Crystalの欠片〔10〕
ガチャ。
「・・・・・・・・・あら…起きたのね」
キョーコが上体を起こしてベッドに座っているのを見てほっとしながらトコトコと近づく。
「ここまで運んでくれたの・・・・・?」
「・・・・・まあね」
キョーコの額に手を当ててみる。熱はもうないみたいだった。
「ごめんね…ありがとう」
「!!!!!!!!!!!!」
ほろ、と咲きこぼれるような笑顔を見て、奏江の顔面がくわっと歪む。
「っ!?」
「・・・・・・・・・・・・・あんた・・・・・・・ その顔、あの紅蓮王・・・・・・・・・・様、に絶対見せちゃだめよ」
「・・・・え?」
「だめったらだめよ!!」
くわっ!!!更に仁王のような表情になった奏江に、わけもわからずコクコクと頷くキョーコ。
「わ、わかったわ」
(よくわからないけど…)
「わかればいいのよ。 ところであんた、おなかすいてないの?だいぶ寝てたわよ」
「・・・・・・・・・・。」
キョーコは自分のおなかに手を当ててみる。
しばらくそのまま何かを考え込むように首を傾げている。
「おなかがすくって、こういうことなのかしら…?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?」
「おなかの中心がきゅぅっと縮こまるような、穴が開いたような空虚な感じがしたら『おなかがすいた』ということ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ええ、そうでしょうね。それはおなかがすいているわよ」
「・・・・・・・・・・・・そう、なのね…。」
ちょっと寂しそうな影がキョーコの表情に現れたのは、どういうことなのだろう。
「・・・・・食べたいなら、おかゆ用意してあるから」
「・・・・・・・・・おかゆ」
「・・・・・?」
なんとなく間の空く会話だなとか思いながら食材入りのおかゆをよそってキョーコに差し出す。
キョーコはそろりと口元に運ぶけれど、なかなか口に入れようとしない。
「熱くないわよ。人肌にさましてあるから」
「・・・・・うん」
やっと口に入れてゆっくりと噛む。
(慣れないといけないんだわ…ものを食べるということに・・・・・・・・・・)
天使だったころは、大気から光をもらっていれば天使に食事は必要ない。
けれど、魔界の風からはなにももらうことができない。
自分には食事が必要になったことを自覚して、キョーコは生まれて初めて食べ物を口にした。
はじめて食べるものがおいしいのかどうか分からなかったから、何も聞かない奏江にほっとした。
「じゃあ、明日また来るから」
奏江を見送ると、キョーコは無言で布団を手繰り寄せた。
「・・・・・・・ごちそうさまでした」
食べて初めて分かったことがある。
食事はほかの生き物の命を奪うことだと思って、罪悪と考えていたけれど、一生懸命生きるためにほかの生き物をいただくことが必要なら…、それは仕方ないのかもしれない。
キョーコにとって初めての食事は奏江が一生懸命作ってくれた、尊いもの、だった。
「・・・・・食べるということは、大切なことだったんだわ」
布団に顔をうずめながら、キョーコは一人つぶやいた。
そして。
次第に時間が移り変わるのをどれくらい眺めただろう。
魔界には月が上る。
この時間こそが魔界の昼間に等しいという。
上り始めの真っ赤な月を眺めて、川ひとつはさんだ先の魔界がどれほど違う世界かをキョーコは認識し始めていた。
天界では月は上らず、ただ光満ちる雲海が広がる。かといって太陽もなく、大気全体が光を持っているとでも言ったらいいのだろうか。常に光が取り巻いているのに、まどろむ時にその光は邪魔をすることなく瞼から遠ざかる。
雲海はそのまま羽毛のように体を包み、眠りを守ってくれるもの。
それと魔界はあまりにも違った。
躊躇せず生き物の命を奪わなければ生きていけず、太陽はなく、月が上る。昼は赤黒い暗雲が常に空を覆い、赤い月が上ればようやく暗黒の、雲一つない空が済みわたる。住む者はお互いよりも自分のことを優先し、それが当たり前。そうでなければ軟弱と嘲笑われる。
なぜか、それら魔界を包み込む感情の波がキョーコの胸に押し寄せた。
凶暴な感情の波。
一度人間界に降りる機会があったとき、人間の感情もこんな風に高ぶって感じられることがあった。
LUNA SEAと言われるのだと誰かが言っていた。
人間も、魔族も、月によって狂わされるのだと。
平生よりも凶暴な感情を抱く。獣のように血を求め彷徨う。
天界にとっては、理解しがたい感情の波。
けれど、もともと大気からすべてをもらっていた天使だったキョーコは、空気から読み取るものが強いのか・・・・・そういった感情すべてが胸に去来した。
『食事』ではない・・・・・ただ単に、血を求めるもの。
(何かしら・・・・・・・・・・・・・・・・ひどく つらい・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
さっき、奏江からもらった感情とは、遠く離れたものだと思う。
ただ単に、殺 戮の欲求。
涙が流れそうになったとき、声が響いた。
「 辛いか?」
聞き覚えがある甘く低い声。
その翼は、羽毛が抜け落ち、骨組みと薄い皮膜でできた翅。どことなく蝙蝠を連想させるような、ほんのり赤みを持った黒翼だった。髪もまた、つややかな漆黒に血のような紅を刷いたような・・・・・。そこにいたのは、昼間より壮絶な程の真紅を身の内に持つ魔王の姿だった。
「紅蓮王・・・・・・・・・・・・・その名前は、この姿からだったのね・・・・・・・・・・」
まさに、名の通り。
紅蓮の炎を身にまとい、血のように・・・・・・・・・そして極上の宝玉のように輝ける紅蓮の色彩。
赤い月の色よりも輝いて、それでいて・・・・・・・ひどく昏い。
それなのに、どうしてこの人の微笑みがこんなにやさしいのか。
きっと誰よりも、血を求める衝動を知っていて、きっと誰よりも、明るい光を知っている。
どうしてだろう。単純にそう思ってしまった。
「・・・・・・・・・・・・・・ルシフェレス・・・・・・・・・・・・・・・・様?」
その名前は、禁断だった。
天界にとって、そして魔界でさえも、禁断の名前だった。
「 お前は・・・・・・・・・その名前を・・・・・・・・・・・・・・・・・・・知って いるのか・・・・・・・・・・・。」
「紅蓮王」と名付けられた人は、どこまでも切ない表情で、そう告げた。
「・・・・・・紅蓮・・・・・・・・王?」
すると、王は無言で顔を横に振る。
「・・・・・・・・・・?」
紅蓮王と…魔王と呼ばれることを彼が是としているのだと思っていたキョーコは、そんな紅蓮王の姿に困惑するばかりだった。
魔王と呼ばれて幾年も過ぎたことだろう。なのに、紅蓮王はその名で呼ばれることを嫌がっていた。
「俺の名前は『蓮』だ・・・・・・・・・・・・・・・
そう 呼んでほしい・・・・・・・・・・・・・」
切ない表情で告げ、キョーコの体に触れる。
「俺は・・・・・・・・・・・・・ルシフェルでも、ルシフェレスでもない・・・・・・。お前は俺を、蓮と呼んでくれ」
ぎゅう、とキョーコの体を抱きしめながら、震える体で紅蓮王は告げた。