ムショワール あべせつ
ホテルの地下にあるバー《リード》に、まだ人影は少なかった。私が残り少なくなったギムレットのグラスを弄びながら、もう一杯頼もうか、それともこれでやめておこうかと思案していたその時、入り口のドアが開いた。
反射的にそちらへ向けた私の目に、おおよそこの高級ホテルには似つかわしくない露出度の高過ぎる派手なドレスの女の姿が映った。その女は、店内をぐるりと見渡すとカウンター席に独りでいる私に目を止めた。女の目がギラリと光り、私は自分が標的にされたことを悟って困惑した。その顔色を見てとったバーテンダーが、さりげなく合図を送ると、大柄なボーイが女の行く手を遮った。
「失礼ですがお客様、どなたかとお待ち合わせでしょうか?」
抑揚のないボーイの冷たい声が、彼女を言外に拒絶している。
「ええ、そうよ」
悪びれることなく答えると、その女はボーイを肩で押し退け、真っ直ぐ私の所へと歩み寄って来た。
「おとなり、空いてるかしら?」
思いの外、低く知的な声をしている。そう思った瞬間、沸き上がってきた好奇心が、この種の女に対する嫌悪感を打ち負かした。
「少しの間ならね」
私は、追いかけてきたボーイに片目をつぶって容認の意思を示した。ボーイは小鼻を膨らませたが、何も言わずに一礼をして引き返して行った。
「何か、飲むかい?」
「ええ、マティーニをいただくわ」
顔見知りのバーテンダーは、鮮やかな手つきでステアーした金色の飲み物を彼女の前に置くと、我関せずとばかりにカウンターの隅でグラスを磨き始めた。
「少しの間って、どれぐらいの時間をいただけるのかしら?」
「そうだな、そのグラスを空けるぐらいの間かな」
「そう、この上の部屋に行く時間はないってことね」
「残念ながら」
その答えを聞くと、女はクラッチバッグからゴールドのライターと一本の細い煙草を取りだした。
「かまわないかしら?」
「どうぞ」
女がカウンターの上に両ひじを付き、前のめりの姿勢でくわえ煙草に火を点けると、大きく開いたドレスの胸元からふくよかな谷間が一層盛り上がって見えた。
「上に部屋を取ってあるの?」
「そうよ、化粧室で着替える訳にもいかないでしょう?」
確かに、この格好ではホテルに入る前にドアマンにとがめられるだろう。女はまだ長い煙草を灰皿に押し付けて一捻りで消すと、今度は足を組み換えた。ミニスカートから伸びている形の良い脚は素足だった。
「ストッキングは履かない主義なの?」
「すぐに脱ぐものを履く必要があるかしら」
私は急に喉が乾いたようになり、残りのギムレットを一気に飲み干した。
「貴方が今何を考えたか、私にはわかるわ」
女の濃いアイラインに縁取られた目が面白そうに輝いた。
「失礼ながら、君は、その、プロなの?」
「全然失礼じゃないわ。そう見られるのは光栄だもの。むしろ女として見られなくなるほうが大問題」
後半の台詞は誰に言うともなく呟いた。
「じゃあ、私はそろそろ退散するわ」
女はグラスを空にすると、ストゥールから立ち上がった。
「なんだ、もう、行くのかい」
「だって、ここで奥様と待ち合わせをしてるのでしょう? 鉢合わせすると大変だもの」
「へえ、なぜ妻と待ち合わせだとわかるの?」
「そうじゃなきゃ、こんな場所にまで結婚指輪を嵌めてるなんて野暮なことはしないわ」
女が初めて笑顔を見せた。この厚化粧の下にはどんな顔が隠されているのだろう。
「今度また会えるかな」
女はそれには答えず、むき出しの白い背中を見せてバーを出ていった。
ふと彼女が座っていたストゥールの足元に白いものが落ちているのに気がついた。彼女がそこに来るまでは、そこにそんなものはなかったはずだ。拾い上げてみると、それは真っ白な木綿のハンカチだった。きちんとアイロンが当てられていて、石鹸の匂いがするような清潔なその小さな布切れは、ものの見事に彼女への興味を失わせた。
--惜しいな、せめてこれが黒い絹か、あの真っ赤な口紅でも付いていてくれればな。
私はそのハンカチをカウンターに投げ捨てると、店を後にした。完
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ムショワールはフランス語で「ハンカチ」のことです。
たまには大人の色気のあるお話を書いてみようと思いました。