七夕ですね。

 

日本国内で七夕まつりを大切に守り続けている場所は、神奈川県平塚市宮城県仙台市愛知県の一宮市安城市の3地域と日本三大七夕まつりと知られているところからいえるのではないでしょうか。

 

 

私が住む父方の神奈川県と、母方の出身地である宮城県、そして愛知県安城市には安倍晴明浅間神社白山神社桜井神社など阿部(安倍=天部(海部・あまべ)氏に縁のある場所です。

 

私はまだ行ったことのない愛知県一宮市の一宮である真清田神社は、天照大神天火明命が祀られているそうです。

 

私が持つ書籍を見てみると、本居宣長(もとおりのりなが)の「古事記伝」に「火明は本阿加里と訓(よむ)べし」とあり、高天原宮城県から九州に天降り立った邇邇芸命(ニニギ)と木花之佐久夜毘売との間に生まれた3柱の御子神の天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)であるとわかりました。

 

 

もしかすると天津日高日子穂穂手見命は、神武天皇の父親なのかも・・・。

 

日本の五節句(季節の変わり目の行事)の1つに数えられる7月7日七夕(たなばた)」は、天の織姫彦星1年に1度だけ再会できると言い伝えられているちょっぴり悲しくも愛ある素敵なお話です。

 

 

色とりどりの飾りや願い事を書いた短冊を笹の葉につるして七夕を祝うお祭りは、今も全国各地で催され、日本の夏の風物詩となっています。

 

そもそも七夕とは、中国の後漢(西暦25年)以降の文献にみられる神話のお話がもとになっているものです。

 

 

神話の内容は、河東に住む天帝の娘である織女(織姫)が河西の牽牛郎(牛飼い・彦星)に嫁ぐことを許されました。

 

娘は嫁ぐと機織りをやめてしまい、そのため天帝の怒りをかってしまいました。

 

そして河東に戻ることを強要されてしまったのです。

 

別れ離れになってしまった夫婦は、年に1度の7月7日の日だけ会うことを許されたのです。

 

 

大河によって隔たれたところを、織女は七夕の日にだけ(かささぎ)が翼を広げて作った橋を渡って牛飼い(彦星)に会いに行けたのです。

 

ここで記されている(かささぎ)は、胸部の一部が白いカラスに似た鳥のことです。

 

 

大伴家持も万葉集に「鵲(かささぎ)」を用いた和歌を残しています。

 

そして母方の阿部家に伝わる詩には、安倍貞任公が戦いの最中に謳ったと思われる「鵲(かささぎ)」を用いた和歌が言い伝えられていたのです。

 

ここでは書き表しませんが、心に悲しみが残る詩になっています。

 

 

七夕まつりを祖先に繋げるというか、繋がるキーワードを見つけて不思議な導きであるように思えてなりません。

 

平塚七夕まつりには、私の関連する企業も出展協賛しているので本来はお手伝いに出なくてはいけないのでしょうが、これからの時代を担う若者に任せて私は体を休めたいと思います。

 

星々が輝く夜空が広がりますよ~に!!お願い

 

 

彦星の行あいをまつかささぎの 渡せる橋をわれにかさなむ

                   菅原道真

今回は、前回の内容をもう少しだけ掘り下げてみたいと思います。

 

まず、阿部安倍の姓の人口分布について調べると、字が違えども両方の「あべ」は共に宮城県石巻市が一番多いことがわかります。

 

つまり宮城県石巻阿部(安倍)一族発祥の地といえるのです。

 

下の写真は、高橋克彦・著「炎立つ」をNHKが大河ドラマ化した際、安倍(阿部)一族の着ている甲冑です。

 

 

写真からもわかる通り、朝廷側に相対する者は悪者を印象付ける井出たちにさせられます。

 

書店で確認してみてください。

 

日本の武将が特集されている書籍でも、安倍(阿部)氏の名前は掲載されておらず、掲載されていたとしても前九年の役源義家によって討ち取られた者としてしか紹介されていないのが殆どです。

 

それはいったい何故でしょう?

 


東京国立博物館所蔵の「前九年合戦絵巻」を見ると、安倍一族朝廷源氏の将軍が率いる軍隊に引け目を取らない甲冑を身に着けていることがわかります。

 

 

安部貞任公の着る着物柄をよくよく見ると、嵯峨天皇が好んで用いたとされる九曜菊紋が描かれています。

 

(九曜菊紋)

 

この菊紋からも推測される通り、源義家源氏よりも安倍(阿部)氏は家柄が上であったことがわかります。

 

因みに九曜紋は、大日如来を信仰する密教に関わりのある紋でもあります。

 

 

更には、安倍(阿部)貞任公が手に持つ扇子は、前回のブログでも示した通り皇族が掲げる旗と同じ配色です。

 

 

この旗は、つまり錦旗なのです。

 

現在の宮城県仙台市の「仙台」とは、元々「千代」と書き表されていたものを伊達政宗公が書き改めたものです。

 

改名を行った理由として考えられるのが、徳川家との関係です。

 

徳川家が居城とした江戸城は、元は太田道灌によって千代田と地名が名付けた場所に築城したことから千代田城と呼ばれていました。

 

対して宮城県のシンボルでもある仙台青葉城も「千代城」と呼ばれていたのです。

 

 

伊達家は、徳川家を立てる為に「千代(ちよ)」を(せん)(だい)と読み替えて「仙台城」と改名したと私は思っております。

 

そして、この千代城(仙台青葉城)は、元々は安倍貞任公の息子・千代童子丸の為に築いた館であったと私は考えています。

 

また、安倍貞任公が由緒正しい出である証拠が、着ていた衣柄の紋であり、仙台青葉城の周辺に町の名が残ることからも推測出来るのです。

 

」(にしき)と言えば、「錦旗」が示すように日本国の絶対的な象徴の旗で、江戸城をも無血開城に導いたものなのです。

 

 

その旗の配色は、安倍貞任公が手に持つ正に扇子と同じ配色なのです。

 

安倍貞任公は、源頼義義家ら親子の私欲によって命を落とすことになりますが、源氏も始まりは恐らく朝廷の一部の公家に唆されて犯した戦争であろうと考えます。

 

その根拠は、前九年の役の終結後に朝廷側から大義がないとして恩賞を得ることが出来ず、奪い取った戦利品を戦いに参加した千葉氏、南部氏ら武人に分け与え、自分らは大した物を得ることが出来ずに何とか面目だけを果たした経緯がみられるからです。

 

その戦いを境に東北地方の民たちの生活は奥州・藤原(安倍)氏の代に成るまで疲弊してしまいます。

 

 

 

しかし、安倍(阿部)一族が残した文化は今も鬼剣舞獅子踊りとして受け継がれています。

 

   (岩手県・鬼剣舞)                  (獅子踊り)

 

『白河以北ひと山百文』(作詞・作曲・歌/吉川団十郎 編曲/打越浩平)※みちのく古代史DVDより 」

 

ブログを綴っていて、またまた不思議な縁を感じてしまいました。

 

前回のブログで元気をもらえる動画として、「ああ宮城県2020」をご紹介させて頂いたのですが、なんと、以前にブログで紹介した安倍貞任公が歌われる「白河以北ひと山百文」と同じ作詞・作曲者だったのです!

 

(「ああ宮城県2020」を歌われている川田さんは勿論、編曲アレンジされた佐藤晃さん&丹野義昭さんも最高です!!爆  笑

 

吉川団十郎さま! ありがとうございます!!

 

そして、以前紹介させて頂いた福島県田村市の「alltamura.TV」の民話のお話し。

 

安倍貞任公のお話をされる宗像様はお名前から察すると天照大御神に縁のある宗像(むなかた)大社と所縁があるのではと思ってしまいました。

 

宗像大社は、天照大神の三女神をお祀りしている神社です。

 

三女神の名前は、 田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、 市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)と申され,

海の神様なのです。

 

田心姫神沖津宮(おきつぐう)、湍津姫神中津宮(なかつぐう)、市杵島姫神辺津宮 (へつぐう)にそれぞれお祀りされており、この三宮を総称して「宗像大社」といいます。

 

地名の船引町という名称にも何か繋がりがあるように私には思えてなりません。

 

 

福島県田村市船引町・alltamura.TVより

 

更に、しおんちゃんが安倍文珠堂をalltamura.TVでレポートをされていますが、「千代]をヘブライ語で読むと意味は「シオンの民」となります。

 

不思議な繋がりを感じます。

 

民話のお話では、安倍晴明公や安倍貞任公の母親は共に白狐です。

 

そして、両者とも母親は「」の花を見ていて正体がばれ、姿を隠してしまうのです。

 

 

前回のブログで紹介した通り中臣鎌足もまた「白狐」に縁があります。

 

つまり「」や「白狐」には、出生の秘密がキーワードとして隠されているように思えるのです。

 

(大阪・安倍晴明神社にて)

 

前回のブログでは、高天原宮城県石巻と比定されていることを綴りました。

 

そして、畿内に大倭日高見国(おおやまとひだかみのくに)を築き、聖徳太子が掲げたように「和を以って尊しとなす」を表す「大和」(やまと)が誕生するのです。

 

阿部氏中臣氏(宗・曽)我氏大伴氏らは、東日本から大和の国造りの為に西日本の畿内に向うのです。

 

中臣鎌足が生まれた場所は茨城(いばらき)県ですが、埋葬されたところは出生地に因んで大阪府茨木(いばらき)市です。

 

(中臣鎌足・絵図)

 

そしてそこは、私の母方の叔母が話した「阿部家中臣鎌足の末孫なんだよ」の言葉を裏付けるように埋葬されている墳墓は、阿武山古墳と言います。

 

阿武の「」は、「」とも読めます。

 

そこから出土した遺品は、金の刺繡が施された帽子やガラスの装飾品です。

 

 (金刺繍帽)            (ガラス装飾)

 

ガラスといえばローマンガラスで、ローマへ続く交易がされていた事がうかがえます。

 

そのことからも、安倍晴明公や安倍貞任公、中臣鎌足にみられる「白狐」の正体は、ペルシャ系の女性であったと推測され、決して間違いな考えではないといえるのです。

 

