マイケル・ジャクソンの思想(と私が解釈するもの)著者:安冨歩

福井教授からメールを頂いて、ブログに載せて良いとお許しを頂いたので、掲載する。


===========
安冨様

福井です。オーストラリアに学生引率に出発する直前にやっと『原発危機と「東大話法」』を入手し、飛行機の中で読みました。夕方までの授業とその後の強行軍に疲れており、眠気もあったのですが、そんなものはたちまち吹っ飛び、一気に終わりまで読んでしまいました。安富さんのブログやツイートで内容はだいたい把握していたつもりでしたが、現物ははるかに迫力満点。いろいろな問題が一気に関連づけられ、もやもやしていた思いが晴れました。

安富さんの「立場主義」に関する分析は圧巻です。日本の「エリート」(本来的意味の”エリート”とはもちろん異なるものです)のかなり多くに見られる態度は、確かに「立場主義」の概念で把握することができると思います。「立場」こそが重要で、それを守るために都合よく、もっともらしい理屈をその場で蕩々と述べるというのは、日本の「エリート」にしばしば見られる態度です。

「立場主義」については、さらに掘り下げて専門研究としてまとめていくことをお勧めします。「立場主義」が日本の宿痾みたいなものであることは明らかです。同書は、山本七平氏の『「空気」の研究』(同氏の主張には異論があるかもしれませんが)とも並ぶ、日本人のあり方の根幹に関わる問題提起だと思います。

私は、「立場主義」と法学教育が関連しているように思えてなりません。なぜなら、法学教育(とくに法曹養成教育)では、自分が感じたことを説得的に主張する方法ではなく、自分の主義主張はとりあえず措いて、たとえどのような立場であってもその相手方を圧倒することができるようになるようなトレーニングを行うからです。例えば、自分の主張がA説であるばあいに、反対説のB説に立って、A説を徹底的に論駁させるような論証トレーニングを行います。これは、原告と被告のいずれの代理人も務められるようになるための思考トレーニングです。このトレーニング自体が悪いものだとは思いません。というのも、このトレーニングは「相手の立場がわかるようになる」というメリットを持っているからです。しかし他方、権力志向のよからぬ思惑の人間がこのトレーニングを受けると、自分の「立場」を守るためにどんな論証でもやるようになります。レトリックを自在に使いこなし、それでもって自分の立場を守る。これに熟達してくると、それがレトリックであったことも忘れて自説を強弁するようになる。それがいかにグロテスクな強弁であるかすら感じなくなり、相手がそれを理解しないのは、相手の頭が悪いからだと思うようになる。彼らの発言は、その場その場での論証としては一貫しているけれども、多くの場合、他の場所での発言とは矛盾します。それでいて平気なのは、彼らの発言は心から出たものではなく、単なるスタンドプレーにすぎないからです。

大学でも、役所でも、企業でも、安富さんの指摘する「東大話法」に出会います。頭のいい人のはずなので、その人に理解してもらえると思って一生懸命説明するのですが、結論が先にあるのか、何を言っても同じところに戻ってくるという場面によく遭遇します。このような「話法」を生み出してしまう構造はどうなっているのか、その構造を変えていくことはできないのか、これは日本の将来にとって、多くの人が考える以上に重要な問題なのではないかと思います。

もちろん、「東大話法」と類似した問題は世界中どこにでも存在していると思います。このような問題を生み出すのは社会の構造であり、似たような構造があれば普遍的に生じると思うからです。この問題を普遍的な視座のもとできちんと捉えることができれば、私たちが日頃おかしいと感じている多くの問題がすっきり把握できるようになるに違いありません。

とりとめのないことを縷々述べさせていただきました。乱筆ご容赦ください。