課題「桜」 2作目
桜騒動
あべせつ
終業後、そそくさと帰宅した俺は、新しく我が家となった古風な日本家屋の前にたたずんだ。
南向きの重厚な数寄屋門を真中に、東西に長く築地塀が伸びている。その塀の瓦屋根から、今が盛りの桜並木が卯月の夜空を突き上げながら白く染めているのが見えた。
「自宅で花見ができるとは、何とも風流やなあ」
俺は勢いよく玄関の格子戸を開けて入った。
先月、亡母の姉が他界した。名前しか知らぬ伯母であったが、身寄りは俺と兄貴だけということで、二人して弁護士に呼び出された。細かい内容は端折るが、とにかく『桜の面倒を見てくれる人に全財産を譲る』、そういう遺言があるとのことだった。
金持ちのくせに昔から強欲な兄のこと、こりゃあ『遺産争続』になるぞと、腹をくくった俺に「なあ剛史、お前が住んだらどや」と案に相違して兄が言い出した。
「えっ? いいの?」
「俺はもう自分の家があるさかいな。お前んとこの子供も、もう大きなっとるんやさかい、アパート暮らしでは手狭やろう」
--やっぱり、いざとなったら兄弟やな。
不覚にも目頭が熱くなった。
「ちょっと、あんた、これ見てえな」
引越しした翌朝、妻の洋子がポストに入れてあったという一枚の紙を俺に突き付けた。そこには一言『花殻の掃除をしろ。迷惑だ』とマジックで乱暴に書きなぐってあった。
「誰やろ。気持ち悪いわあ」
洋子は気味悪がったが、俺はただの悪戯と大して気にもとめていなかった。
ところが、それから毎日のように苦情を書いた紙が、郵便受けに放り込まれるようになったのである。
「もう、あんたもちょっとは掃除手伝ってえな。道掃くだけで、どんだけ大変やと思うてんの。私かてパートに行かなあかんのに、掃除ばっかりやっとられへんわ」
帰宅するなり洋子の怒号が飛んできて、俺はあわてて箒を手に表へと飛び出した。
一週間ほどで花の盛りは過ぎ、やれやれ一件落着と思われたのだが、桜の厄災は留まることを知らなかった。
葉桜の頃になると、『暗い。枝切しろ』、入梅すると、『毛虫を何とかしろ』と書かれた紙が入れられた。
「これって、お隣さんとちがうの?」
「ううむ、どうも、そうらしいな」
確かに伸びるに任せた枝葉は、近隣に影を落とし、さらにはドクガが大発生していた。この毛虫に刺されると熟れた苺のようにぶつぶつと赤く腫れ上がり、あまりの痒さにかきむしると今度は火ぶくれが弾けたほどの痛さに飛び上がるのである。何より始末が悪いのはこの毒の毛が風に乗り、知らぬ間に人や洗濯物に付いたり、窓から家の中に入ってくるので防ぎようがないことであった。
とはいえ、二階の屋根を越そうかという大木を、素人がどうこう出来るはずもなく、仕方なく植木屋を頼んで事を収めてもらった。
「こんなん、なんぼパートに出たかて追いつけへんわ」
多大な出費に洋子はむくれた。
秋になると、今度は落ち葉の災難が起きた。「あんたんとこの落ち葉が、うちの樋に詰まって、えらい往生しましたわ」と、お隣さんが清掃業者の請求書を持って怒鳴り込んできたのである。とりあえず平身低頭に謝って堪忍してもらったが、洋子も俺もほとほと疲れ切ってしまった。
そんなある日、珍しく兄貴が我が家を訪れた。
「昨日、弁護士がうちに来てな。そろそろ遺産分割協議書とか言うんを作らなあかんらしいねん。お前、正式にこの家を相続するか? 税金はこれぐらいかかるらしいけどな」
目の玉の飛び出るような相続税の金額に腰を抜かしてしまった。
「こんな大金、俺らには無理やで」
「さよか、ほんなら俺が貰うても文句あらへんのやな?」
もう桜の世話は懲り懲りだった俺たちは、一も二もなく相続放棄の手続きに捺印した。
早々に屋敷を出ることにした俺たちに、何回も引っ越して大変やろうと、まとまったお金をくれたのには有難さに涙が出た。
翌春、兄貴もさぞや苦労をしてるだろうと屋敷を訪ねてみると、ものの見事に桜の木は切り倒され、売家の看板が立てられていた。
「どういうことやねん。桜の世話が条件やったんと違うんか」
血相を変えて自宅を訪ねた俺に、玄関先で兄貴は「そやけど、いつまで見ろとは書いてなかったやろ? 一年は面倒見たんやから反故やないで」と、いけしゃあしゃあと言い放った。 完
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「桜」で、もう一作、応募しました。