一杯のかけそば、一箱のもも | アラカンsaryの心模様

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ご無沙汰してます、皆さん年末でお忙しい事と思います。
お体には十分に気をつけられて下さいね。

facebookで懐かしい物語を目にして懐かしい事を思い出しました。
皆さん「一杯のかけそば」って物語を見たことあると思います。
もし、知らない方がいらっしゃったら下にURL張りますので読んでみて下さい。

一杯のかけそば
http://members.jcom.home.ne.jp/t-miwa2/newpage107.htm

この物語は実話だと言いつつ実際には違うとか、色んな噂が飛び交いました。
実話だろうと作り話しだろうといいじゃない。
この物語を読んだ人が心温まる気持ちを感じたんだから其れでいいんです。

これから書く事は私の実話です。
一杯のかけそばを久々に目にして母との事が思い出されたので書きます。

父が他界して丸2年を過ぎました。
母が亡くなって丁度今日で丸6年、いわゆる七回忌です。

母は車の運転免許を持っていなかったので自転車ばかりでした。
でもね、母の自転車運転技術と言うかスピードって凄かったんです。
私は母に時々いってた言葉が「自転車暴走族みたいな運転はダメだからね」
「もし事故でもあったら車の方が罰せられるんだから迷惑かけるからね」
って、どんだけ元気一杯のおばあちゃんだろう。と思われるくらいでした。
その母ももうこの世にはいません。

私の思い出の中に母はシッカリ居てくれてます。
私が小学校の時、母が乗っていた自転車ってこんな感じ。
昔の自転車

この写真はネットで探して近いものをパクッたのww
実際はもう少し昔っぽかったかなぁ
特に記憶に残っているのが後ろの荷台!凄く大きくって頑丈に出来ている。
今は殆ど見なくなったけど、青果移動販売におじいちゃんのチャリが似てる。

母は何不自由なく此のチャリで自由気ままに結構遠くまで移動してました。
今ではみんな自動車に何でも乗っけてどこまでも持ち運べるけど
母は此の自転車の荷台にゴムベルトみたいなものでくくりつけて運んでいました。

私が子供の頃、陸上競技でアキレス腱を故障した時も
自分が仕事のお昼休憩時間に私を学校まで迎えに来てこの自転車で病院へ通ってくれました。
今思えば、多分其の頃 母はお昼を食べる時間がなかったと思います。
そんな事は子供だった私には解りませんでした。

妹に何かあれば、このスーパーチャリでどこへでも行ってました。
そんな私と妹は両親から沢山愛情をもらって育ちました。
妹が20歳位の時だったかなぁ?
私に「姉ちゃん、私おかあちゃん恥ずかしか・・・」って言うんです。
まぁ、20歳位の時って見かけを重視するお年頃ですもんね。
母の昔風チャリが恥ずかしかったのかなと思いました。

妹の言う母の恥ずかしい事って何か聞いてみると、
妹は高校卒業後 看護師になり病院で住み込みをしてました。
母からすると可愛い娘(妹)がお世話になっている病院ですから
盆正月は恒例のお歳暮お中元は当たり前の事なんです。
そのお歳暮やお中元を例のチャリの荷台にくくりつけて
車で30分以上かかる病院をチャリでご挨拶と手渡ししていたみたいです。
そんな母の行動が妹は恥ずかしくてたまらなかったみたいです。
其の時のお届け物は「箱に数個入った桃」だったそうです。
今ならネットでお歳暮お中元は注文から配達までしてくれるけど
母は直にご挨拶お礼と品物は手渡しで伝えたかったのでしょう。

母は先代社長(父)の奥さまなのに贅沢というものをせず
まるで一杯のかけそばのお母さんみたいに子供への愛情が深かった人でした。
母が膵臓癌で余命1カ月と宣告され4か月後に亡くなるまで
二度ほど「デパートに洋服を買いに行きたい」って言ってたんです。
車いすでも移動か難しいくらい体力が無くなってた母を私は連れだせませんでした。
其の言葉が脳裏に残っていたので火葬の時にお棺にクレジットカードを入れました。
「これで向こう(あの世)のデパートで目一杯買い物してね」って・・

最近は感動する様な出来事や物語を目にする事が少なくなりました。
私にとって「一杯のかけそば物語」は「母の一箱のもも」なんです。