山寺には、ケーブルカーで終点の阿夫利神社まで乗らずに途中駅で下車します。

 

 

ちょうど雨が上がったばかりで、木々の木漏れ日が差す狭い参道から霊気を感じます。

 

 

大山寺に着いて最初に感じたことは、「うわ~っ、凄い!」の一言です。

 

 

大山寺の佇まいがあまりにも重厚で歴史を感じさせられるだけでなく、その場所の空気感など様々な要素が重なり「凄い!」と感じたのだと思います。

 

 

先ずはお寺の西側に在る巨大な宝篋印塔(ほうきょういんとう)が目に入り、何故かそちらに足が向きました。

 

 

ここの印塔、高さが11mもあり、青銅作りのものです。

 

 

後で調べると、この宝篋印塔に香花を供えて右回りに3度回ると願いが叶うとのこと。

 

当日、香花は持参しませんでしたが、他の参拝者の真似をして私もお参りを致しました。

 

 

大山寺の境内は狭いものの、ここの空気感は最高に清々しいものです。

 

 

そして、大山寺本殿に参拝いたしました。

 

本殿に入ると、少し冷気帯びた心地よい風が通り抜けて、風通しが良くて気持ちが落ち着く場所です。

 

 

ここのお寺は、私の中で「また来たい!」と思わせる場所の一つになりました。

 

ここでも若い小柄な女性が一人で大山登山の無事を祈願して立ち寄られ、山頂へと向かわれて行きました。

 

私は体力的、精神敵にもケーブルカーなしでの登頂は無理な気がして、その女性の強さに敬意を感じます。

 

 

神職の方の話によると、が出没して騒動になっているとのことでしたので、くれぐれも一人登山は気を付けて欲しいと思います。

 

話は戻り、大山寺の本殿に刻まれた彫刻を見ると、何だか囚われて人が鈴を持って助けを呼んでいるように思える人物が刻まれています。

 

 

明治時代初期に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の命により各地の神社仏閣は破壊されましたが、民衆の力によって再興され、ここ大山寺も同様に再建されたそうです。

 

そしてその本殿の彫刻は、名匠といわれた「手中明王太郎」が全霊を打ち込み彫刻したといわれています。

 

廃仏毀釈の命を施行した当時の政府の思惑がいったい何だったのか?

 

そして、この彫刻の意味するところは何なのか?

 

私には何かを隠蔽する意図があったのではないかと思えてなりません。

 

 

こうした政策により東日本で廃れた神事ではありましたが、同じ明治時代奈良県の春日大社神職家・冨田光美氏によって再び大山阿夫利神社神楽が伝えられ現在も残されていることは嬉しい限りです。

 

大山寺寺紋を確認すると「輪宝紋」といわれるものでした。

 

 

輪宝紋」とは、古代仏教において、真理をもってこの世を治める王を転輪聖王といい、輪宝転輪聖王の感得する七宝のうちの一つの武器で、「人間の迷い」「人間の悪根」を断ち、世の中の平和と幸いをもたらすことを願いが込められているものです。

 

そうです!

 

毘沙門天光背の輪と同じものなのです。

 

 

安倍貞任公を討った源義家公の絵図には、何故か輪宝紋を踏みつけているものが残されています。

 

 

やはり、安倍貞任公は毘沙門天と言われていたことに関係があるように思えてきます。

 

更に境内を散策すると、大山寺の下方にも社があるので足を向けてみました。

 

 

そこに建立されていたのは、龍神堂不動明王堂です。

 

 

登山者も素通りをしてしまうほどひっそりとした佇まいではありますが、ここの空気感は重くて大山寺本殿とは違ったパワーを感じます。

 

 

寂れて手が行き届いていない感がある不動明王の中を覗くと、そこには菊の御紋の幕が見えました。

 

 

またその奥に鎮座しているであろうご本尊は、何故か金色の幕で覆われています

 

 

