僕のこのアメブロのタイトルは七色堂ですが、随分前にサブタイトルとして、「イザナミのヨミガエリ」というコピーを掲げていました。
もう15年位前の話になります。
当時は、2012年のアセンションを目指してワークを重ねていました。
その時に、この「イザナミのヨミガエリ」というテーマが浮かんできていたのです。
その意味は、女神の復活でした。
当時のブログを思いだして引用します。
「 一年前、熊野の旅の最後は、イザナミの墓と言われている花窟神社でした。
出雲の先は、もう少し、僕の旅は続きそうです。
出雲では、イザナミのヨミガエリは完結しないでしょう。
でも、確実に一つの大きな節目であります。
黄泉の入り口があり、
八百万の神が集う。
なんともてっとり早い。
ムフフ、楽しみですわ。。。
ん?
やはり出雲でヨミガエリが起こり、
その後、イザナギとの和解へと繋がるのでしょうか・・・
そうすると第2章のスタートやな。
そして、ククリヒメの出番です。。。 」
イザナミは、何の為に蘇るのか?
それは、イザナギと和解するためです。
有名なイザナギとイナザミの国生みの神話があります。
この日本というか神話内の始めの時代では、日本と外国という概念がないので、この世の始まりと捉えても良いと思いますが、まだ大地が固まっていない状態から世界を作ったのがイザナミとイザナギという男女の神で、彼らの”まぐわい”から日本は生まれました。
つまり、日本は男女のエネルギーの性的結合から作られたわけです。
その後、イザナギとイザナミは様々な神々を生んでいくのですが、火の神を生んだ時に、その火により子宮を焼かれて死んでしまいます。
火というのは男性性のエネルギーです。反対に女性は水ですね。
火は、人類に文化を与えました。
人々は、暖を取ることができ、灯りを手に入れ、煮炊きを覚え、鍛冶等の加工を覚えました。
ギリシャ神話のプロメテウスは、ゼウスの言葉を無視して、人類に火の恩恵を与えるために天界の火を盗んで人類に渡しました。
しかし、人類はその火を使って武器を作り戦争に利用しました。
その責任のため、プロメテウスは、ヘラクレスに助けられるまで3万年もの間、酷い苦痛を伴う刑を受けています。
つまり、火は大きな恩恵、文化の知恵を受ける反面、大きな災厄を齎すものでもあります。
これは、男性性の側面を表します。
智恵は、思考的な男性性の表れであり、火炎瓶や火炎放射器、あらゆる重火器のような武器は、男性性の行き過ぎた攻撃性の表れでもあります。また剣も火が無いと作れません。
イザナミが、火の神によって殺されたというのは、その男性的な火の制御不能によって、女性性が殺されたという意味だと思います。
実際に、第一回目の5,000~6,000年前のクルガンアルコン侵攻と、第二回目の1,600年前のハザール アルコン侵攻は、女性をターゲットとし、レイプ、抑圧と暴力、変態的行為をもってして、女性のエネルギーを歪めてきました。
僕は、神話のイザナミの死は、こういった女性性の抑圧と、女神信仰の封印を反映していると思います。
そして、これが闇の勢力によるものだと思っています。
神話は、イザナミの死後、彼女を追いかけてイザナギが黄泉の国に行くのですが、結局、イザナミは再生の可能性がありながら、イザナギの裏切りにより、喧嘩別れをします。
その結果、お互いが呪い合って現在に至っているわけです。
この時に、白山の菊理姫が二人を取り持ったという話ですが、神話では和解できていません。呪い合っています。
白山信仰の総本宮、白山比咩神社のHPでは、この事をこう書かれています。
「伊弉冉尊が火の神を出産した時のやけどで亡くなってしまうと、悲しんだ伊弉諾尊は、死の国である「黄泉の国」へ妻を迎えにいきます。ところが、醜く変わった妻の姿を見て伊弉諾尊は逃げ出してしまい、怒った伊弉冉尊は夫の後を追います。
黄泉の国との境界で対峙するふたりの前に登場するのが菊理媛尊で、伊弉諾尊・伊弉冉尊二神の仲裁をし、その後、天照大御神(あまてらすおおみかみ)や月読尊(つくよみのみこと)、須佐之男尊(すさのおのみこと)が生れます。」
菊理姫は、イザナギに謎の理由で褒められていますが、ちっとも仲裁などしていません。
イザナミは、今も黄泉の女王として、地上の生命を奪っています。
そして、女神がいなくなった後の世界は、イザナギという男神1柱から、アマテラスはじめ中心的な神々が生まれるのです。
ここに男女の結合による誕生はありません。
