娘が突然病に倒れ、とにかく命を助けてほしい、私の命を差し出してでも助けてほしいと思った。





命が助かったけど重い障害が残った娘に、これからの私の人生は娘のためだけに使っても構わない。娘のために一生懸命頑張ることが私の幸せだと思った。







そうして発病から2年経った今、、、





私の一生をかけて娘を幸せにする!っていうのは、なんか違うのかなと。




私が幸せにする!幸せにしなきゃならない!と思うってことは、私が手塩にかけて育てない娘は不幸になると、心のどこかでそう思ってるってこと?キョロキョロ



娘は病気になり、認知も身体も他の人のような速度では発達しないし、目もほとんど見えなくなりました。
これは絶対に可哀想な事なのです。
私はキラキラ障害児ママキラキラとかじゃないから、全てのことをポジティブに!とかそんか変換はできませんねー




じゃあ娘は不幸せなのか?と問われると、それは違うのです。




例えば、私が第三者的に今の娘を見た時に〝可哀想だなぁ〟とか、物理的体力的に〝お母さん大変だなぁ〟は思うかもしれないけれど、娘を〝不幸せそうだなぁ〟とは絶対に思わないと思ううずまき



今朝も6時にムクっと起き上がり、部屋中をハイハイで動き回り(弟を必死に守る私アセアセ)、ニコニコワーワー「起きろー爆笑」とばかりに父さんをバシバシ叩いて、(本当は土日はあと1時間寝てほしいところだけど)母さんは楽しそうで何よりですチーン





周りの同い年の子のように、自分でお洋服を選んだり、お友達とおままごとしたりケンカしたり、弟を可愛がったりする事に幸せを感じることは難しいけど



家族や温かい周りの人とのかかわりやスキンシップ、大好きな歌やオモチャ、食事やオヤツに幸せを感じている。



娘は〝何に幸せを感じるか〟が変わっただけで、決して不幸になったわけではない。



「障害があっても幸せだ」
よく聞くフレーズですが、いまいちストンと落ちてこなくて、でもここ2年で少しずつ咀嚼して実感する今日この頃流れ星
娘から学ぶことが沢山ありますほっこり





…そして同じように





私だって人の子であり、この子が幸せになれるようにと両親から大事に育てられたのです。



私が両親の立場なら、たとえ子供に障害があったとしても〝もう私の今後の人生はどうでもいい。子供のために捧げたい〟なんて言われたら本当に本当に悲しいショボーン
せっかく産んだのに、とかじゃなくて、自分の子供が苦しんでる事がこの世で一番悲しいことだと、私が一番分かってる。





というか、





温かい家族や親戚がいる。
福祉や手当てで手厚い配慮を頂いている。
療育やデイサービス、訪問リハビリ、医師や看護師、みんなが娘のために一生懸命考えて支援や医療を提供してくれている。
コロナが収まれば、友達にも会える。




そもそもこれは、私が人生を捧げる状況なのかな?
これを不幸だというならば、ご尽力されて様々な福祉制度を作れ上げてきた方々、娘に愛情をもってかかわって下さっている方々に対してすごく失礼な話じゃないか手




私が大切にしたい娘の一生のように
私の人生も一回ポッキリなのです




自分の人生をもっと大事にしよう
自分が命を終える時、波乱万丈だったけど幸せだったな、と思える人生になるよう努力しよう日本国旗





美味しいものを食べたり、欲しいものを買ったり、行きたいところに行く
殺到とした日々の中で自分のことは後回しにしがちだけど、毎日少しだけ意識しようニコニコ
ということで、今日は主人にお留守番をお願いし、美容室に来てこれを書いてますウシシ





正直娘が病気になる前は、午前の部午後の部娘を疲れさせるのに必死で「今日よ早く終わってくれチーン」って思う日も多かったにやり
今は、以前より日々を大切にできてるはずOK






周りの方々のサポートと、弟君の癒しに感謝ですハート