そして屋根の社紋は何故か両側とも外されているではありませんか・・・。

 

 

私は、皇族に関わる何かが隠されているのではと確信に近いものを感じました。

 

帰り道は、十一面観音菩薩像がある高台に上ると、相模湾まで見通せる眺望の良い場所がありました。

 

そこには幸福の鐘があります。

 

 

恋人たちはここで変わらぬ愛を誓い、鐘を鳴らすようです。

 

 

私が撮影しているとカップルが現れたので、お二人の邪魔にならないようにスゴスゴと退散しました。

 

 

江戸時代は、大山詣りの後は湘南の江ノ島へ行き、行楽することが人気であったようです。

 

大山男神江の島女神と言われ、昔は両方をお詣りしていたようです。

 

そして私は背中越しに聞こえてくる愛の鐘の音を聞きながら、ケーブルカーの駅に向かいました。

 

 

今度来るときは、私も愛の鐘を鳴らしたいなぁ・・・。

 

 

人の上に人を造らず、

          人の下に人を造らず

平等相互の暮らしをするを以て祖来の業とす。

       荒吐族・阿倍救生の誓理より

 

私の母方の阿部の祖について閃きを受けてちょうど1年となる今月、浅間神社に行ってきました。

 

昨日の土曜日は小雨も降り、山中湖の側道は視界が悪い状況でした。

 

 

浅間神社に着くと小雨も上がり、傘をささずに参拝することができました。

 

 

境内には七夕が近いこともあり、短冊が結ばれた笹が飾られていました。

 

 

 

 

天気が良くないせいか参拝者も少なく、のんびりと境内を歩いてまわりました。

 

 

私の感覚では、北口浅間神社は夕刻にそのパワーが強くなるような気がします。

 

 

拝殿の軒を見上げると、そこに彫られている彫刻はであることを今更ながら気づきました。

 

にまつわるエピソードには、阿倍貞任公と安倍清明の母がに見惚れていた為にの姿を隠すことを忘れて、正体がばれてしまったなどが思い浮かびます。

 

 

浅間神社社紋は、木花開耶姫命からなる「」が用いられています。

 

 

そんなことを思いながら本殿の裏手を回り、各社にもお参りいたしました。

 

 

本殿の真裏には可愛い恵比寿様大黒様がお祀りされています。

 

「お願いします!!」

 

 

そしていつものように「おみくじ」を引いて、気づきを頂きました。

 

前回の「おみくじ」は大吉で、天のみこえは、「いにしえの文の林をわけてこそ あらたなるよの道もしらるれ」でした。 

 

 

この「おみくじ」を引いた時は、阿部の祖について急に関心を抱き、書籍などを買い込んでいた時期であったので少し驚きました。

 

そして今回の「おみくじ」は中吉で、天のみこえは「おのがじし つとめを終へし後にこそ 花の陰には たつべかりけれ」でした。

 

 

読んでみて、今自分が行っている「阿部の祖について調べていることを、務めとして最後までやりなさい」といわれているように受け取りました。

 

本当にここで「おみくじ」を引くと、いつも自分は神様からみられているように思います。

 

しかしながら、恋愛運は「相手には通じません」と・・・。(。>0<。)

 

そんなこんなで前回のブログに綴った春日大社について、新たに調べたことが少しつなっがて来たので書き表したいと思います。

 

春日大社の創祀は、奈良時代のはじめに千葉県香取神宮茨城県鹿島神宮奈良の都に勧請されたことにあるそうです。

 

そのため、春日大社もまた鹿の使い(神鹿(しんろく))として大切にお祀りされています。

 

その春日大社の総本山は、古くから神霊が宿る神奈備の山として崇められてきた霊山といわれ、花山三笠山香山(高山)、三輪山をまとめた総称だそうです。

 

 

そうです! その地は阿部の縁の地でもあるのです。

 

この一帯の阿部山には、古墳で有名なキトラ古墳がある場所でもあります。

 

