カニの親子 | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
   
   
   最近の俺はどうも、またもや
   
突き進む行き先は何処? January 02, 2006
http://ameblo.jp/badlife/entry-10007615633.html#cbox
   
そして ラジオからは… テーマ:和製アルカトラズ通信 December 03, 2005
http://ameblo.jp/badlife/entry-10006739954.html
   
   このあたりに似た心境から這いあがらねばならないところにあるので
   今の俺にとっては
   他人の言葉ほど励みになることはない。
   して、色々な方のブログとかを読んでみている。
   そういう中で
   assimilateさんのところ
   実に、出口のないところから
   出口を見い出せるきっかけが摑める…ような気がする。
http://blog.livedoor.jp/assimilate/archives/50585666.html#comments

   世のカウンセラーの方々は
   こういう人こそを見習うべき…とも思う。
   それは最近の“巷の流行り言葉”でいうところの
   癒し系卑し計?とかセラピー背裏否ィ?などという
   狭い幼稚な範囲のものではなく
   学識的な趣味や嗜好(志向)や、
   独身生活の逃げ道…などとは別に
   人間に本来、備えられているはずの必要最小限の犠牲心…というか
   …子供を持った経験のある人なら判るはずの
   人が人を思いやるという当たり前の感情。
   そういうものが基本的に
   人間一人一人の付き合いの中で
   もっと大切にされるべきもんだと思う。
   「道徳」とか「優しさ」などという言葉に当てはまるもんでもない。
   人間が持つ、当たり前の、フツーの愛情だ。
   
   あのねぇ、そういうのが少なすぎるんですよ、今の世の中は。
   
   んで、
   今日は、子供と海へ遊びに行った。
   人がいっぱいの海水浴場の真ん中は避けて
   なるべく浜に寛ぐ人々が少ないところで子供と二人。
   
      seaICHROWE2003  これは今年の画像ではない。イメージね、イメージ。
   
   一龍【いちろう】は一人っ子なので
   保育園(年長組)には同じ歳のお友達が十数人いても
   近所には少ない。
   いつもほとんど独りで遊んでいる時間が長い。本人は
   「もう慣れたよ」
   と云っているが、やはり、妻の姉の子供(小学高学年・中学生・高校生の三人)
   同じ保育園の子供が遊びに来た日は
   それ達が帰ったあとが、かなり静まり返ってしまう。
   お父さんとお母さんが、いくら友達のように相手をしても
   親は親で、大人は大人だ。
   以前よりは絵も上手になったし
   平仮名もだいぶ読めるようになった。
   鉄棒も前転一回転はできるいようになった。
   英会話教室で覚えた片言の英語もタイミングよく遣う。
   はじめてまだ一ヶ月もしない空手も週二回、楽しみに通ってる。
   そういう所にも同年代の子供が幾人かいるので
   他人の兄弟や親子の触れ合いを見ながらも
   毎日毎日いろいろなことを吸収して
   自分が孤独である分、観察力はスルドイ…模様
   浜辺にも兄弟二人以上の家族連れは沢山いるので
   いろいろな意味で、外界と接触の少ない親子で刺激になる。
   
   佐渡の海は日本海側に海水浴場が多く
   だいたいの場所が50メーターくらい先のテトラポットまでは遠浅で
   水の高さは幼児プールと同じようなもんだ。
   深くても120センチの身長で胸の辺りまで。
   このところの天候…一応は夏らしい熱い陽射しのつづく中
   海上の波の高さは落ち着いた様子で
   最近の月の位置との関係からも昼間は干潮時が多い。
   波風は穏やかな状態。
   それでも、まだ自分の力で自分の命を守る能力は
   一般の大人ほどではないし   
   ちゃんと自分の手足を使って泳げない子供の親は
   決して哀れな水の事故にならないよう、常に気をつける必要がある。
   
   エベレストの山に置き去りにしたゴミを掃除した人は
   酸素ボンベやテントとか、飲食したカス、ポリプロピレン系のクズとか
   今のところ、4年間で800トンものゴミの山を回収しているらしい。
   そのほとんどが日本、韓国、台湾…のアジア人が置き去りにした物で
   あの登山家にはもう、嘆きや哀しみはなく、怒りも通り越して
   ただ真顔で
   「世界における日本人、今の日本の社会そのものの縮図」だと云っていた。
   そういう愚かさを題材に
      
http://ameblo.jp/badlife/entry-10003359054.html
   かつて、こういう物語を書いて、『BAD LIFE 』の中にも掲載したけど
   別に反響はない。誰も読んではいない。
   
   アジア人の多くがインターネットの世界を薄汚くしてることも
   みなさん御存知の通り、
   同じように、日本海の海も海岸も隣国から流れ着いているゴミが多い。
   おそらく、太平洋沖の島々でも
   日本人が垂れ流したゴミが漂流・漂着してるものと思うけど
   佐渡の海岸にも、ハングル文字で書かれた洗剤や薬剤のポリ容器とか
   医療品の瓶やガラス管(錆びた針つきの注射器など)に残った空気で
   浮遊して流された物が、どんどんと漂着している。 
   
   浜を走り回る子供がガラスの破片を踏んづけると困るので
   俺は常に、そういう“光るゴミ”を拾い集めて …俺はカラスか)
   道端のゴミ捨て場まで持って行く。
   砂の中にも埋まっていて散乱してるので切りもないけど
   一個 拾うごとに誰かが怪我をする確立は減る。
   ゴミを拾いながら穴のあいた貝殻も拾い
   ほぐれた水糸釣り糸)についた釣り針のゴミを砂の中から引き上げて
   妻と子供に首飾りを作ったりする。 
   
   acs06august02    acs06august03  
   
   
   浜にはところどころに2~3センチの穴があいている。
   そこを小型のスコップで30センチほど慎重に掘ると
   チョロチョロと一匹の子蟹が出てくる。
   砂の中から取り出したときは白っぽい。
   空気中に触れると黒っぽくなってくる。
   