また、私には「」(こ)は、「」の漢字に読み替えることができるのではないかと考えます。

 

古代中国では、ペルシャ人を「胡人」と書き表していました。

 

(因みに、現在の中国人は、古代中国の民族とは異なり、民族は入れ替わっているとある書籍に書かれています。)

 

つまり、白狐の正体はペルシャ系ユダヤ人と私は思うのです。

 

 

更に阿部(安倍)氏については、部「アべ」であって「」(あめ)を指しているのです。

 

冒頭で紹介しました安倍貞任公は、高天原(宮城県石巻)から畿内に赴き、藤原京により先人の築き上げてきた「和を以って尊しとなす」という約束事が崩れ去りると、畿内から信州福島を通り、宮城県地に戻って来た天孫族の末裔と私は思うのです。

 

安倍晴明に関しては、朝廷の政治や権力に対し見切りをつけ、宮城の地に赴くも、木曽路の山中で朝廷の武人に討たれ亡くなったのではないかと残念ながら思えます。

 

思うというか、そういう教えが下りてくるかの如く次々に繋がっていくのです。

 

阿部(安倍)氏が畿内に居住した場所については、様々な史跡から奈良県桜井市と考えられます。

 

その一つが安倍文珠院です。

 

 

 

そして安倍(阿部)貞任公の出生の系譜は、福島県安倍文珠堂が示すように、ここから繋がっているのです。

 

そして、先月行った先の信州の鹿教湯文珠堂では、境内あった墓石に阿部氏の「鷹羽」の家紋に「」が刻まれた墓石を見つけました。

 

 

鹿教湯文珠堂の寺紋は、皇室を表す菊紋と皇室の副紋になる五七の桐紋です。

 

 

日本史において阿部(安倍)氏の活躍が表されないのには、何か隠さなくてはならない理由があるように思えてなりません。

 

 

 

安倍貞任公も阿倍御主人と同様に大柄で体格がよく、身長は約180㎝、色白でぽっちゃり体系であったと記されています。

 

阿部(安倍)一族が統治していた頃の東北地方は民たちが平和に暮らしていました。

 

しかし、何故か東北と聞くとTVドラマ[おしん」の影響も多少なりともあるかと思いますが、貧しいという印象があるようです。

 

古代の東北地方西日本よりも豊かで、大きな争い事はなかったと縄文時代の遺跡から裏付けられています。

 

青森県には国指定の特別史跡に指定されている三内丸山遺跡亀ヶ岡遺跡が在り、紀元前1,000年頃まで遡れる時代の文化があったと確認されているのです。

 

  (出土した遮光土偶)

 

では、どうして畿内の人々は東北人を「貧しい」と思うようになったのでしょう?

 

原因は火山の噴火などで大きな地盤変動が起き、長期に渡り農作物に被害が及んだ事で餓死する者が大勢出たからと考えます。

 

今みたいに復興支援などしてくれる人々や社会ではないのですから。

 

こうした自然災害に対して朝廷は、何ら手を打つこともせずに被災者を見殺しにしたのだと思います。

 

そうした歴史もあり、東北の人々は自力で苦難を乗り切り、我慢をして耐え忍び、共に力を合わせて助け合い、支え合って何度も何度も立ち上がり生きてきた精神的に強い人々なのです。

 

 

それでもそうした状況下で被害に苦しんでいる民衆を救ったのが、阿部(安倍)一族の阿弖流為などであったと私は思います。

 

こうした支援があったからこそ、その地域に暮らしていた蝦夷(えみし)と言われる土着の人々らは、阿弖流為安倍氏の下に結束して、畿内から攻めてくる朝廷軍と共に戦ったと考えられるのです。

 

金で雇われた朝廷軍数万の傭兵に対して、「」と「」で結束した戦士数千名と数では劣りますが、戦いの勝敗は明白です。

 

それが、朝廷軍がなかなか勝つことが出来なかった一つの要因でると私は考えます。

 

 

 

このように阿部(安倍)一族の活躍が日本国の形成の礎となっているのに、何故か隠されるかの如く多くの国民はその名を知りません。

 

岩手県民は安倍貞任公の名前を知りえる人は多いのに対し、貞任公の出生地である宮城県民は何故かその名を知る人が少ないのも不思議な話です。

 

私自身も約3年程前まで全く知りませんでした・・。

 

 (穂高神社・阿部比羅夫・像と)  

 

これまで綴って来た内容は、時代が令和に変わったタイミングで「真実な姿を後世に伝えよ」とまるで私の祖が教えてくれているように思えてなりません。

 

本当に不思議なことです。

 

信じるか信じないかは、あなた次第ですが・・・。

 

 

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

 阿倍仲麻呂

(和紙人形作家:阿部夫美子さん・作)

 

私に閃きを与えてくださる大日如来を参拝してきました。

 

(大日堂・大日如来)

 

そこのお堂は、山門の屋根に葵御紋が掲げられているにも関わらず荒れ放題です。

 

 

本当に所在地行政の姿勢が残念に思えてなりません。

 

 

私からみたら国宝級の仏像が在るにも関わらず、なぜ荒れ放題のままなのか疑問です。

 

もしかすると目には見えない力によって誰もが簡単に手を出せないのかもしれません。

 

(東京都千代田区・将門公首塚)

 

平将門公の縁のある場所でもあるようですから。

 

さて話は変わり、母方の叔母から阿部家は中臣鎌足の末孫と聞かされてから様々な情報を調べると新たな歴史発見がみえてきました。

 

まず、新たな発見としては、中臣鎌足の出生地が安倍(阿倍)一族に縁のある茨城県の鹿島であったということ。

 

そして、安倍晴明安倍貞任公の母が白狐であると伝承せれていますが、中臣鎌足の出生にも白狐が登場するのです。

 

 

その伝承によると中臣鎌足の名前の由来は、母が赤子を置き農作業して戻ると赤子の側に白狐が居たそうです。

 

心配して赤子を見ると、赤子の足元に鎌が於かれていたとのこと。

 

そして白狐が申すに「この子は将来、この国を背負う立派な人です。大事にされなさい。」と言い残して姿を消したとあります。

 

このことから「鎌足」と名が付いたそうです。

 

この白狐の正体は琵琶を奏でる弁財天と崇められたペルシャ系の女性と私は考えています。

 

 

さて、母方の実家の側にある熊野神社の境内には「湯殿山」と刻まれた石碑があるのですが、湯殿山に関連する山形県の武将といえば上杉謙信が真っ先に思い浮かびます。

 

 

その上杉謙信は、鹿島の神と香取の神を祀った奈良県の春日大社と同じ名の春日城を居城とし、毘沙門天を信仰していた安倍貞任公と同じように毘沙門天(不動明王)を崇拝していました。

 

 

上杉謙信と聞くと甲冑に白い頭巾を被った姿が浮かびますが、調べるともしっかりあることを知りました。

 

 

今更ながら歴史に無知な自分と痛感します。

 

には自己主張を表すために前立(まえたて)という装飾を付けるのですが、上杉謙信の兜の前立には毘沙門天(不動明王)と白狐が表されています。

 

 

上杉謙信の武士道精神も鹿島神宮に縁があるだけでなく密教にもつながり、更に安倍(阿部)一族と縁のある武将であったように思えてきます。

 

因みに鹿島神宮の社紋は「三つ巴」で、全国に7,817社もある八幡神社と同じです。

 

鹿島神宮八幡神社は古来より武人からの信仰が厚かった神社です。

 

そういえば私の住む神奈川県の大山にある阿夫利神社も社紋は三つ巴です。

 

宮城県の阿部一族は、鹿島神宮に縁をもつと考えられるもう一つの理由に、山にある母方ご先祖のお墓が日和山(日高)の近隣にあり、その山頂には鹿島御児神社が鎮座しているのです。

 

(所有する山には本家代々のご先祖のみの墓石が複数あり、近年に整理されました)

 

母方のご先祖の眠るお墓のある山の山頂には坂上田村麻呂縁の神社もあり、神社脇の林の中に坂上田村麻呂縁の石碑があります。

 

古代より名だたる武将が訪れていたことがうかがえます。

 

(坂上田村麻呂縁の石碑)

 

山頂にある神社は、他にも阿黒姫阿智王とも縁があるようなのです。

 

(阿智王)

 

そして鹿島御児神社ですが、その由緒は古く、その創建の由来縁起について明らかな史料はないようですが、平安時代の『延喜式神名帳』には既にその名が見られることから国史見在社として最も由緒深い神社といえるとのことです。

 

ここの御祭神は、武甕槌命鹿島天足別命の親子二神です。

 

武甕槌命宮城県・塩竈神社の祭神でもあります。

 

(塩竈神社)

 

ブログを綴っていて今ふと気が付いたのですが、鹿島御児神社の社紋には3つの「菊紋」が隠されている様に見て取れます。

 

(鹿島御児神社・御執印)

 

更に御執印に押されたの印ですが、私が知り得た情報によると「」には「根子」とも読み取れて「天皇」を表す隠語であるそうなのです。

 

そういえば安倍晴明の出生地とされる茨城県は島であるのも何か意味があるのかも知れません。

 

また不意に思いついたのが、秋田県で信仰されている鹿島様という神です。

 

この神の胴体には丸い飾りが3つあり、私にはこれが「」を表している様にしか見えません。

 

(秋田県・鹿島様)

 

鹿島は、天皇に何かしらの縁があることは間違いないといえるでしょう。

 

更に鹿島御児神社という名称から思い浮かんだのは、後に古事記が示すニニギ(邇邇芸命)九州の地に降り立った鹿児島という地名です。

 

恐らく鹿児島の地名は、この鹿島御児が由来なのではないでしょうか。

 

(邇邇芸命・ニニギ)

 

宮城県の鹿島御児神社塩竈神社がお祀りしている武甕槌命は、天孫降臨に際して葦原の國の平定に御功績を挙げられた神です。

 

振り返ると、叔母が小さい頃の思い出話しをされた時、半信半疑で聞いていた「子供の頃は天子様と言われていた。」という内容が真実味を帯びてくるので今更になって興味が湧いてきます。

 

(叔母と母)

 