因みに阿部山は、東北の阿部(阿倍、安倍)一族に縁のある北海道(阿倍比羅夫)や山口県(安倍宗任)にもその名を残しています。

 

(穂高神社にある阿倍比羅夫像)

 

そして阿倍仲麻呂にあっては、この地を想い「天の原 ふりさけみれば春日なる 三笠の山に出しつきかも」の歌を読んでいます。

 

 

ここでもう一つ、日本の歴史は卑弥呼邪馬台国からでなく、すでに東日本関東にはオホーツク海から日本に渡り、青森県で移り住んでいた民族と、出雲の地から移り住んだ民族が争うことなく土着の先住者と共に平和な国をつくっていました。

 

 

神奈とは、「神様が居る」という意味で、神奈川県は「神様が居る処から流れ下る川」からなるところから地名は由来しています。

 

その川の水源地は秦の始皇帝の時代に集団で渡来した徐福水銀などの鉱物を探したことから丹沢と名付けられ、その湧き出た川は神の川と呼ばれて神奈川県の中央を流れて相模湾(さがみわん)に注がれます。

 

この相模(さがみ)という名称は、「神(猿田彦)」から由来しており、「相模(さがみ)」の字が当てられ隠されているのです。

 

 

奈良県神奈備山も、神奈川県の地名がその由来であり、古来東国にいた神々奈良県に移住したことを裏付ける証となるものといえましょう。

 

 

神奈川県は文字通り神様が居る国であり、その国を護る大山(阿夫利)に続く街道沿いには道祖神の石碑の他に、大日如来の石碑があるのも他県には見られない光景といえます。

 

 

また、大山の近郊にある愛川町には、東北に多く観られる鹿(しし)踊りが伝統的に受け継がれていました。

 

 

この地域へ土着した徐福らの渡来人は、土木・化学・医療・機織り・稲作などの知識を有した技術集団であったことも伝えられています。

 

実は、公の記録に表されていませんが、徐福らが日本に渡来する以前に上記の知識を有した技術者達は古代中国から戦乱を逃れてこの日本(東日本)に渡り住んでいました。

 

飛鳥・奈良時代の文化は、東日本に居たと崇められた人々が四国を介して奈良に移り住んだことによって造営されたのです。

 

更に「」には「捧げる」という意味があり、「」を用いている都道府県名は神奈川県と奈良県に使われていることも無関係ではないことを示しています。

 

私の閃きから、そう思えてなりません。

 

話は変わって、毘沙門天と云われていた安倍貞任公ですが、その毘沙門天を崇拝していた戦国武将の上杉謙信公が決起した場所も春日山でした。

 

この1年で私の祖の阿部に縁のある神社は、浅間神社大日堂諏訪大社穂高神社氷川神社大山阿夫利神社熊野神社阿蘇神社香取神社鹿島神社春日大社阿倍文殊院東大寺湯殿山、出雲大社などが思いうかびます。

 

そして何故か、平将門公にも繋がるのです。

 

 

歴史において平安時代は権力者による階級制度が整い、古来より土着していた民衆たちは各地の豪族や国司の下で奴隷が如くに働かされていました。

 

昔から下層の民衆を使うに「生かさず、殺さず」というこ言葉があります。

 

阿弖流為平将門公そして安倍貞任公も、奴隷が如く労働を強いらされる民衆の自由と権利を護る為に立ち上がった勇者であることを忘れてはいけないと私は思います。

 

武士(もののふ)とは、命懸けでその土地と人々を護るために戦う者たちの呼称なのです。

 

そして一所懸命という言葉は、こうした行為が由来となっているのです。

 

奈良から都が藤原京に移った時代から、税を吸い取る形で中央貴族社会が成立して、階級社会の小さな世界で権力の奪い合いをしていた最低な時代といえますが、文化芸術においては様々な国の文化芸術が融合して日本独自の美意識が成熟していった時代ともいえ、私にとっては平安時代は芸術的に最高な時代と思います。

