かつて私は浜岡原発について、次のように書いた。

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過去に前例のない大事故が、浜岡原発よりもずっと可能性が低いと見られていた福島原発で起きたので、浜岡原発事故の可能性はもはや否定出来ない。また、現段階では福島原発に対応出来ていない状態であり、万が一、浜岡原発でも同規模あるいはそれ以上の事故が並行して起きたら、決して対応できなくなる。それゆえ、止めてしまうべきだという主張は、合理的である。
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この文章を、ツイッターでの対話のなかで池田信夫氏は、次のように解釈した。

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「人命を失う可能性のあるものはすべて止めてしまえ」つまり「リスクをゼロにしろ」というのが安冨さんの考えとしか読めないのですが、私の読解力が足りないのでしょうか。それともあなたが特殊な日本語を使ってるんでしょうか。
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どうしたらこんな風に読めるのか、不思議でたまらない。私が書いたのは、

(1)福島で地震が起きたのであれば、浜岡周辺で地震が起きる可能性が無視できない。
(2)そうなったら、大事故が起きる可能性が否定できない。
(3)もしそうなったら、福島だけでも大変なのに、浜岡まで事故ったら、人員不足などで、対応できなくなる。
(4)よって、浜岡を止めるのは、合理的だ。

ということである。虎が出たところに、ライオンまで出たらたまらないから、閉じ込めておこう、というわけである。

このように私は、

(1)「人命」については言及すらしていない。
(2)「すべて」についてではなく、「浜岡」についてだけ言及している。
(3)2つもやられたら対応できなくなり、リスクが非常に大きくなるので止めろ、と言ったのであって、「リスクをゼロにしろ」などとは言っていない。

のであるから、完全に池田氏の妄想である。

しかし、池田氏は、繰り返し、私の本など読むに値しないから、読んでいない、と言っている。ブログも、読むには読んだとしても、価値がないと思って読めば、それは読解力が落ちても自然な現象である、という可能性を考えなければ、公平ではないかもしれない。それゆえ、これだけでは、池田氏ご自身の言われるように、「読解力が足りない」とは言い切れない。

そこで、池田氏が、「価値がある」と思った本を、どのくらい読解できるかを、分析しておきたい。彼は、私への二つ目の反論のコメント欄で、「私は彼の昔の業績は評価しているが、最近の本は明らかにおかしい。」と言っている。昔の業績のなかには、彼が好意的に書評した、『生きるための経済学』が入っているのは確実であろう。

そこで、拙著への彼の書評を調べて、どのくらい、私の本を理解しているかを確認すれば、彼の日本語読解力が、公平に判定できるはずである。以下で逐語的に検討しておく。これを読んで、池田氏の日本語読解力の水準判定の参考としていただきたい。

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「自由」という漢語に対応するやまとことばはない。Zakariaによれば、似た言葉がある文明圏でも、その意味は西欧圏とは違う。中国の自由は「勝手気まま」という意味だった。日本語でしいていえば、無縁という言葉が近いが、これは共同体から縁を切られるという意味だ。つまり選択の自由というのは、西欧文明に固有の概念なのだ。
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これは既に述べたように、「「自由」という漢語に対応するやまとことば」として、なぜか漢語の「無縁」を挙げている点で、間違っている。更に「自由」という言葉が日本で中世から使われているのに、それを日本語に勘定していない。更に、「無縁」という概念を「自由」と結びつけたのは網野善彦であるが、網野は「こちらから縁を切る」という意味で使っているので、「これは共同体から縁を切られるという意味だ」というのは、間違いである。この本の76頁で私は、

「人々のつながりたる「縁」が呪縛に転じたときに、そこから逃れでて「縁切り」をしようとする人間の本源的衝動を基盤として無縁は成立する。」

と書いたのであるから、これは、明らかに読解できていない。


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しかし本書も指摘するように、プロテスタンティズムには自由の概念がない。カルヴァンの予定説によれば、だれが天国に行くかはこの世の最初から決まっており、人々は自分が救われるかどうかを確認するために蓄財する。この信仰は、新古典派経済学と奇妙に一致している。Arrow-Debreuモデルでは、人々は世界の最初に一度だけ、永遠の未来までの正確な知識をもとにして合理的な選択を行い、将来財まで含めたすべての市場がクリアされ、あとはそのプログラムに従って行動する。そこに自由は存在しない。
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ここでは、

「カルヴァンの予定説によれば、だれが天国に行くかはこの世の最初から決まっており、人々は自分が救われるかどうかを確認するために蓄財する。」

という文章が、厳密には不正確である。私は次のように書いた。

「カルヴァンの教義において、人間の努力はその目的を失い、自己目的化する。自分はまったく無力であり、自らの救済のために何もできないが、もしもサボるようなことがあると、それは自分が救われていない証拠となる。その恐ろしい証拠を突きつけられないためには、つねに何かに没頭して努力しつづけねばならない。このような人間の自己目的化した努力は、強迫神経症的であるとフロムは言う。」(82頁)