私の母にそうしたことを話すと、「そんなこと関係ない。今が大事だ。」と返事が返ってきますが、そんな母も小学生の頃、学校へ行き校庭に水溜りがあると、年寄りの先生が水溜りで濡れないようにと背負ってくれて「何故だろう?」と思っていたそうで、叔母が話す「天子様」に関係があったのかもと理解した様子でした。

 

母によると、曾祖母は馬で村を闊歩していたそうで、やはり実家のある地域では有力な氏族であったことは間違いないようです。

 

 

そんなことを想いながら先日、日本中の神社で上げられる祝詞で「大祓詞」(おおはらいうた)をネットで観ていて発見がありました。

 

それは、「大祓詞」は別名「中臣祓詞」または「中臣祭文」ということを知りえたのです。

 

(初音ミク・大祓詞)

 

実家では昔、正月になると祭壇を設けてを手向け、独特な祝詞を上げていた様なので、中臣氏の末孫と言われたことに関連してその関係性に強く惹かれます。

 

その「大祓詞」の内容を読むと、日本国の起源は西から東へ統治されたのではなく、東から西へと統治がされていったと私は読み解きます。

 

つまり「高天原」とは宮城県であり(比定されている)、そこには神々が住み、皇が親がイザナギイザナミに騒ぎが治まらない西の国を平定するように遣わしたのが始まりです。

 

その西の地こそが大倭日高見の国(大和・畿内)なのです。

 

 

神武天皇九州高千穂に降臨して、畿内に東征したことが日本国の起源とする中華思想的な者たちにより、日高の国宮城県である根拠や証拠を日本書記をはじめ、鎌倉時代に編纂された「吾妻鏡」や様々な資料を隠し、それは明治時代廃仏毀釈令にまでにも及び、全国の神社・仏閣を次々焼き払うが如く隠ぺいしたのであろうと史実について謎が解けてくるのです。

 

大祓詞」の一小節目の「豊葦原」と地域は、石巻市の葦原(よしはら)だろうと私は推定します。

 

(宮城県葦原町)

 

瑞穂の国」においてはササニシキが全国一位の生産量であるなど、古来より豊かなお米の産地であったことからも比定されます。

 

更に絞り込むと、瑞穂の国が指す地域は、宮城県の登米市地域であろうと私は思うのです。

 

(宮城県登米市)

 

そして「大祓詞」より「八百万の神たちを 神集へに集へたまひ 神議(はか)りに議りたまひて 我が皇御孫(すめみま)の命(みこと)は 豊葦原瑞穂の国を安国と平らけく 治(し)ろし召せと・・・」である部分から、皇御孫は日和山(日高)の鹿島御児神社に宮を構えて住まわれていたのではないかと考えるのです。

 

やがて西日本の統治と安定を図るため、荒ぶる神々は太平洋側の海流にのり、宮城県側から(あめ・あべ)の鳥舟茨城県へ漕ぎ出たと想像します。

 

(宮城県・塩竈まつりより

 

そして宮城より漕ぎ出た御子神である鹿島天足別命香取神宮祖神の御子神は、共に神々の命を受けて畿内を大倭日高見の国として平定するべく出雲国大国主の元に「国譲り」の交渉に向かったのでした。

 

 

当初、大きな争い事もなく国譲りが行われましたが、いつの時代も平穏な時が経つにつれて欲深い者が現れ、戦乱を起こすものです。

 

特に半島から渡ってきた民たちは、日本国に根付いていた伝統や文化を無視して天津神を軽んじて従わない為、その時代より西側では度々の戦乱が起こり、罪ごとが生じていたと「大祓詞」の内容や古事記から読み取ることができます。

 

後に、日本書記を編纂した藤原不比等ですが、私が思うに中臣鎌足の血を分けた子供ではなく、側近からの成り上った者であったと考えます。

 

 

現代社会でも高学歴で口だけは達者ですが、体を動かす労を嫌い、出世の為にはライバルに濡れ衣を着せるなどの画策をする輩がいるものです。

 

つまりは、古代から人間の本質や行いは、然程変わっていないといえるのです。

 

藤原不比等も悪知恵を画策すことに長けていたのでしょう。

 

古事記の後に編纂された日本書記には、歴史の隠ぺいや捏造が行われ、藤原の正当性を示すのものとして作り上げるのですから・・・。

 

もし、藤原不比等中臣鎌足の血縁者であるならば、東日本の地に藤原不比等の痕跡が少ないのはおかしな話です。

 

私は、藤原不比等は畿内に築いた都から遠征することがなかったのではないかと考えます。

 

恐らく、陰謀を巡らせるあまり信じられる者が少なく、常に命の危機を感じていたのかも知れません。

 

 

都で色事や蹴鞠を楽しみ、外の国で行われる戦いで散った武将の首を都に晒して楽しんでいたに違いありません。

 

(藤原不比等・絵図)

 

そもそも「藤原」姓の由来は、藤の花であることは知られていますが、藤という植物は花の美しさとは裏腹に、壮樹になると他の樹木に蔓で巻き付き、養分を吸い取って樹冠を奪いとって巻き付いた樹木を死なせてしまう林業では有害植物とされているのです。

 

 

文字通り、藤原不比等中臣鎌足の権力と地位を奪い取り、鎌足の死後に藤原鎌足とまで改名して営利を貪り尽して藤原を絶対的な地位までの仕上げたのだと私は思います。

 

ある書籍に高天原宮城県と比定されていると書かれてありました。

 

 

それが本当であるならば、母方本家のお墓の戒名にみる「本源院」という院号から、「本当の源」と解釈できないでしょうか?

 

もしかすると阿部家は本当に天子の血筋であるのかもしれません。

 

嘘みたいな話ですが、本当に不思議な導きから様々なことが繋がって古代に私を誘います。

 

母方の祖父が長男と長女である叔母さんに口伝で「当家は安倍貞任の末裔なんだよ」と言い残した言葉。

 

 (祖父)

 

改めて東京国立博物館に所蔵されているという絵画資料を視ると天子に縁があることに気づきます。

 

 (東京国立博物館所蔵絵巻の関連資料より)

 

平安時代に描かれたとされる絵巻に描かれている安倍貞任公の衣服を注意深く視ると、その柄は嵯峨天皇も好んで用いたとされる九曜菊紋が描かれているのです。

 

 (安倍(阿倍)貞任の絵図より)

 

 

(嵯峨天皇愛用の調度品に施されている九曜菊紋)

 

更に安倍(阿倍)貞任公が手に持つ扇子は、皇室でも使用されている日章旗と配色が同じです。

 

 (皇室社用車に掲げられている日章旗)

 

3年前に大日堂の大日如来に参拝してからというもの、次から次とご先祖について導かされる事柄を本当に不思議に思えてなりません。

 

探求し過ぎるとDNA検査までしないといけなくなりそうです・・・。

 

(江戸時代・老中:阿部正弘 伊勢守)

 

桓武天皇の時代より、神を敬うことを忘れ、私欲を膨らます畿内の都に住む者達によって、が採れる東北地方の財の収奪を目的に侵略的な争い事が始まり、その戦いで多くの人々の命が失われたのです。

 

その時代から、畿内の人々は争いの大義に東日本に住む民を蝦夷といって野蛮人と蔑む教育がされたのでした。

 

畿内から押し寄せる無礼で荒くれ者な連中に対して、地域社会と民を守るために立ち向かったのが歴史書に名を遺す阿弖流為安倍貞任公なのです。

 

上杉謙信公もまた国盗りの為の戦いはせず、義を貫き、国を守るために戦った武将であったことは安倍貞任公にも重なります。

 

 

宮城多賀城に訪れた大伴家持天子を守るために戦い、命を落とした多くの人々の屍をみて詠った和歌を基に作曲されたのが準国歌の「海ゆかば」です。

 

 

幼き頃、詞の意味も分からず歌を聴いて涙を流したものです。

 

今になり、その詞の内容を考えると、とても悲しい気持ちになります。

 

私たち日本人は先人の想いを受け継ぎ、大君と共に在ることを尊く思い、正しい日本の文化・伝統を守り続けなくてはいけないと思います。

 

しんみりな気持ちでYouTubeを観ていたら、元気を頂ける動画と結びついたので紹介させていただきますね!

 

 

川田愛子さんの「ああ宮城県2020」です。

 

健康維持のために振付を覚えようかな・・ 爆  笑

 

やっぱりいいなぁ宮城県!!

 

 

そして最近、私の父方の家も阿部家に繋がる新たな発見がありました。

 

人は因果で生かされていることをつくづく実感しています。

 

 

国譲り 祀られましし 大神の 奇しき御業を 偲びて止まず

                   上皇后美智子さま

祝・令和 !!

 

4月末に阿倍一族の歴史を探求する旅の一環として、その土地のお祭りに参加をしたいとの思いから、信州上田の真田まつりに参加をしてきました。

 

◆  善行寺

 

お祭り前日は、午前8時に長野市の善光寺に参拝をしました。

 

本殿の下を歩く「お戒檀巡り」は、暗黒の中を歩いて行くお参り。

 

声はすれども前後に歩く人の姿は全く見えず、霊界の中をまるでさ迷っている感じになります。

 

私は事前に下調べもしないで入ってしまったので、進んでいいやら、どうしていいやら分からず不安になりながらも何とか出口まで至る事ができました。

 

好きな人と一緒に「お戒檀巡り」されると、きっと思いが成就することでしょう。

 

何だかちょっぴりセンチになったりして・・・。

 

後で、ネットで調べてみると、な、なんと、出口の前に「極楽の錠前」があり、その錠前に触れることで来世の極楽浄土が約束されるとのこと。

 

極楽の錠前」に触れていないので、「令和」になって再び善光寺に行きたいと思います。

 

本殿内にあった「おみくじ」を引くとと「大吉」でした。

 

そして順番に並んでいた御執印を受ける窓口は、「1番」でした。

 

考えてみると、おみくじの下一桁の数字は「1」番、ホテルに泊まったそれぞれ違う日の部屋番号の下一桁も「1」番でした。

 

これも御加護なのかな?