 

 

時代背景を調べていく中で、甲冑の造形の素晴らしさに改めて魅せられて購入してしまいました。σ(^_^;)

 

1年前までは毎日の生活に追われ、過去の歴史について考える事もなかったのに、今では飛鳥奈良時代も遠い昔の物語には思えなくなりました。

 

本当に不思議なことです。

 

帰り道、従姪らが経営しているお蕎麦屋さんで遅い昼食を頂きました。

 

 

手打ちのお蕎麦屋さんで、普通のお蕎麦とはちょっと違うのが特徴。

 

 

午後3時過ぎに行ったので、お客さんは若いカップルの一組だけでした。

 

それでもホール従業員が3人もおり、繁盛店であることを嬉しく思います。

 

 

お腹も空いていたので、ご飯も頂いてしまいました。

 

後で天そばだけにすればよかったと・・・。ヽ(;´ω`)ノ

 

 

心に物なき時は、心広く体豊かなり
心に我慢なき時は、敬愛失わず
心に欲なき時は、義理を行う
心に私なき時は、疑うことなし
心に驕りなき時は、人を敬う
心に誤りなき時は、人を畏(おそ)れず
心に邪見なき時は、人を育つる
心に貪りなき時は、人にへつらうことなし
心に怒りなき時は、言葉柔らかなり
心に堪忍ある時は、事を調(ととの)う
心に曇りなき時は、心静かなり
心に勇ある時は、悔やむことなし
心賎しからざる時は、願い好まず
心に孝行ある時は、忠節厚し
心に自慢なき時は、人の善を知り
心に迷いなきときは、人を咎めず

 

                   上杉謙信

 

今月19日、再び母の実家がある宮城県石巻市へ行ってきました。

 

行きの新幹線・指定席車両はガラガラでした。

 

 

そして仙台駅から石巻へはレンタカーで移動です。

 

レンタカーの予約でハプニング!

 

小型乗用車を6時間借りて特別プラン価格が2,500円とあり、予約してお店に伺うと当月誕生日の方への特別サービス価格だったのです。

 

女性スタッフから当日言われて、己のおっちょこちょいさに反省!m(_ _ )m

 

そしたら女性スタッフは上司と相談され、「今回は特別にこの価格でお受けいたします」と!!!

 

掛け捨て保険料を含んでも、5千円でお釣りがきました。

 

うぉ~っ、本当にありがとうございます!!m(_ _ )m

 

 

そして三陸自動車道で石巻市まで約1時間のドライブ。

 

車窓から見る田園風景は、そろそろ田植えが始まるようです。

 

 

運転しながら「わぁ~帰ってきたぁ~」と、まるで我が家へ帰ってきた気持ちになりました。

 

今回の石巻への目的は、母の実家の菩提寺の住職から何らかの情報を得ることができないかとの思いと、母の実家の目と鼻の先にある熊野神社が気になり、どうしても行ってみたい衝動に駆られたからです。

 

途中、菩提寺に電話をしてこれから伺う旨を連絡するも、住職は遠方に出張中で月曜にならないと戻らないとの返答でした。

 

なので、今までまとめた資料の一部だけを手渡して読んで頂き、私の思いが伝われば幸いとの気持ちで向かうことにしました。

 

 

母の実家の菩提寺の山門です。

 

 

境内には印塔もあり、なかなかの歴史あるお寺さんです。

 

このお寺から、戸籍に残って確証が得られ明治初期に亡くなられた私の先祖に、戒名として「本源院」という源氏由来と思われる院号を頂いております。

 

 

古い墓石や、無縁となった墓石が敷地の隅に整理されまとめられています。

 

(本家の墓、傘を被ったお墓が1基となり、墓石も組みなおされている。)

 

