ガリバー旅行記という子供向けの物語がある。
ある日、主人公のガリバーは小人の国へと漂流する。

小人の国でガリバーは
1人だけ身体の大きさが違う、
無闇に歩き回られては周りが迷惑する、と、
身体を拘束される。
食事は介助され、おそらく排泄も介助されただろう。
食べたら出るのは当然だから。

もしガリバーの大きさに見合った道具や家屋があれば
身体拘束もされず介助も必要なかったよね。
つまり小人の国が、ガリバーという障がい者を生んだわけだ。

障害は、人にあるのではなく社会にある。

障害とは身体が自由に動かせないことだと言う人がいる。
でも歩行や動作をアシストする道具(機械)があれば
そしてそれがもし眼鏡を作る程度の手間で導入可能なら
少なくとも障害と呼ばれなくなる可能性はある。

視覚や聴覚についても、それを補う技術は存在すると思う。
私は詳しくないけれど。

いや、その前に、再生や移植の医療技術がもっと進んだら、
脳卒中も脊髄・頸椎損傷も、180日の壁だって屁のカッパだ。
頭に浮かんだ思念が端末画面に言葉として表示されるようになれば、
ロックドインだって障害ではなくなる。

設備の問題にしてもそうだ。

例えば女子トイレが駅にもホールにも役所にも無かったとする。
そうすると女性が用を足したい時は、わざわざ人を頼んで
男性用トイレを空けてもらい誰かに前に立って見張りをしてもらい
交通整理をしてもらわなければいけなくなる。
女が外を歩くとヒトに迷惑をかけると後ろ指をさされ、
無闇に出歩くなと言われるかもしれない。

もしくは「街で女性をみかけたら
お手伝いしましょうか?と声をかけましょう」という人達が
現れるかもしれない。

それはそれで素晴らしいと思うけど、やっぱり根本的には
街には女性トイレがあるべきだと思う。
女性が街に居ることが当たり前になれば女性トイレも当たり前になる。

同様に、スロープや点字ブロックやエレベーターも
あって当たり前になるべきなのだ。

人数が少ないからといって存在しないのと同じ扱いをし
切り捨てる社会こそが障害を生んでるんだと思う。


そんなのは合理的とは言わない。
単に未成熟で野蛮なだけだ。

在宅で介護が必要になったら
ずべての家庭にもれなく24時間3交代で
介護人が派遣される制度があったら
間違いなく介護殺人は激減するだろう。

足りないのは予算じゃない。
社会の意識だ。
何から先に解決すべきか
何の予算を優先させるかだ。


日本にはまだ、オリンピックを開催したりカジノを作ったり
他の国のイザコザに軍隊を派遣するだけの経済的な余裕があるじゃないか。
予算が無いから女子トイレ作るの止めましょうと言ったら、
世界から笑われるよね?

私が言いたいのは、そういうコト。

















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