 

あー、ありがたやー

 

◆  駒形嶽駒弓(こまがたけこまゆみ)神社(御執印はなし)

 

善光寺を後にして、車のナビで周辺を検索すると気になる神社名が表示されたので、参拝に向かいました。

 

その神社は、善行寺から山に向かって車で3分程の距離にある駒形嶽駒弓神社です。

 

駐車場に車を止めて参道を歩くと、どこからかキジの鳴く声が聞こえてきました。

 

宮城県の私の母方の阿部のご先祖のお墓参りの際も、キジが姿を現したことを思い出しました。

 

そして、安部貞任公の母親の住んでいたとされるお寺へ伺った時も、キジの姿を見たものです。

 

参道の階段を上りきると、そこに拝殿がパワーを放ち鎮座していました。

 

境内には善光寺の人混みとは異なり、誰もいません。

 

しかし、拝殿の前には大きな石があり、その存在感に圧倒されます。

 

建物から受ける不思議な感覚は、まだ参拝に行っていないのですが島根県安来市岩舟町の白山神社奥社と福島県田村市船引町の安倍文珠堂と同じ造りの社殿の様に思えるのです。

 

福井県白山神社は、安倍貞任公の妹の息子である奥州平泉藤原清衡白山神社平泉寺の縁の寺として、同じ「平泉」と名を用いたのでしょう。

 

そして駒形嶽駒弓神社の社殿前の大岩は、「さざれ石」のように私には見えました。

 

社の神紋は「卍紋」です。

 

この神社は、善行寺が7世紀後半に創建されたよりも古くからその地にあり、産土神(うぶすながみ)として、この一帯の地の守り神であったとのことです。

 

神社名からして、武人の神でもあるように思えます。

 

そして、善行寺を参拝される多くの人が知らないようであるが、(勿論!私も・・・。)この神社は善光寺の「奥院」とのことで「如来さん」とも言われていたそうです。

 

「如来さん」とは、大日如来を指しているのかも。

 

御祭神は健御名方観富命彦神別神(たけみなかたとみのみことひこがみわけのかみ)です。

 

由緒によれば、本殿には4頭の神馬がお祀りされていて、中央の黒駒の鞍に「」が記されていて、聖徳太子がお乗りになっているとのことです。

 

私は行く先々の神社で「阿倍一族のことを教えてください」とお祈りしています。

 

ここもまた導かれる様に行くことができて、本当に有難く思いました。

 

ここの神社から戸隠神社へ続く道になっていますが、何故か次の日の信州上田・真田まつりが気になり、上田市方面に車を進めてしまいました。

 

◆ 八幡神社(御執印はなし)

 

ここの神社境内には、「川中島の合戦」での武田信玄公と上杉謙信公の姿像があります。

 

「川中島の合戦」では、武田方が武田方、上杉方の双方の戦死者をも関係なく手厚く葬られたことに感謝して、武田信玄公が塩に困っていると聞くや直ちに「我、信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と贈り、乱世においても恩に報いた正々堂々たる武士道精神の美談が残されています。

 

神紋は「三つ巴紋」です。

 

上杉謙信公は毘沙門天を崇拝しており、山形県を拠点にしている武将です。

 

山形県出羽三山があり、特に湯殿山は私の母方の阿部家の本家の所有そる山にある熊野神社の境内にも石碑があることから、関係性が強いと考えられます。

 

また、阿倍氏関係する鹿島神宮からなる春日大社由来の春日城を拠点としていたことにも興味が及びます。

 

因みに安倍貞任公も毘沙門天と言われていました。

 

◆  皆神神社

 

ネットで見ると阿倍一族には全く縁がないパワースポットと考え今回は行くのを見送る予定でしたが、八幡神社から以外に近い距離にあることが分かり車を向けていました。

 

皆神神社の鎮座する皆神山は、「世界最古のピラミッド」といわれているそうですが、私はそう思えませんでした。

 

ただ感じたことは、皆神山の山頂は「」の気に包まれているようです。

 

鳥居の前の松の木と桜の木は、男女を表している様で、お二人で温かく迎えて頂いている様に思えて大変嬉しく思いました。

 

本殿で参拝の時、柏手の後に拝礼をすると、そのタイミングで本殿裏から歌声が聞こえてきました。

 

何事と思い裏手に回ると、神主と関係者達の祝詞?の神事だったのです。

 

何だか素敵なタイミングで参拝できたことに有難く思いました。

 

社の神紋は「菊紋」でした。

 

私には、皆神山ピラミッドというよりも、人々から慕われ大切に思われた人物(神)の大きな墳墓であるように思えてなりません。

この場所に導かれたのにも何か意味があるのかも知れません。

 

◆  古大穴神社

 

森将軍塚古墳に車で向かう途中、通りすがり気になった神社です。

 

長野県の道を走ると、あちらこちらに神社仏閣を目にしますが、何故かこの神社は見過ごすことが出来ないと感じて車を止めました。

 

車を止めて鳥居に向かうと、なんと今は少なくなった木造の鳥居です。

 

素晴らしい!

 

神社の名前は古大穴神社です。

 

本殿の裏手は小高い山となっており、恐らく丘全体が古墳であるのでしょう。

 

よくよく見ると斜面に石垣が見え、古墳の一部のように思えます。

 

本殿とされるところは、もしかすると拝殿であるのかもしれません。

 

その前には諏訪大社と同じように御柱が立ってお祀りされています。

 

社の神紋は「梶の葉」で、御祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)でした。

 

社殿の横にお社があるので確認すると、天照皇太神宮を中心に秋葉神社宗方神社津島神社八幡宮天満宮大山祇神社でした。

 

地元の人しか知らないであろう神社ですが、古代からある重要な神社に思えます。

 

◆  森将軍塚古墳

 

ここは、ネットで見て是非行ってみたいと思った古墳の一つでした。

 

畿内にある古墳と異なり、山の上部にある古墳になります。

 

埋葬物は、調査以前に盗掘にあって全容は不明とのことですが、残されていた装飾品などからもその技術力や創作能力の高さをうかがい知ることが出来ます。

 

古墳からの眺望は最高です!

 

 

古墳の下にある公園は古代の住居なども再現されていて、日本の原風景から心の安らぎを覚えます。

 

古墳の近くを流れる川は、車のナビから「伊勢宮川」であることを知りました。

 

この古墳に埋葬されていた人物はいったい誰だったのでしょうか?

 

◆  ピラミッド

 

長野市から上田市に向かう途中、ピラミッド型の山がありました。

 

皆神山がピラミッドと言われていますが、こちらの山の方が正にピラミッドに見えるのですが・・・。

 

◆  安楽寺

 

次に向かったのは国宝の八角三重之塔が在る安楽寺です。

 

由緒によると、安楽寺鎌倉時代には鎌倉北条氏の外護によって禅寺として栄え、学僧を育てたとあるお寺とのこと。

 

北条氏の系譜は平家であることから、「」が示すように安倍氏との繋がりがもしかするとあるのかもしれません。

 

寺紋は「三つ鱗

 

八角三重之塔の周囲には墓石に囲まれるように建っています。

 

私の感では、お寺を維持するために檀家の力が必要であったのかもしれません。

 

だから時代的に新しいお墓が多くみられるのだと思います。

 

違ったらごめんなさい。

 

ただ、八角三重之塔からは霊気を感じることが出来ました。

 

御執印からご本尊は釈迦如来ということが分かりました。

 

◆  北向観音

 

安楽寺と同じ別所温泉街にあり、温泉街はGWでもあって賑やかでした。

 

寺紋は真言宗を意味する「輪宝紋」と「菊紋」です。

 

 

紋幕は「笹竜胆紋」で、岩手県鬼剣舞などの胴衣にその紋が見られます。

 

笹竜胆紋の紋幕)

 

因みに安倍(阿倍)氏に縁のある茨城県鹿島神宮本殿北を向いて鎮座しています。

 

北向きには、星信仰も考えられますが、東北の地に居た大神を崇拝して向いているとも考えられます。

 

ここの北向観音は、関西方面から団体で来られた信者の皆様が般若心経を唱えるなど活気が感じられました。

 

◆  信州上田・真田まつり

 

せっかく長野に来たのだから、休日を満喫しちゃおうと思い、真田まつりに参加をしてしまいました。

 

役柄は槍足軽と雑兵です。

 

いざ、合戦になると先陣を切って命を落としていった歩兵部隊。

 

こうした兵士達の忠誠があってこそ、大将として地位が保たれることを権力者は忘れてはいけません。

 

真田まつりの武者行列上田城から出陣です!

 

沿道の両脇には太鼓囃子が鳴り響き、鼓動が高鳴りました。

 

何度か武者行列に参加をして覚えたことは、沿道のお客さんと一緒に楽しむこと!

 

私は幼い子を見つけると、手を振り返してくれるまでバイバイと手を振って笑顔を作ってまわりました。

 

でも、やっぱり重鎮役でないと気分がのらないなぁ・・・。

 

今回、初めて行った上田城は、堀の深さに驚かされました。

 

因みに森鴎外の小説「阿部一族」では、阿部家は槍の名手であったと描かれています。

 

次回は重鎮役で!

 

 ◆  鹿教湯文珠堂

 

真田まつりを終えて衣装を着替えたら、文珠堂へ向かいました。

 

今回も1人で行動しているので、寂しいけれど身動きがしやすいのが利点です。

 

この文珠堂の由来は、文珠菩薩の化身とされる鹿が猟師に温泉のありかを教えたことによるとされています。

 

更に調べていくと聖武天皇行基が関係していました。

 

私が考えていた通り、奈良県桜井市阿部に在る山・阿倍文珠院は、長野県のこの地に文珠堂を建立して、次に福島県田村市船引町の安倍文珠堂を築き、宮城県の地に赴いたのだと考えるのです。

 

福島県にみられる地名の「船引」は、天子が乗る舟形の輿のことと考えられます。

 

そして奈良鹿島厳島など阿部(安倍)に縁のあるところは鹿が神の使いとして大事にされていることも関連していると思います。

 

更にここの文珠堂の境内裏に墓石があるのを発見して墓石を見ると、私の母方の阿部家の墓の家紋と同じ右が上の「鷹の羽紋」でした。

 

更によくよく見ると、その周りには「菊紋」が刻まれているのです。

 

東北の阿部一族に関連する吾妻鏡などの様々な資料が失われていることは、意図的に隠されているとしか考えらないのです。

 

その理由が、こうして残されたものから「何故」を読み取れることが出来るのです。

 

文珠堂を参拝すると天井にが立体的に描かれていました。

 

まるで生きているようです。

 

神紋は「桐紋」と「菊紋」です。

 

そして本殿屋根を見ると、鬼瓦部にはではなくの顔が掲げられていました。

 

九頭竜との関りも考えられます。

 

更に境内にある薬師堂には、仁王像が安置されています。

この文珠堂に来られたよかった!