本家が所有する山に在ったとされる「傘を被った7基の墓石」も、ここのお寺の住職の意見によって整理されました。

 

その結果、過去の歴史の証拠の一部が失われてしまった事は残念に思えます。

 

 

お寺の寺紋をみると、「縦三本引き」。

 

これは、奥州・伊達氏の家紋でした。

 

ご住職とお会いする機会を得られないということは、私と縁がないということなのでしょうか・・・。

 

そう思いながら母の実家へと向かいました。

 

実家で車を駐車させて頂き、熊野神社へと向かいました。

 

実家のお嫁さんが心配してついて来てくださいました。

 

ご迷惑をお掛けして申し訳ございません。m(_ _ )m

 

 

熊野神社は本当に目と鼻の先にあるので、まるで阿部家のご本尊のようにも思える神社です。

 

私は小さい頃から母の実家に来ているのに、何故か今まで一度も行ったことがありませんでした。

 

 

急な階段を上がるとお社があります。

 

 

母は子供のころ、このお社の中で近所の子供たちに和装で踊りなどを教え遊んでいたそうです。

 

 

神様に歓迎してもらえなければ、怖くて室内に入れないと思います。

 

きっと、母たちはここ熊野神社の神様に守られていたのでしょう。

 

従姉も私に「子供のころ熊野神社で遊んでいて怪我をしたことがない」とも話してくれました。

 

熊野神社は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の熊野三山の祭神を勧請された神社を呼びます。

 

また熊野三山は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて中世熊野詣における皇族・貴族の参詣によって、信仰と制度の上で確立をみたものなのです。

 

きっと、ここの熊野神社は古くから子供たちを見守ってくださった神様なのでしょう。

 

 

境内をみると石碑が立っていました。

 

その時は、何と彫られているか分からなかったのですが、後で写真で見ると「湯殿山」と読めます。

 

そこで湯殿山を調べてみると、山形県の月山南西山腹にある山で、月山羽黒山と共に出羽三山の一つとして、修験道霊場で、古来より山岳信仰の対象とされる場所で、薬師岳の北の中腹の川沿いに在る湯殿山神社は、五穀豊穣や家内安全の御神徳があるとのことでした。

 

その山形県にある湯殿山神社は、社殿拝殿もないのが大きな特徴となっているそうです。

 

話によると、私の母方の祖父は明治生まれで、その姉が山形県医師をしていた高橋家に嫁ぎ、その子は教師をしていた仁科家に嫁いでいるとのこと。

 

(母方の祖父)

 

その仁科氏を調べると、奈良時代に信濃国安曇群に安倍氏(安曇氏)が定住し、その支族が伊勢神宮の御領「仁科御厨」を本拠としたことを起源とする。と残されています。

 

つまりは、安倍氏と仁科氏は親族関係であるということがわかります。

 

因みに祖父の兄の職業は教師であったそうです。

 

母たちは、明治生まれの祖父から英語を学んだそうです。

 

そして、安倍貞任公は毘沙門天とも言われており、山形県の戦国武将・上杉謙信公は毘沙門天を崇拝していました。

 

 

また片倉小十郎景綱公の片倉家も、山形県川西町に片倉氏が起こしたと伝わる片倉神社があったそうですが、明治時代の廃仏毀釈の令により、諏訪神社に合祀されました。

 

片倉家は、武士でも神職でもあったのです。

 

 

他にも、山形県とは縁があるようです。

 

ここ熊野神社から様々な関係性や、いろいろな疑問が湧き起こり興味がわいてきました。

 

そして反対側の境内には石仏が鎮座しています。

 

 

お顔が少し悲しそうにみえるのに、私には何故か温かさを覚えます。

 

そして気になっていたこの神社へ来て参拝できたことに、何だかホッとした気持ちになりました。

 

以上これにて石巻での目的は時間切れで終了です。

 

その後、親戚数件のお宅に伺い、お線香を手向けた後に本日の宿泊先の仙台市青葉区に逆戻りです。

 

 

仙台青葉区に戻ると、青葉区に住む従兄が迎えに来てくれて、ご馳走になりました。

 

明けて20日は午前5時に起きて、当日行われる青葉まつりの参加支度です。

 

集合場所は、仙台市役所。

 

向かうタクシーの運転手や従兄も話していましたが、青葉まつりの時期は雨の日が多く、土日の2日間ともに晴れになるのはあまりないと言っていました。

 

 

本当にラッキーです!

