音声を切ったテレビでは

ワイドショーが

流れてます



文字で見る情報と

耳で聴く情報は大きく違うように思います


目で見たものは記憶の中でもディスプレイの様に鮮明に残り、耳で聞いたものは比較的に深い場所に落ちているように思います。ので、知らず知らずのうちに覚えてたり、暗記の方法として、深さを要するモノの暗記に役立ったりするのでしょう。それと同様に視覚的な暗記は即効性を要する時に適しているように思います。この使い分けが出来ると、覚えるという事が少しはスピーディーになるかもしれませんね。


と、行為のアナライズの提案がしたい訳ではなく、歌詞や何か考えを纏めなければならない時に私は知らず知らずのウチにやっていました。


ワイドショーの音を消して映像だけ流す。。


情報の取得のタイミングを選べると言う点が良いのかも知れません。音が流れていると自然と全てをキャッチしようとしてしまうところがあり、逆に考えに集中すると、全てが聞こえなくなったりする。この集中へと促す事と刺激となりうるであろう情報とのチョイスのタイミングが自分の意識の上下とのバランスがちょうど良いのかも知れません。


特に私の場合は


世界や社会、周囲や流れ


コレの中に存在する小さな感情や


それとの対比の部分にフォーカスを合わせて作品を作る癖があるので、


このシチュエーションが比較的フィットしているのだと思います。


最近はMIX作業中にも傍で音を消して映像を流してみたりしてます。この場合は、音への入り込みを抑制する効果となっていて、先程の映像の効果とはまた別の作用となっているのですが、、。


しかし、コレもまたマスやトレンドと自作の対比のバランスの為であると言う点に関しては一致する訳ですが。。


ポピュラリティーを求められる作品とセルフィッシュでアンダーグラウンドな作品とでもビジョンも違えばターゲットも違うので最終的な作品のテイストの制御ではなく、あくまでま私個人の制作におけるルーティンのようなモノなのですが。。


目的地に向かってどう行くのか?

目的地に向かう目的はなんなのか?


色々とある訳ですが

私の場合、もっとも大切にしている事が「初期衝動」であり、それ以外は全て、手段なのかも知れないので、その「初期衝動」の為に、細かな部分を分析し、形にして行っているのかも知れないなぁーと、思う次第です。


さて、作業に戻ります。



鎌倉は快晴です。