   ### 画像編集中 ###
   
   持ち帰ってもバケツの中で死んでしまうだけなので
   子供が見て喜んで
   砂の山に乗せて遊んだあとは海へ帰す。
   はかない命でも死ぬ場所は決められている からな。
   
   
   生前の“カツオ爺さん ”の話の中に
   『蟹の親子』というモノがあった。
   21世紀の幕開けとともにこの世を去った
   昭和元年生まれのあの爺さんが書いて残した
   幾つかの書籍 には載ってないけど   
   膨大な記録データ肉声録音テープなど)の中には残されている。
   
   
     ある日、蟹の親子が浜を歩いていて
     親が子供に云いました。
     「おまえ、ちゃんと真っ直ぐに歩きなさい。
     どうしてそんな格好で横に歩くの? 
     歩きにくいじゃない。
     ちゃんと前を見て、真っ直ぐに歩くんだよ…」
     すると、子供は云いました。
     「お母さんだって、横向きに歩いてるじゃない」

     
   そこに
   
     「親は子供について100%何も解らない   
   
   という言葉が添えられたり、
   
     人間、誰もが、右の方に右の手があって右の形をしていて、
     左の方に左の手があって左の形をしている。
     これが、人間の創られ方である。
     右の手は絶対に左には持ってこれないし、左の手もそうであるように、
     人間の足も、指も、目も耳も、絶対に左から右に持ってきて、
     そこへ付けることはできない。
     臓器にしても、皮膚や血管にしても同じである。
     それをどうして右から左へ、また左から右へ持って来て、
     くっつけて診るようなことをやっているのか。また、やらせてしまうのか。
     医学とは、実に幼稚で曖昧なことをやっている。
     人間の目の、まつ毛と目の瞼の境、その線。その動き一つ。
     決して、人間がそのように造った物ではない。
     それを人間は、意識する、しないは別として、
     自分が生まれてから死ぬまでの間、それを自分の物として使って生きている。
     何か上から物が落ちてくれば、それをそのまま眺めて見ているような人は決していないし、
     人間の目は、目の瞼は、その瞬間に必ず、目を瞑ってくれるように創られている。そして常に、
     中にある眼球を守ってくれている。
     果たして、そんな動作する物を、いつ、どこで、誰が考えて、どうして、どのように創ったのか。
     そしてそれは絶対に、人間が造れる物ではない。
     このように神秘的な、しかも精巧に創られている人間が、この自然界に産まれてくる。
     その人間の創り方は、絶対に変えることはできない。
     そして人間は、産まれる前には何人【なんびと】の約束もないのに、
     女は女らしく、顔も、体も、声も、男には絶対にない子宮も卵巣も持って産まれてくる。
     また男もそうである。
     その親である製造元は、その子供について何事も解らない。
     判るのは、男女の別と、自分達で考え、命名したその子の名前だけである。
     しかし、そのように何も解らない親が、親の権利をふるうから、
     子供がおかしくなってくるし、変になってしまう。
     
     それは、永遠に代々そうである。
     現世に形づくられ実在する者はすべて、受胎された瞬間に、
     生まれる日も、死んでゆく日も決められ、男女の別も決まり、
     何をして生きるのかも、その職責も職能も、すべて決められて産まれてくる。
     それを世の親は、子供可愛さなのか、己の見栄なのか、
     「子供のために」という大義名分により、必要以上の教育を積ませてしまう。
     その子供の、本来の持って生まれた能力。自然界に生きる人間としての知識。
     その「程度」についてもまったく解らないのに、
     様々に他人の教え、学問の知識、教育の材料を目の前に並べて用意する。
     人間一人一人、その者が生きるためには、
     絶対に必要なことと、必要でないことがある。
   
                     『大自然の気による政治革命』 未公開原稿 原文2より。
                     
http://ameblo.jp/badlife/entry-10004163605.html
   
   
   そんなことの内容を想い出しながら、俺は、
   自分の子供が遊ぶ横で
   浜に打ち返す波を見つめ、タバコを吹かしてみる。 (吸殻は持ち帰るよ
   そして思う。
   
   この波と波の狭間、境、海と陸の間の境界線には
   ハッキリとした線はない。
   世界中の潮の満ち干は朝昼晩に常に変化している。
   それでもそこには、海は海、陸地は陸地の区別がある。
   そしてその区別をつける境に打ち寄せる潮水の中にも
   様々な微生物や砂に揉まれた貝殻の破片もあれば
   魚の死骸の一部や千切れた海草もある。
   その“波打ち際”という海と陸地の境に。
   そこに、数多くの生命の動き、活動、細胞分裂がある。
   
   人間の目の創りにもそっくりじゃねぇかよ。
   涙腺や涙の出てくる仕組み、構造にしても
   眼球の潤いを守る眼球を覆う透明な薄い皮にしても
   「人間の目の、まつ毛と目の瞼の境、その線。その動き一つ。
    決して、人間がそのように造った物ではない。」

   って、“カツオ爺さん ”が云ってたように。
   
   人間の造った宗教や教育は、どうして
   そういう自然の産物を破壊して
   自分たちも自然の産物であることを忘れてしまうのか。
   
   忘れちゃったの? 
   もう取り戻せないわけ? 
   
   たかだか数千年の文明じゃん、こんなのは。
   魂だけは永遠なのにな。
   
   
   というように、海で心を洗われ
   俺が俺であることを取り戻す瞬間が そこにあった。
   
   
   回復してきたよ。
   
   
   
   ♪コぉメントらぁんで、逢ぁいましょうぉ… F永井