 

今回、私が参加をするのは武者行列です。

 

私の身に着ける甲冑の兜の飾りは「源氏」を示すものになっていました。

 

 

私の着替え場所の側にいられた女性武者と早速、記念写真を撮って頂きました。

 

秋田美人の可愛い女性ながら、キリッと締まるその表情は勇ましく、とても素敵に思いました。

 

私を護ってください!!σ(^_^;)

 

 

そして、お姫様ともご一緒に! 

 

現場で着付けをしてくださるスタッフ皆様の機敏な仕事ぶりは大変素晴らしく思いました。

 

不思議なもので着付けをして頂いている際、袴を履き、甲冑を着させられると身も心も引き締まります。

 

こうした機会により、和装の素晴らしさを改めて感じることができました。

 

 

建物の外に出ると、従兄が待っていてくれました。

 

なんと、パレードに参加する私を記念に残るようにと追っかけて撮影してくれたのです。

 

 

せっかくの休日を私事の為にお時間をつくって下さり、本当に申し訳なく、また有難い気持ちでいっぱいです。

 

私も、従兄のような人格者になれるようにもっともっと心を磨いていかなくてはいけないと思いました。

 

 

青葉まつりは、今年で第34回を数えます。

 

 

今回、遠藤役の方は、関西からの参加だそうです。

 

 

その方は行列行進中、「沿道(えんどう)の皆様!遠藤(えんどう)でござる!」とダジャレを吹いて片倉小十郎役の方よりも目立っていました。

 

さすが関西人!!    

 

このサービス精神を少しは見習いたいものです。

 

 

また,行進中はずっと「安倍貞任公もこんな感じだったのかなぁ」と過去に生きた武人たちに想いを馳せて歩きました。

 

 

武将の中で何故か惹かれる片倉小十郎

 

休憩所で、その役の方と記念に一枚撮らさせて頂きました。

 

因みに写真撮影の時の掛け声は「ずんだもち!」です。

 

 

今回、武者行列に参加して感じたことは、皆さん本当に歴史をよく勉強されております。

 

私も、もっと勉強して再びこうした機会がある際は、その時代に生きた者の役に成りきれるようしたいと思います。

 

 

今回、参加応募に応えて頂き、素晴らしい体験をさせて頂きました「仙台・青葉まつり協賛会」に感謝いたします。

 

 

そして、安倍貞任公の末裔(?)として、貞任公についても更に探求していきたいと思います。

 

 

すずめ踊りの賑やかさ。

 

 

の都・仙台。

 

とは、神社御神木を意味するもので、鎮守の森すなわち、その土地を守護するために祀られたが住む森ということなのです。

 

 

私が以前に綴った宮崎駿監督作品の「もののけ姫」の舞台が宮城県と思えてなりません。

 

参加行事も終わり従兄弟と別れた後は、帰路に就く前に一人で仙台東照宮へと参拝に向かいました。

 

 

その昔、仙台東照宮が在るこの一帯の丘陵地は「小田原山」と云われていたそうです。

 

そしてこの地域には「」にまつわる伝説もあります。

 

 

東照宮への参道を登ると、本日の武者行列での疲労が足腰にあらわれてきました。

 

 

山門に到着!