 

◆  金峯山法住寺・虚空蔵堂

 

文珠堂から上田市に向かう道中に気になりよってしまったお寺です。

 

勿論、GWにも関わらず参拝客は誰もいません。

 

寺の由来を読むと、檀家を置かないお寺とのことです。

 

先に紹介をした奈良県桜井市阿倍文珠院も檀家のいない寺院です。

 

お寺の前の石仏と「法住寺」というお名前から、中国から渡来した法を説く重要人物が住んでいたと考えられます。

 

屋根を見ると、鬼瓦のからも力強いパワーを感じました。

 

私にはこの虚空蔵堂、弘法大師空海に関連する寺院のように思えます。

 

本殿からは物凄い霊気を感じられる場所でました。

 

◆  (阿)曽神社(御執印なし)

 

なんと長野県にも安曽(阿蘇)神社がありました。

 

九州熊本にある阿蘇神社の神紋は「鷹の羽」です。

 

しかし、ここの神社の神紋は「梶の葉紋」と「菊紋」でした。

 

境内は広く山門も立派なのに、社務所もなくて御執印はいただけません。

 

何故か「阿部」(安倍)氏に縁のある所は、朽ちてその系譜を忘れさせようと何らかの力が関わっているように思えてなりません。

 

境内は広く、様々な神様のお社が点在しています。

 

その杉の木立の中にあるお社を参拝して回ると、きれいに落ち葉が掃かれているのです。

 

地元の人たちに大事にされている場所だろうなと思いながら木立の中を歩んでみると、穴に青い旗が立っていることに気づきました。

 

なんと、きれいに掃かれていた所をよくよく見ると、ゲートボールのコースでした・・・。

 

境内を歩いて来た道を戻り山門を見ると、珍しく神馬が二頭祀られているではありませんか!

 

この神社もまた由緒ある重要な古い神社であると思われます。

 

そして、阿倍氏蘇我氏の関りは一般常識と異なり、物部氏よりも蘇我氏との関りの方が強かったのではないかと思えてならないのです。

 

蘇我氏の「」は、「」という字もあてられる他に、「」とも表されることがあるのです。

 

突然現れたとされる曾我氏ですが、もしかすると曾我氏隠岐の島に関わる宗方氏に関連があるかもしれません。

 

 ◆  戸隠神社

 

私の祖の阿倍氏の足跡を辿る平成時代の最終日、私は今まで信仰心も何もなかったのに、大日堂大日如来を拝んだその時から様々なことが降りてくるかの如く導かれ、先祖のことに興味を抱くようになって今に至ります。

 

平成時代の最後の日は、戸隠神社へ参拝することにしました。

 

特に信仰心はないのですが、下着は全て新品を用意して、朝シャンで身を清めた後に新しい下着を身に着けて出かけました。

 

戸隠神社(奥社)へ向かう道中は小雨が降っていましたが、参道を歩く頃には傘をたたんでも大丈夫な程になりました。

 

参道の杉並木もネットで事前に確認していたので特に驚くことはありませんでしたが、感じたことは参道の脇を流れる沢の水音や鳥の囀り、心の奥からとても癒されます。

 

奥社へ近づくにつれ、雪の積る量が増して歩行が容易ではなくなっていきました。

 

ご年配に方は、足元が安定しないので怪我をしないか心配になりました。

 

そして戸隠神社(奥社)には、午前8時40分に到着。

 

奥社と九頭竜社を参拝した後、社務所で御執印を頂こうとすると、午前9時から受付開始とのこと。

 

私の前には既に20人以上の行列ができていました。

 

待つ時間は、周囲の雪の影響で気温も低くなり、汗をかいた体には少し応えます。

 

そんな思いで並んで待っていると、どこからかキジの鳴く声が聞こえてきました。

 

その鳴き声は次第に大きくなるのですが、どこにいるのか姿は見えません。

 

また、寒い場所にも関わらず、明るく可愛い鳥の鳴き声もしてきました。

 

まるで温かく迎えられているようで、嬉しく思いました。

 

戸隠神社の神紋は「卍紋」と「菊紋」です。

 

このブログ記事を綴っていて気付いたのは、奈良県桜井市阿部にある阿倍文珠院は、山号を卍山とのこと。

 

今回参拝した善行寺善行寺奥社戸隠神社などは卍紋であり、卍山の山号を持つ阿倍(安倍)一族がこれらの古社に関連することから、日本の起源に関りがあると思えてなりません。

 

御執印の頂いた後は、参道入口に在ったお蕎麦屋さんで信州そばを頂きました。

 

御蕎麦を頂きながら、「阿倍(安倍)一族は古代から大君を御守りしてきた一族なのかも・・・。」と思い、平成の時代を振り返りました。

そして「令和」の年。

 

新しい天皇と共に平和で希望のある明るい未来をつなげていきましょう。

 

 

我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。

                     平成天皇

令和と元号が決まりましたね。

 

 

令和の語は万葉集から用いたそうです。

 

時に、初春の令月にして気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す

 

 

我が家の庭にある神様にもご報告を。

 

 

今後ともよろしくお願いいたします。

 

(地元の山から望む令月の梅と富士山)

 

うかねらふ跡見山 雪のいちしろく 恋ひば妹が名 人知らむかも

作者不詳

私は今、自身のルーツを調べていますが、古書店であるDVDと巡り合いました。

 

価格が100円でしたので、軽い気持ちで観てみたら「これは!」と感じるものがあり、はまってしまいました。

 

そのDVDのタイトルは「楊家将」です。

 

 

楊家将」は中国代の北における楊一族の活躍と悲劇を伝えるもので、日本では北方謙三氏が小説にしています。

 

楊家将』の伝承では、楊業という者が北漢の将軍として仕えていて戦闘で戦死すると、それを継ぎ7人の息子達が共に結束して戦国の世で戦う物語です。

 

中国では、三国志に並ぶ程の人気があるそうですよ。

 

 

このストーリーを見ると、まさに平安時代中期東北安倍(阿倍)一族安倍(阿倍)頼時の息子たち、安倍(阿倍)次郎貞任(さだとう)を頭に7人の兄弟が「楊家将」と同様に源頼義源義家ら親子が率いる征夷軍と戦う前九年の役に重なります。

 

楊家将」では楊業の7人の息子のうち、四郎延朗(石幻果)、五郎延徳、六郎延昭ら3人が生き残りました。

 

 

因みに、北方謙三氏版の「楊家将」では、七郎延嗣も生き残ったことになっているそうです。

 

(※注: 因みに「現在の中国人は、古代の三国志時代までに生きた人々とは違う民族に入れ替わっている」とある書籍には示されています。)

 

 

諸葛孔明も「墨家」であった。

 

墨家は、儒家(儒教)と対極にあって欲望に満ち溢れ戦乱の治まらない大陸を離れ、日本国に移り住んだものと考えられます。

 

それが日本における山岳信仰(修業の場)となったのです。

 

日本人の「慈愛」の精神と「ものづくり」の精神はここから受け継がれているのです。

 

墨教における「慈愛」の精神は、「景教」(キリスト教)の教えであり、日本における仏教思想の中に融合されて、日本独自の「神道」に成ったと私は考えます。

 

更に儒教の祖ともされている孔子は儒教の出世の教えを嫌い、人としての「生き方」を説いているので関係がないと思っていたところに石平氏の出版された「なぜ論語は善なのに、儒教は悪なのか」で確証を得ました。

 

真実は自ら興味をもたないと得られないのです。

 

 

話は戻り、東北安倍(阿倍)一族の長男の比殿と三郎宗任ら弟達も生き残っています。

 

まさしく東北安倍(阿倍)一族は、日本の楊家将の物語に重なります。

 

 

    (安倍貞任)

 

森鴎外の小説は九州細川家に仕える「阿部一族」の内容で、やはり父を慕い尊敬し、兄弟が結束して忠義の元に武士道から外れる陰謀役人に対して名誉を懸けて戦う物語です。

 

 

 

そして、阿部氏と同じ「鷹の羽」家紋の浅野内匠頭も、吉良氏の陰謀と侮辱に耐えかね、祖から受け継ぐ名誉を守るために太刀を抜いてしまいました。

 

 

 

喧嘩両成敗の世にあって、吉良氏は咎めなく浅野氏のみが切腹を命じられます。

 

 

その主君を慕う家臣達は忠義を尽くし、武士としての精神を「赤穂浪士」や「忠臣蔵」といった物語として日本人としての正義心の大切さを語り続けているのです。

 

 

その精神性に影響を受けたのは日本人だけでな、くトム・クルーズ主演の「LAST  SAMURAI」(ラスト サムライ」や、キアヌ・リーブス主演の「47RONIN」(フォーティーセブン・ローニン)などからみられる様に海外にも及んでいます。

 

 

 

 

 

 

母の阿部兄弟も皆、父を尊敬して慕い、それに従い、そして兄弟同士が争いもなく結束していたことにも思いつながります。

 

因みに私のは生き残った長男で盲目の僧将:比殿であると思われます。

 

前九年の役で戦乱の中、比殿北上川を船で下り、岩手県から宮城県石巻市に逃れ余生を過ごしたと考えます。

 

その根拠もあるのですが、ここでは省略させて頂きます。

 

また、命乞いをしたと伝えられる異母兄弟で三男の宗任は、源義家と年齢が近かったこともあり、前九年の役となる9年間の付き合いのなかで義家との友情も芽生え助けられたのでしょう。

 

そして、京の都に送られた宗任九州へ流された後、山口県に移り住んだのでした。

 