何が不正確なのかというと、(1)「蓄財する」とはどこにも言っていない。(2)救われるかどうかを確認するために努力するのではなく、救われないという証拠を発見しないために努力を続ける、というもっと恐ろしい話である、という点である。池田氏が書いているのは、ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の通俗的説明であって、私の本の内容ではない。

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この起源は、アダム・スミスの理神論にある。堂目卓生氏も指摘するように、スミスは利己心を「第三者の目を意識しながら自己の利益を追求すること」と考えた。 見えざる手とは、この社会的自我であり、神のメタファーだ。神が世界を調和するように設計するのは当然だから、利己心の追求によって秩序が生まれるのも自明だ。同じく理神論にもとづいて構築されたニュートン力学では、世界の動きはすべて物理的に決定されるので、自由意志の存在する余地はない。それをまねた新古典派経済学も、同じアポリアに陥ってしまうのだ。
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ここは、私の本と全く関係のないことを書いている。スミスの「見えざる手」は、「神のメタファー」などではない。私は次のように書いた。

「スミスはここで、死者への同感とそこから生じる恐怖こそが社会の秩序をもたらしている、と主張している。秩序をもたらすのは彼のなかの「大拷問者」にほかならない。このような死に魅入られた精神の上に、ネクロ経済学は打ち立てられたのである。・・・実際のところスミスは人間本性を信じておらず、大拷問者の「見えざる手」の力を信じていたにすぎない。」(235頁)

それから、拙著のなかで彼が最も高く評価してると思われる『貨幣の複雑性』を読めばわかるはずなのだが、新古典派経済学は、ニュートン力学ではなく、熱・統計力学に似ている。


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これに対してマイケル・ポラニーは、選択の自由の起源をロックやヒュームの懐疑主義に求めた。それは、こうした決定論的な信仰が長期にわたる宗教戦争を引き起こしたことへの反省だった。しかし懐疑主義を徹底すると、それはすべての価値を否定するニヒリズムに到達する。ニーチェは「来るべき200年はニヒリズムの時代になる」と予言したが、このニヒリズムを克服すると称して登場したのが、ナチズムだった。
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池田氏は、「これに対してマイケル・ポラニーは、選択の自由の起源をロックやヒュームの懐疑主義に求めた。」と書いているが、これも間違っている。私は次のように書いた。

「ポラニーは近代の自由の概念の出発点を、宗教戦争への反動に求める。・・・英米文化圏において、自由主義を最初に定式化したのはイギリスの詩人ジョン・ミルトンと同じくイギリスの哲学者ジョン・ロックである。」(95頁)

なぜ、突然、ミルトンがヒュームに入れ替わってしまったのか、謎である。

また、「それは、こうした決定論的な信仰が長期にわたる宗教戦争を引き起こしたことへの反省だった。」というが、これもおかしい。私が書いたのはこうである。

「「哲学的懐疑」とは、ロックが政治的教義として定式化したものである。それは宗教的事柄においては、自分の考えを他人に押しつけることを正当化するほどに、真理について確信が持てることはけっしてない、というものである。」(95頁)

ロックの懐疑は、宗教的な「真理についての確信」を持てない、という話であって、「決定論的な信仰」への批判ではない。

それから、ニーチェとナチの話が出てくるが、そんな話を私はしていないし、ポラニーもしていない。


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著者はこのように、従来の経済学がナイーブに想定する選択の自由という概念が、論理的な矛盾をはらんでいることを指摘し、これに対してポラニーの創発の概念を対置する。これは10年ぐらい前の「複雑系」ブームのとき流行した言葉だが、そのとき行なわれた研究は、単なるコンピュータ・シミュレーションだった。著者の『貨幣の複雑性』もそうだし、私も昔、そのまねごとをやったことがある。
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「著者はこのように」というが、以上の池田氏の議論は、私の本の内容とはかなり食い違っている。「選択の自由」の論理的な矛盾は、物理学の熱力学第二法則・相対性理論・因果律との関係で論じているのであって、宗教的な話とは関係がない。

それから私の『貨幣の複雑性』は、「単なるコンピュータ・シミュレーション」ではない。シミュレーションに依拠しながら行った、哲学的・科学的な探究である。


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しかし、こういう研究はすぐ壁にぶつかった。これは本来の意味での創発ではなく、チューリングマシンが複雑に動作しているだけなので、モデルさえ変えればどんな結果でも出る。その結論もゲーム理論でわかっていることを確認するだけで、プログラミング技術を競うお遊びになってしまった。
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池田氏のモデルは「ゲーム理論でわかっていることを確認するだけで、プログラミング技術を競うお遊び」なのかもしれないが、私のモデルはそうではない。ゲーム論では考えることさえなかった問題を議論している。


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著者はポラニーに依拠して、このような客観的知識の延長上に「複雑性の科学」を築こうとするのはナンセンスだとし、暗黙知のような個人的知識の科学として経済学を構築しなおすべきだと論じる。しかし彼は、個人的知識を活用するために自由が必要だと主張したハイエクとは逆に、選択の自由という概念が近代西欧の幻想なのだから、『論語』で説かれているような道に倫理を求めるしかないと結論する。
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この文章は意味がよくわからない。私が提唱したのは以下のようなことである。