 

上半身はなんでもないのに、足腰はもうガタガタです。

 

 

いい加減、歳を感じます。

 

 

この場所も、時間がゆっくり流れている感じがして安らぎを感じる場所でした。

 

仙台東照宮までは、仙台駅から仙山線で一駅、徒歩3分程の場所に在ります。

 

 

帰り道、駅から直ぐにあるお寺が気になり伺いました。

 

 

お寺の名前は、山岳院。

 

まさか、昨日行った熊野神社にあった湯殿山との繋がりがあるのでは・・・。

 

山門をくぐると、正面に石仏があるのが目に入ってきました。

 

 

その石仏をみると、熊野神社境内に在った頭に布を巻いたような石仏でそっくりなのです。

 

 

この寺院の境内もまた私には居心地が良い場所です。

 

 

境内に目をやると立派な宝篋印塔もあり、歴史の古い寺院であることがうかがえます。

 

印塔の起源は、中国の呉越王銭弘俶が延命を願って、諸国に配ったものが原型だとされています。

 

これは、インドのアショーカ王阿育王)が釈迦の入滅後立てられた8本の舎利塔のうち7本から仏舎利を取り出して、新たに造った8万4千基の小塔(阿育王塔)に分納し世界中に分置したという故事(「阿育王伝」「阿育王経」)に起源とされています。

 

この塔の一つが始元年(265)に中国内で発見され、銭弘俶が建隆元年(960)まで10年の歳月をかけこの塔に倣って銅で同じく8万4千基を作塔し諸国に配布したと伝えられています。(「仏祖統紀」)

 

ただ、阿育王塔を模しての作塔はそれ以前にもあったようで、現に来朝した鑑真和上の荷の中に「阿育王塔様金銅塔一区」があったことが知られています(「唐大和上東征伝」)。

 

一方で『一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経』は宝篋印陀羅尼を収めた宝塔のご利益を説くとあります。

 

これが「宝篋印塔」の語源と考えられていますがが、中国では早くから先に述べた「阿育王塔」との混淆が見られ、現に銭弘俶塔の中から宝篋印陀羅尼が発見された例があります(『宝篋印経記』)。

 

したがって我が国の宝篋印塔を語るに際は、この二つの性格の「舎利塔」と「宝塔」の要素があることを念頭に置く必要があります。

 

 

 

この瓦は、以前は寺院の屋根にあったものであろうと推察されます。

 

 

そして、毘沙門天

 

安倍貞任公は毘沙門天と深い関係性がみられます。

 

 

更に、お堂には大日如来像も安置されていました。

 

導かれるようにここへ来たことで、何らかの関係性があると思い、今後また調べていきたいと思います。

 

帰りの時間が近づいてきたので、仙台駅にもどることにしました。

 

仙台駅で食事をして帰ろうと思いお店を探していると、他界した私の父と同じ名前の店が在ったので、その店に入りました。

 

 

そして注文メニューは、「お疲れ様セット」というもの。

 

 

セットメニューは、ビール、珍味、お通し、刺身、焼き物、寿司。

 

 

普段、私はお酒を飲まないのですが、何故か飲みたくなりジョッキー1杯だけ頂きました。

 

お店の大将は若いながら気の利く方で、食事の頃合いをみて料理を提供してくれます。

 

嬉しいことに、マグロの串焼きをサービスしてくれました。

 

(食べかけです・・)

 

宮城では、本当に楽しい時間を過ごさせて頂きました。

 

帰宅後、従兄から手渡されたビデオデータのSDカードの他に頂いたお土産にまた感動してしまいまし!。

 

 

このお土産は、従兄の奥様が私にと購入してくださったとのっメールを頂きました。

 

子供のころから宮城県に行くたびに従兄弟達からよくして頂き、有難く思うとともに、私の母親の大きさを改めて感じます。

 

今回は、素敵な方々とも交流ができて、本当に幸せな時間を過ごさせて頂きました。

 

ありがとうございました。

 

 

墨のゆがみたるは直ぐになるものにて

 人の心は知られぬものに候(そうろう)

           片倉小十郎景綱