九州中国地方に残る安倍(阿部)の縁の地名や神社と安倍氏は、安倍宗任が由来であると個人的に考えます。

 

因みに東北安倍氏は古来からの「阿倍」から「安倍」に替えられましたが、徳川の時代に「」に戻して、阿部と姓を改めたのでした。

 

そして、阿部徳川幕府内において、世襲で老中の役を担うのです。

 

また、阿部正弘伊勢守(いせのかみ)でもあり、阿部大明神ともいわれるなど伊勢神宮とも縁が深いのでした。

 

私は平安時代に生きた阿倍一族は武士道精神の礎となり、忠義の人達に思えます。

 

また、安倍一族を描いた小説、高橋克彦氏の「炎立つ」も是非ご一読頂ければ嬉しです。

 

 

NHK大河ドラマ「炎立つ」のオープニング

 

 

安倍(阿倍)一族ののことを深堀していくと、私の生き方が恥ずかしくなってきます。

 

歴史を振り返ることで、今の平和な時代を生きる私たちは先人の願いを知り得て、後世に守り伝えなくてはいけないと感じます。

 

 

  (将門まつりにて)        (仙台青葉まつりにて)

 

君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず

                                 孔子

         

 

 

阪神・淡路大震災から24年の今日、改めて震災でお亡くなりになった方々のご冥福を心からお祈りいたします。

 

あの日を思えば、私の長女が1歳になる年の出来事でした。

 

月日の経つのは本当に早いものですね。

 

以前、ブログに綴った「奇跡の鉛筆」の記事を再度ご紹介させて頂きます。

 

そして、ブログに綴った方と今もお手紙だけですが、繋がらして頂いていることに感謝致します。

 

**■2017年1月のブログ「奇跡の鉛筆」から*******************************************

 

一昨年のこと、私の娘が通う学校のPTA会合に出席をしていた時、校長から呼び出しがありました。

 

私は何事かと思いながら校長室に出向くと、そこには校長と教頭の二人が私を待っていました。

 

「うぁ~っ、何かいけない事でもやらかしちゃったかなぁ・・」と頭を下げ下げ、ソファーに腰を下ろすと、校長から郵便封筒を渡され、「書かれている手紙の内容に心当たりがありますか?」と尋ねられました。

 

封筒に書かれている差出人のご住所は「大阪府豊中市・・・」、はて?

 

私は何が何だか訳が分からず、取り合えず手紙を読んでみました。

 

冒頭に「学校の皆様へ」と始まる文章で内容は以下のものでした。

 

 

*******************************

 

学校の皆様へ

 

寒さの中、それでも草は元気に美しいみどり色に輝いています。

 

阪神淡路大震災から20年過ぎました。

 

私のペン立てに20年前のエンピツが1本ずっと机の上にあります。

 

金色3本、紺色3本の6画のエンピツ

 

紺色の面に「豊かな社会に緑のそよ風」

 

反対の金色の面に「神奈川県緑化推進委員会」「県立〇〇高校・(私の名前)」と

 

私は当時、豊中市こども会連合会で役員をしていました。

 

あの時、文具が支援物資として全国から送られてきて、それを私達はこども会の子供達や、困っている子供達に届けたり、又、来た文具を種類別に仕分けしたりと感謝をしながら忙しい日々を送りました。

 

少し落ち着いて私も7本エンピツを頂き、持ち帰りました。

 

その中の1本に、この名前入りのエンピツがありました。

 

ずっと使って名前の所まで来て何となくそこまでで名前の消えるのがいとおしくなって、そのまま立っています。

 

もし、当時この名前が生徒さんとしたら、今35か6かと想像します。

 

その年齢、社会でも家庭でも一番たよりにされる年だなあと考えます。

 

市こ連の役員は一昨年で卒業しましたが、人手のないカルタ大会などは手伝いに行きます。

 

地域ではボランティアでウロウロ(80歳ですから)しています。

 

自分が好きで、みんなが好きで幸せです。

 

仲間の役員さんで亡くなった方もいらっしゃいますが、何かをしている時、ふとみてくれてるかもしれないと思います。

 

つまらない手紙ですがエンピツみてると山ほど空想が生まれてね

 

皆様の健康と幸せを心から祈りながら

 

                                27.2.3

                                藤原 〇〇子

 

お礼が後になりましたが、震災の時はありがとうございました。

心より厚くお礼申し上げます。

 

******************************

 

私は、直ぐに高校3年生の時に標語コンクールで受賞した時の作品と分かり、手紙を読んでいてこんな形で自分の所に戻ってきた奇跡を感じながら、何だか胸が詰まり涙が溢れて止まりませんでした。

 

 

恥ずかしい話し、娘の通う高校は進学校とは言えないどちらかというと緩い学校ですが、明治時代から在る伝統校でもあり、私の父も叔父も通った学校で私の母校でもあります。

 

末っ子の入学を機に初めてPTA役員に成りましたが、もし、私がPTA役員をしていなければ、このお手紙を学校で受け取ったにせよ、当時の学生を調べて連絡することはなかったと校長は述べていました。

 

お手紙の中では、鉛筆の名前の生徒さんは、「35、6歳」と書かれていますが、既に私は50歳を超えております。

 

ですから、30数年ぶりに人様のお役に立てて私の所に分身が戻って来たことを考えると、本当に奇跡としか言いようがありません。

 

( 授賞式当時の写真 )

 

そして、この方々達のご尽力を考えると、私の行っていることは本当に小さく恥ずかしくなりました。

 

私も人生、人様のお役に少しでも立てるように心がけて、これからも生きていきたいと思います。

 

今年、このお手紙の方からお年賀状を頂きました。

 

80歳を過ぎてお会いするのは苦手と書かれていましたが、今年早々にお会いしに行きたいと思っております。

 

ご縁の不思議を感じながら、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

 

ありがとうございます。

 

***************************************

 

 

己れの欲せざるところは人に施すことなかれ

                         孔子

 

 

私の祖を辿ることを目的にネットを調べていると、富士山周辺に「不二阿祖山太神宮」という場所があることを知りえました。

 

 

休暇となった年末に何か新たな発見があるかもと期待して現地へ行ってきました。

 

天気も良くて温かく、睡眠不足もあったので運転中にウトウトしてしまう程の陽気でした。

 

行く途中、既に知り得ていた徐福のことを思い出し、「徐福の墓」を検索して最初に向かうことにしました。

 

先ずはカーナビに番地がヒットしなかった徐福公園。

 

住宅地で散歩中の女性に声を掛けて尋ねると、2メートルとない角を右に曲がった先に祠がありました。

 

 

小さめな徐福の像が建立されていて、人物を立体的に見ることができて嬉しく思います。

 

そして、祠の中には徐福国から海を渡ってきた乗船の模様を表した模型が飾られていました。

 

 

徐福公園は、その祠の先にありました。

 

池の湖面は凍っており、暖かな日差しを受けて輝いています。

 

 

ただ、ここでは何も感じるものや得るものがなかったので、早々に徐福の墓とされる場所へと向かいました。

 

カーナビで検索すると、徐福公園から墓までは目と鼻の先で、小高い丘の上に在りました。

 

不思議なことに私のカーナビでは、何故か「天照皇大神」と表示されているのです。

 

 

空き地に車を止めて、一人で薄暗い拝殿へと向かいました。

 

参道階段の途中には、お稲荷様が祀られている祠があります。

 

 

そして丘の上は拝殿がありました。

 

 

拝殿は木々に覆われて薄暗く、頭上にはカラスが何羽と飛び交い、少し異様な空気感を感じます。

 

 

その薄暗い境内を見て回ると、「邪馬台国王」と記るす石碑を目にしました。

 

 

私の考えでは、「邪馬台国」は元々四国にあったと推測しているだけに、訳が分からなくなってきます。

 

もし、このお墓が邪馬台国に関係する者をお祀りしているとするならば、年代的に視て卑弥呼の父にあたる者の墓とも考えられます。

 

 

そして王朝文化富士山麓周辺に在ったのではと思われるのです。

 

もし、仮説が正しいとすると、その富士山王朝文化は富士山の噴火と共にこの地から消え去って、確認ができなくなっているのかもしれません。

 

そして、このお社をお祀りする丘は、もしかすると古墳と考えられます。

 

徐福という人物は、日本国が縄文時代から弥生時代へと移る時代の人です。

 

 

その時代に記された中国の『史記』によると、徐福は「東方の海上に蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、えい州という三神山に仙人が住んでおり、不老不死の霊薬がある」と秦の始皇帝に申し出ました。

 

その結果、徐福の嘆願は受け入れられ、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に向けて海上を船出したそうです。

 

そして東方の海上にある日本へ漂着すると、蓬莱(ほうらい)を探す旅に向かいます。

 

その向かってたどり着いた先が蓬莱山と信じた富士山だったのでしょう。

 

一説によると、富士山の名称は「不死(ふし)」から「富士(ふじ)」となったともいわれているのです。

 

史記」によると徐福はその後、「広い平野と湿地を得て王となり、には戻らなかった」との記述があることから、富士山周辺を拠点に技術者集団と共に都を形成していったものと考えられます。

 

中国ではこのことが伝承されており、が滅んで北宋の王朝時代にも、政治家・詩人でもあった欧陽脩が「日本刀歌」の中に「日本人の祖である徐福を欺き、薬を採取して連れて行った若者たちとその地に長らく留まった。

 

 

連れて行った者の中には各種の技術者が居たため、日本の道具は全て精巧な出来である」(「其先徐福詐秦民 採藥淹留丱童老 百工五種與之居 至今器玩皆精巧」)という内容を書き示し、日本のことを説明する部分が存在しているそうです。

 

私の住まいがある神奈川県にも、富士山に象徴される木花咲耶姫の父である大山があり、山頂には阿夫利(あま)降り立つ)神社が鎮座しています。

 

その大山の麓には秦野(秦)と伊勢原(伊勢)の地が広がっており、その中にある神社の由来をみると、大山スサノオが降り立つと記されているのです。

 

 

そしてこの秦野市には、出雲大社(相模分祀)が大山をご神体とするように鎮座しているのも意味があるように思えます。

 