男性性のみの世界になっていきます。
この神話は、神社本庁のHPを参考にしています。
この男女間の問題も過去に取り上げたことがあります。
引用します。
「 理解とは、愛の一つの表れだと言います。
夫婦や恋人間の喧嘩の原因の多くは、この無理解からくることと思います。
男女は、同じ人間でありながら、心理的に異なるところがあります。
しかし、この異なる心理を理解できないことから、理解しようとしないことから、衝突が生まれることが多いと思います。
相手が理解できず怒り、
相手が自分を理解してくれないことに怒ります。
怒りとは、愛と反対の感情です。
男女という異なる性質のエネルギーがうまく調和されたときに、そのエネルギーが大いなる創造を生み出すことができます。
これが和合と呼ばれるものです。
イザナギのエネルギーとイザナミのエネルギーの和合は、国産みを成し遂げました。
しかし、彼らもまた、男女の問題で反発を起こし、
僕は、ここで見られる男女の問題とは、
男の好奇心または不義と女の恨みという形で人々の心理内に深く根付いていると思います。
それが未来へ代々続く殺戮の始まりと神話は残します。」
見るなと言われたのに、イザナミを信じ切れずに覗いてしまった、男性の疑惑や疑念。
そこから生まれる女性の恨みや情念・・・もしかするとその中には、なんらかの嫉妬もあるように思います。
何故なら、日本書紀異伝にはこのように書かれています。
「その妻(=伊弉冉尊)と泉平坂(よもつひらさか)で相争うとき、伊奘諾尊が言われるのに、「私が始め悲しみ慕ったのは、私が弱かったからだ」と。
このとき泉守道者(よもつちもりびと)が申し上げていうのに、「伊弉冉尊からのお言葉があります。『私はあなたと、すでに国を生みました。なぜにこの上、生むことを求めるのでしょうか。私はこの国に留まりますので、ご一緒には還れません』とおっしゃっています」と。
このとき菊理媛神が、申し上げられることがあった。伊奘諾尊はこれをお聞きになり、ほめられた。そして、その場を去られた。」
菊理姫は何かを申され、イザナギはそれを「よう言うた!」とほめているのですが、何と言ったのかは謎です。
僕は、菊理姫が、「今度は私と国生みをしましょう。」と言ったのではないか・・・と推測しています。
つまり、この話は、あるレベルで読むなら、男女間のもつれ、火遊びの結果だとも考えられます。
しかし、神話とは、ダブルミーニングやトリプルミーニングがあるように、いくつかのレベルで意味合いが分かれます。
白山比咩とは、今でこそ白山菊理姫を指すと考えられていますが、元々はイザナミが白山比咩でした。
菊理姫とは、古事記や日本書紀正伝には書かれていなくて、異伝の先程の一文にのみ残されています。
その役目は、今の信仰のように、男女を括る姫神です。
先日、僕の好きな日吉大社にパートナーと行ったのですが、その時に、やけに彼女の髪を引っ張る神がいるということで、その神が菊理姫でした。
もしかすると、彼女の舞を通して、イザナギとイザナミの和解ができるかもしれません。
それは、男性性と女性性の和解であり、和合です。
再び、両者があるべき姿にもどり一つになることを意味します。
聖(生)なる泉のセレモニーにおいて、女性性、聖杯を癒しました。
二元性昇華の儀において、男性性の争いといった戦いのエネルギーを女神に返還しました。
次は、男女の和解になるはずです。
その為にイザナミのヨミガエリが必要なわけです。
蘇ったイザナミと男性性の歪みがとれたイザナギは、ククリヒメによって和解されると考えます。
あるべき男神と女神の関係性を取り戻せると良いですね。
因みに今は、ツインソウルの結合を強化する舞ワークを行っています。
さて、まだこれは、思いつきの段階です。
具現化するには、女神のサポートが必要です。
いつか具現化することを僕は願っています。
そして、できればびわこ女神神殿で行いたい。
何故なら、琵琶湖は子宮にたとえらているからで、焼かれた子宮をイザナミは癒す必要があるからです。
そして、イザナミとは、僕の概念では、幸神三神の幸姫命であり、夫神はクナト大神であり、国常立命です。
彼らが富士大神であり、地球神霊でもあると思います。
富士と鳴門の神仕組みも多くの方々のワークにより、いよいよ成り立つのかもしれません。
琵琶湖は、彼らの龍体が眠っているとも伝えられています。
そして、僕がここに女神神殿を構えている理由もそこにあるはずです。