「それは、「創発を阻害するものについて考察する」というアプローチである。このアプローチのメリットは、創発そのものは暗黙の次元に属するが、創発を阻害するものは明示的な次元に属するので、いわゆる科学的分析の範疇に入る、という点である。」(125頁)

つまり、創発を阻害するものについての、客観的科学を構築しよう、というのが、私の主張である。

池田氏は、「選択の自由という概念が近代西欧の幻想なのだから、『論語』で説かれているような道に倫理を求めるしかないと結論する」と言うが、そのようには言っていない。私はフィンガレットに依拠しつつ、西欧的な思想では「道」といえば「分岐」して、正しい「道」を選択する、というように問題が設定されるが、『論語』では、道は分岐せず、そこから外れるのが誤りだ、ということになる、という話をした。


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本書の議論はここで終わっていて、そこから具体的にどういう「生きるための経済学」が出てくるのかわからないが、彼の指摘そのものは的を射ている。経済学が数学技術を競うお遊びを脱却して、真の実証科学として生まれ変わるには、自由という幻想を克服することも必要なのかもしれない。
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池田氏は、あたかも、私が「自由という幻想を克服」する「必要」を訴えているかのように書いているが、これは大きな誤りである。私が幻想として否定したのは「選択の自由」であり、そんなものは「自由」ではない、と言ったのである。私が求めた自由とは、自分自身でありつづけること、である。つまり、

「選択の自由」という幻想を克服し、「自分自身であり続ける」という意味での「自由」を探求することが必要だ

と言ったのである。




==========池田氏の書評==========
「自由」という漢語に対応するやまとことばはない。Zakariaによれば、似た言葉がある文明圏でも、その意味は西欧圏とは違う。中国の自由は「勝手気まま」という意味だった。日本語でしいていえば、無縁という言葉が近いが、これは共同体から縁を切られるという意味だ。つまり選択の自由というのは、西欧文明に固有の概念なのだ。

しかし本書も指摘するように、プロテスタンティズムには自由の概念がない。カルヴァンの予定説によれば、だれが天国に行くかはこの世の最初から決まっており、人々は自分が救われるかどうかを確認するために蓄財する。この信仰は、新古典派経済学と奇妙に一致している。Arrow-Debreuモデルでは、人々は世界の最初に一度だけ、永遠の未来までの正確な知識をもとにして合理的な選択を行い、将来財まで含めたすべての市場がクリアされ、あとはそのプログラムに従って行動する。そこに自由は存在しない。

この起源は、アダム・スミスの理神論にある。堂目卓生氏も指摘するように、スミスは利己心を「第三者の目を意識しながら自己の利益を追求すること」と考えた。 見えざる手とは、この社会的自我であり、神のメタファーだ。神が世界を調和するように設計するのは当然だから、利己心の追求によって秩序が生まれるのも自明だ。同じく理神論にもとづいて構築されたニュートン力学では、世界の動きはすべて物理的に決定されるので、自由意志の存在する余地はない。それをまねた新古典派経済学も、同じアポリアに陥ってしまうのだ。

これに対してマイケル・ポラニーは、選択の自由の起源をロックやヒュームの懐疑主義に求めた。それは、こうした決定論的な信仰が長期にわたる宗教戦争を引き起こしたことへの反省だった。しかし懐疑主義を徹底すると、それはすべての価値を否定するニヒリズムに到達する。ニーチェは「来るべき200年はニヒリズムの時代になる」と予言したが、このニヒリズムを克服すると称して登場したのが、ナチズムだった。

著者はこのように、従来の経済学がナイーブに想定する選択の自由という概念が、論理的な矛盾をはらんでいることを指摘し、これに対してポラニーの創発の概念を対置する。これは10年ぐらい前の「複雑系」ブームのとき流行した言葉だが、そのとき行なわれた研究は、単なるコンピュータ・シミュレーションだった。著者の『貨幣の複雑性』もそうだし、私も昔、そのまねごとをやったことがある。

しかし、こういう研究はすぐ壁にぶつかった。これは本来の意味での創発ではなく、チューリングマシンが複雑に動作しているだけなので、モデルさえ変えればどんな結果でも出る。その結論もゲーム理論でわかっていることを確認するだけで、プログラミング技術を競うお遊びになってしまった。

著者はポラニーに依拠して、このような客観的知識の延長上に「複雑性の科学」を築こうとするのはナンセンスだとし、暗黙知のような個人的知識の科学として経済学を構築しなおすべきだと論じる。しかし彼は、個人的知識を活用するために自由が必要だと主張したハイエクとは逆に、選択の自由という概念が近代西欧の幻想なのだから、『論語』で説かれているような道に倫理を求めるしかないと結論する。

本書の議論はここで終わっていて、そこから具体的にどういう「生きるための経済学」が出てくるのかわからないが、彼の指摘そのものは的を射ている。経済学が数学技術を競うお遊びを脱却して、真の実証科学として生まれ変わるには、自由という幻想を克服することも必要なのかもしれない。