 

徐福は、海上を航海して神奈川県の西部より上陸した後、山梨県の富士吉田へと向かって定住したのではないかと考えられます。

 

その過程において、機織りや土木建築などの技術を伝えた発祥地として、とつく神奈川の地名へと成ったとも思うのです。

 

そして神奈川県の大山より北側には丹沢山系が連なり、丹沢の「」が意味する単語は、始皇帝も服用していたとする水銀を指すものなのです。

 

 

神奈川県の西部、山北から小田原市の中央を流れる川は、の祭司で重要な「」に関わる「の匂いの川」、酒匂川が流れています。

 

酒匂川で有名な人物といえば、二宮金次郎ですが、金次郎は身長が180㎝程あったそうですから安部(阿倍)貞任公や平将門公らと同じようにペルシャの血を継ぐ渡来系の武人であったと考えられます。

 

 

 

その根拠は、秦の始皇帝兵馬俑は原寸大で作られているとのことで、そこからみると日本人の平均身長が160㎝前後の古代にあって、兵士たちの身長は180㎝前後と長身だったことからも言えます。

 

 

将門伝説では、将門公の家臣であった者たちは、山北に住んだと伝えられているのです。

 

 

ヤマトタケル関東(坂東)に遠征したときに通ったとされる金太郎で有名な足柄峠には、天狗寺ともいわれる最乗寺(http://www.daiyuuzan.or.jp/が鎮座しているのも、西日本からの侵略者から守る要の関所であったのです。

 

 

他には、東京都内になっている八王子市ですが、昔は神奈川県の地域内にあって、その人の王子が住む丹沢山系から流れ下る川を相模川(さ神川)といい、その川の流域に広がる平野を「神の川」(からの)から由来して「神奈川」となるのです。

 

また、神武天皇の子で2代天皇となる綏靖天皇は、御名を「名川みみ尊」とといい、もしかすると神奈川とも何らかの所縁があるやもしれません。

 

 

話は戻り、徐福の墓を後にして「不二阿祖山太神宮」へ向かいました。

 

そこまでの距離は車で5分程、細い川沿いの道の先に在りました。

 

 

しかし、「不二阿祖山太神宮」は現在建築中の様子で、何ら気を感じることも出来なかったので参拝せずに失礼させて頂きました。

 

 

一昨年の暮れ、奈良橿原神宮に行った時と同じような気持ちになりました。

 

 

それは、私には「空っぽ」の様に感じてしまったのです。

 

 

ただ、「不二阿祖山太神宮」へ向かう途中にあった山神社敬神と入口に刻まれた石碑の場所が気になり、帰りに寄らせて頂きました。

 

山神社は、安倍(阿部)貞任公の生誕の地とされる宮城県の場所にもあり、「敬神」は前々回のブログに綴った信州阿部神社社殿内に掲げてあったので気になってしまったからです。

 

 

山神社は林の中にあるのですが、心地よい風が通り、先に行った徐福の墓の空気感とは全く違いました。

 

 

山神社の直ぐ脇に「不二阿祖山太神宮」は建築されているので、「ご神体をこの山神社にすればいいのに・・・。」と思ってしまいました。

 

 

そして山神社を後にして「敬神」と刻まれた石碑の所に向かうと、鳥居が左右に存在しているのです。

 

 

左側の鳥居には「南朝英霊社」とあり、右側の鳥居には「秦山府君大神」と掲げられてありました。

 

 

秦山府君大神から、秦の始皇帝の時代に国から渡来した徐福がこの地に都を開いたと推測できます。

 

 

石碑には何故か安倍清明と同じ五芒星が刻まれていました。

 

 

両方を参拝すると中央の奥に祠が見えたので、何の神様を祀ってあるのか分からないまま、自然と手を合わせたくなり、参拝をしてきました。

 

 

後で調べると、その中央の祠は「北東本宮小室 浅間神社・旧社」と確認ができました。

 

 

阿部(安倍・阿倍)氏は中臣(中臣鎌足の墓所は、阿武山古墳)を祖とし、忌部氏とも関係があることから南朝ということのようで、「ここに来た意味が何かあったのかな・・。」と考えさせられました。

 

 

天皇家は、南朝北朝に分かれているのですね。

 

興味がなかったので、日本史に南北朝時代があったことをすっかり忘れていました。

 

北口本宮富士浅間神社にはよくよく参拝に行くのですが、浅間神社のこんなに近い所にこのような場所が存在していたとは、正直驚きでした。

 

帰宅して大晦日から元旦のこの数日で、阿部(安倍・阿倍)の祖のことが次々と結びついて、ルーツをまとめ上げるまでになってきました。

 

そして、私が母や母方の叔母さんから氏族で、祖父が幼少のころ「天子様」、「立派様」と呼ばれていたことや、明治時代初期に亡くなった曾祖父の戒名は、坂上田村麻呂縁の寺より賜った「本源院」となる院号であること等から嘘ではないと信じるようになりました。

 

ルーツを調べる中で「」となることは、日本書紀などにみる内容は藤原氏(物部氏)が都合よく改ざんして、真実を隠しているということに気づくことです。

 

例えば、中臣鎌子中臣鎌足に置き換えて「藤原鎌足」と言い換えるなど・・・。

 

 (中臣鎌子)

 

 

奥州平泉の「藤原清衡」も、本来は阿倍(安倍・阿部)清衡と名乗りたかったに違いありません。

 

そう思うと不憫に思えます。

 

 

そして、その証拠隠しは、今も現在進行形ということです。

 

2年間でここまでのことが分かるということは、本当に不思議な導きのおかげとしか言えません。

 

母や叔母さんが元気なうちに、何とかまとめ上げたいと思います。

 

 

新しき 年の初めは いや年に 

      雪踏み平(なら)し 常かくにもが

                         大伴家持

 

 

 

あけまして おめでとうございます。

 

 

地元にありながら初めて参拝しました出雲大社(相模分祀)

 

 

昨日は父方の墓参りをしたら住職から声を掛けられて、本殿のすぐ裏に在る父方の先祖も古くからこの地に住んでおり、昔は名主であったことを聞きました。

 

 

そして、新年を迎えて母方の阿部の祖について新たな証を発見できました。

 

今年をもって完結できそうです。

 

 

出雲たつ 出雲八重垣 妻籠みに 

八重垣つくる その八重垣を

     スサノオノミコト

先ずは、天皇誕生日における85歳のお誕生日をお迎えして心からお祝い申し上げます。

 

TVで拝聴いたしました天皇陛下から皇后様に対する心温まるお言葉には、目頭が熱くなりました。

 

本当に皇后さまのお優しいお姿は、菩薩様のように思えます。

 

この国は、真に素晴らしい国だと改めて思いました。

 

 

さて、ちょうど2年前、しばらく綴ることを休んでいたブログを始めたその時、自分の祖について特に関心はありませんでした。

 

それが、大日堂への参拝がきっかけで平将門公に関心を抱き、平安時代の歴史へと私を誘い、東北地方一帯を統治していた安倍(阿部・阿倍)一族が自分の祖先であることを知りえたのです。

 

 

東北安倍氏は、奈良時代にあっては阿倍氏と姓字を用いており、現代の東北における阿部氏は江戸時代に姓字を改めたものと資料から確認ができたのでした。

 

つまり、平安時代東北を統治していた安倍氏は、多くの書籍で蝦夷の豪族と記されていますが、真実はもしかするとこの日本国の王家であったと考えられるのです。

 

天孫降臨の舞台の高千穂よりも遥か以前に、青森の地には秩序ある文化が築かれており、戦争のない共存共栄の平和な社会がそこにはありました。

 

その痕跡が青森県にある山内丸山遺跡亀ヶ岡遺跡なのです。

 

その遺跡にみる神の中にはアラハバキ神があります。

 

 

アラハバキ神の由来は遮光土偶がその姿などと諸説ありますが、私は武人の神だと考えます。

 

 

日本刀の各部パーツの中に、鞘から刃が軽々と抜けない留め具の役割をする重要な部分があります。

 

その部分を金の祖と書いてハバキといいます。

 

争いの絶えない大国から逃れ、この島国の地で先人民たちとの共存を選んだ人々を守るために、外敵に対して心荒ぶる時、心の留め具を外すが如く剣を抜く者たちアラハバキと呼んだのだと私には思えるのです。

 

そのアラハバキの神を祀る神社は、関東の地では埼玉県氷川神社にも存在します。

 

 

アラハバキの神と東北の阿倍一族は、出雲国を治めていたのかもしれません。

 

それは、時代は異なりますが歌舞伎の創始となった出雲阿国(いずものおくに)という女性がいました。

 

 

普通に読むと「阿国」は「あこく」であり、「おくに」とは読みません。

 

それを出雲阿国を結び付けているのは、何かいわれがあるとしか考えられないのです。

 

しかも、出雲阿国(いずものおくに)は巫女であったといわれることも興味をひかれます。

 

また、東北弁は出雲の方言が由来とする研究書があるのは興味深いところです。

 

先々月に行った阿倍比羅夫を祀る穂高神社のある(阿)曇野も、出雲より糸魚川をのぼり来た神々によって開かれたという話が残っているのです。

 

 

何も感じない人や興味のない人には見えることも、気づくことも出来ないでしょうが、出雲の国が国譲り後、滅亡して以来より日本西日本東日本の二国に現代も分かれているのです。

 

その二国の分岐点は地質学的にみれば、新潟県糸魚川市と静岡県安倍川を結んだフォッサマグナです。

 

この境を起点に食文化や電気の周波数は今も統一されることはなく、分かれたまま継承され続けているのです。

 

第二次世界大戦の中、小さな島国の日本国の存亡をかけて大国を相手に戦いました。

 

その結果、日本は敗戦したものの、白人から植民地として奴隷が如く扱われていたアジア各国の人々が独立するきっかけとなったのです。

 

そしてその時代、威信をかけ不沈艦として建造したのが、古代から西日本の中心地の名をとった戦艦「大和」でした。

 

戦艦大和は、アニメで一世風靡をした宇宙戦艦ヤマトもあり、多くの人々に知られるところですが、戦艦大和と全く同じ戦艦がもう一隻存在していたことはあまり知られていません。

 

そのもう一隻の戦艦は、東日本で古代武士の拠点である地の名をとった戦艦「武蔵」です。

 

 

氷川神社境内の片隅には、戦没した戦艦「武蔵」乗組員の鎮魂碑があります。

 

話は変わり私のルーツである阿部氏の歴史を調べると、何故か古代史が意図的に隠されている様に思えてきます。

 

その話題については次回にして、今回は平将門公から様々な気づきを受けるきっかけにもなった「将門まつり」に2度目の参加をさせて頂きました。

 

 

将門まつり」では、前回のおまつりで知り合いになった方と一年ぶりに再会ができて、大変楽しい一日を過ごすことができました。

 

今回の私の役は、将門公の影武者役です。

 

 

昨年までは、髭面で格好悪いと思っていましたが、東北阿部氏のルーツを調べる中で中国史にみる三国志に登場する義士の関羽を彷彿するようで気に入りました。

 

 

因みに関羽の仕えた劉備の息子は阿斗(劉禅)という姓でした。

 

平将門公は桓武天皇のひ孫にあたり、高望王を祖とする桓武平氏の出身です。

 

高望王の系図についてはっきりとされていませんが、高望王の子は国香、良持、良兼、良文、良正がいました。

 

 

将門公の父は、良将と記されることもある良持(よしもち)です。

 

そして将門公の母は、下総国の名族であった県犬養(あがたいぬかい)氏です。

 

 

県犬養氏といえば、孝謙(阿倍内親王)天皇の祖母にあたる県犬養三千代につながることから、平将門公と阿部(阿倍・安倍)氏は関係が深いことが確かめられました。

 

将門公が朝廷から逆賊のレッテルを張られ戦乱となる時、東北安倍(阿部)氏は平将門公を支援していたと考えられます。

 

一方、安倍(阿部)氏を滅ぼそうと動いたのは、清和天皇側の氏です。

 

阿倍(安倍・阿部)氏の系譜を調べると、孝徳天皇の皇后が安倍小足姫とある書では記されており、聖武天皇の皇后は阿倍宮子(光明皇后)とも確認ができるのですが、書籍によっては「阿倍」が「藤原」に名前が表されるなど、そこにも真実を隠すような意図を感じてしまうのです。

 

 

間人皇女飛鳥時代の皇族で、父は舒明天皇、母は皇極天皇(斉明天皇)で、天智天皇は同母妹、天武天皇は同母姉にあたるとのこと。

 

 

そして宮子(光明子)皇后には、様々な伝承があり、中でも重症の病人の膿を自ら吸って治そうしたところ、その患者は密教における東方の仏である阿しゅく如来であったというのは知られているところだそうです。

 

私は、まったく知りませんでしたが・・・。

 

更に天皇家の系譜を調べると、驚くことに第43代(661年:飛鳥~奈良時代)の元明天皇(げんめいてんのう)は女帝で、名を阿閇皇女(あへのひめみこ)で、また阿部皇女ともいうことを知り得たのでした。

 

和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまと ねこ あまつみよ(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと)で、旧字体:豐國成とあるのです。

 

 

元明天皇阿部皇女)は、天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘(姪娘(めいのいらつめ))。

 

持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にあたります。

 

大友皇子(弘文天皇)とは、異母兄にあたります。

 

そして、天武天皇持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇元正天皇の母でもあるのです。

 

 

私は服装から阿倍は中国の漢民族の末裔ではないかとさえ思えます。

 

 

歴史書を読み比べていて何故か違和感を覚え納得がいかないのは、阿倍氏と藤原氏の関係です。

 

藤原氏は百済から渡来したとの伝承があります。

 

ここで注意して欲しいことは、百済人ではないということです。

 

古代の朝鮮半島は、日本から中国歴代王朝への交易ルートに当たり、漢人ペルシャ系の人々も宿坊の地として住んでいたのです。

 

ペルシャ系の人々が住んでいた証として、朝鮮半島にある古墳から、ローマンガラスなどが出土しているのです。

 

藤原氏と阿倍氏の繋がりには、謎が隠されているように思えてなりません。

 

例えば中臣鎌足藤原鎌足と書き表したりと、「藤原」(物部)という姓を印象付けたいという意図が感じられるのです。

 

(左下が藤原不比等とされる)

 

つまり裏を返して推測すれば、藤原不比等中臣鎌足の子供ではないとも考えられるのではないでしょうか。

 

それに比べ「阿倍(安倍)」の姓は表に出ないようにされている様に思えます。

 

私が読んだ書籍の内そう思えるのは多々あるのですが、例として一冊あげるとすれば「五木寛之の百寺巡礼」もその一つと言えるかもしれません。

 

 

第7巻の東北編では、中尊寺の紹介部分に写真の通り「前九年合戦清衡の“祖先”」とだけ記されており、安倍(阿倍)氏の名は見られないのです。

 

ただ、参考になった文面は、中尊寺など平泉文化は清衡が開いたのではなく、「再興」と記載されていた点です。

 

つまり、安倍(阿倍)氏の統治していた時代から、仏教を中心とした華やかな文化が存在していたということになります。

 

 

また、「百寺巡礼」の書籍では、毛越寺に伝わる33年に一度開帳される摩多羅神延年の舞のことを知りえたのは有難たく思いました。

 

摩多羅神は京都最古の寺である広隆寺にも繋がるもので、奈良阿倍氏とも結びついてきます。

 

 

また、延年の舞(国指定重要無形民俗文化財)は、中国語チベット語ともいわれる古語で綴られた拍子と呼ばれる歌に合わせて舞うもので、漢民族との関係にも繋がるものと言えます。

 

 

関連する様々な書籍を用いて多角的に調べることの大切さを本当に感じます。

 

そして、阿部(阿倍・安倍)氏の系譜を何故隠さなくてはいけないのか、なんとなく想像がついてくるのではないでしょうか・・。

 

因みに九州の阿蘇神社祭神はタケイワタツであり、神紋は阿部家の家紋と同じ鷹の羽です。

 

 

将門公を通じてこの2年間で次々に知りえる私の祖の阿倍氏。

 

 

この目には見えない不思議な導きは、いったい何処からきているのでしょうか?

 

母方の宮城県にある阿部家の本家が3.11の復興支援道路建築のために壊されたことにも関連している様に思えてなりません。

 

 

そして来年には年号が変わることにも関連があるやもしれません。

 

いずれにしても、日本の古代史にこんなにも興味を持ったことは今までありませんでした。

 

将門まつり」に参加された地元の方に、私が東京都千代田区にある将門公の首塚にお参りに行ったその夜、振り起されるような激しい金縛りを体験した話しをしました。

 

すると地元の人から、今でも将門公をお祀りするある神社に行くと、蹄の音などが聞こえる霊現象があるということでした。

 

やはり強い念は、現実に存在しているのです。

 

将門公についてもう少しご紹介すると、今から1100年前、富士山の大噴火により東国は大飢饉に見舞われていました。

 

しかし、朝廷から派遣された国司(官僚)たちは民の生活などには目もくれず、不当に税を取り立て、私腹を肥やす状態に民たちは苦しんでいたのです。

 

そんな世の中にあって将門公は、王族の血脈ながら農民と共に荒れた土地を開墾して民たちの危機を救っていたのです。


 

一所懸命」という言葉の由来は、そこから来ているといわれています。

 

将門公は、弱き者たちの見方であって、私腹を肥やす公家貴族からは邪魔な存在だったのでしょう。

 

 

その時代、福島県白河より以北の殆どを統治していた安倍(阿倍・阿部)氏は、朝廷の力が及ばない独立した国のような状態で、朝廷からは蝦夷と蔑まれながら民たちの平和を守っていました。

 

その東北の地を手本に坂東(関東地域一帯)の民たちの平和と安息のために東国も独立したいとの強い思いが将門公にはあったのではないでしょうか。

 

(茨城県坂東市・将門まつり)

 

また、将門公と東北安倍(阿倍・阿部)氏の関わりについて、岩手県将門公の姫のお墓が存在していたことから、何らかの関りがあったことは間違いないでしょう。

 

 

将門まつり」を終えた後は、国王神社御執印を頂きに行きました。

 

 

そこでも、地元の方から興味深いお話を頂きました。

 

 

それは、私の母方の宮城県にある阿部家が所有する山には熊野神社が鎮座しているのですが、その境内には「湯殿山」と書かれた石碑があり、山形県に何らかの関係があると思っていたところ、なんと国王神社の神職家に山形県から嫁が嫁がれたと話されていました。

 

 

来年は山形県湯殿山をはじめ、岩手県安倍(阿部)貞任公に関連する場所や、九州の宇佐八幡宮阿蘇神社に行きたいと思います。

 

また、更なる何らかの導きがあるかも・・・。

 

 

因みに熊野神社は、熊野三山の祭神の勧請受けた神社で、平安時代から鎌倉時代初期にかけて皇族貴族が参詣していたことから全国に広まったそうです。

 

氏が平清盛公に対して挙兵を挙げたのも、熊野詣での時期を狙ってのものでした。

 

多くの歴史書をみると、勝者となった氏を称えるものが多くみられます。

 

しかし現実は、畳の上で生涯を終えたものは安倍貞任公の弟・宗任の命を助け、また貞任公の妹の子供が奥州平泉を再興した藤原清衡に加勢した源義家公だけで、あとは親族同士の欲の争いで因果応報ともいえる報いで命を失っているのです。

 

 

今回、将門公の影武者役を頂き、出陣式の壇上に座っている時に感じたことは、将門公に感謝の思いを寄せ、今もなお盛大なお祭りで大勢の民衆が集い、偲ぶ光景に感無量な気持ちになりました。

 

ご縁を頂き、お世話になりました坂東市観光協会の皆様へ心から感謝の気持ちでおります。

 

 

将門まつり」の益々のご盛況と、東坂市の益々のご発展を心よりお祈りいたします。

 

ありがとうございました。

 

 

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
  山行かば 草生(くさむ)す屍
大君(おおきみ) (へ)にこそ死なめ
  かへり見はせじ

 

大伴家持 (宮城県多賀城址にて)