今回のエントリーは千夜千冊に負けないような一夜一冊(長文)となっております。

突然ですが質問です。
あんたってちゃんと歴史ってもんを理解してる??

やまゆうの答えは当然…NOです。だってゆとり世代なんだもん。
まぁゆとりはネタですが、現代の日本人で胸を張ってYesと言える奴は多くはないでしょう。
てなわけで、今日はひとつ皆様に歴史の見方に革命を与えるこの本を紹介しまふ。じゃーん。
17歳のための世界と日本の見方―セイゴオ先生の人間文化講義/松岡 正剛


書評がとんでもなく長いあの「千夜千冊」で有名な松岡正剛先生。
そしてこの本こそまさしく歴史を紐解く教科書。

僕たち今の若者ってのは、これまでただ単に答えを丸暗記して、その意味を考える機会が非常に少なかった。大学に合格するためだけの暗記、速読、解法テクニック、センター試験のマークシートってのがその素晴らしい例でしょう。

今回は歴史(広義的な意味で人間の成り立ちから、文化や宗教、価値観も含める)に焦点を当てるとするならば、おそらく多くの人が1192年にどんな幕府が成立したかだとか、最初に日本にキリスト教を伝えたのは誰だとか、この答えにはコレだっていうA=Bだっていう解しか持ってない。

しかし歴史を知る上でA=Bに何の意味があろう。少なくとも歴史の出来事が何故起こり、何に影響を与え、今の僕たちにはどう関係しているのかってことを知るほうが有意義だとは言えるはずだ。

ここでセイゴオ先生は僕たちにひとつの素晴らしい歴史の見方を与えてくれる。
それは、セイゴオ先生の言葉を借りるなら「関係を編集する」という。
ここでいう編集はある情報のどこを区切って取り出し、それによってどのように見え方が変わってくるかということ。ひとつのイメージとして、後ろ姿が魅力的な女性にハァハァして、振り返り様にがっかりする感じw 正面と背面という区別ですね。例えは最悪ですが、セイゴオ先生は歴史上で人類がどのように関係を編集して(つまり解釈して)宗教、芸術、価値観などを作ってきたか、何と何が組み合わさって、どこが強調されて、どのような場面でどんなキャラクターが加わったのかを教えてくれる。

あんまりに書きたいことが多すぎるので今回は宗教の一部分を述べたいと思ふ。
宗教ってのはイエスやアッラーや仏陀ではなく、彼らの話や生き様などを編集した弟子たちやその周辺にいた者たちの「編集」から生まれたものであり、彼らは物語を用いた。それが神々の話であったり、神との契約であったりする。

セイゴオ先生は今回キリスト教を中心に語られていたので、それに沿う。
ちなみにキリスト教を編集したのはパウロ。

・二分法が生んだ論理武装した一神教
キリスト教の前進であるユダヤ教(イエスはユダヤ教)は、ソロモン王のあと南北に分裂したうち北の「イスラエル王国」は土俗的なバール信仰に脅かされた。そこでバール信仰を「闇の信仰」とみなして禁圧した。要は「善と悪」で世界を分ける二分法という見方を生み出した。西洋で生まれた多くの宗教には同じように善をこちら側、悪が向こう側という二分法を有し、排他的な社会観を生んだ。キリスト教は悪を敵対する神の偶像と似せて排除するってこともした。このような世界観が勧善懲悪なるものを作った大きな要因のひとつであり、現在の一神教的世界観に大きく影響しているのだろう。

そんな二分法は一神教の正当化に不可欠なものだったが、白黒はっきりつけために神を絶対的なもの、つまりMECEかつ理路整然とする必要が出てきた。(でないとキリスト教はローマ人に受け入れてもらえない。)しかしそもそも死んで三日後によみがえった話、神と神の子イエスの関係を証明する理屈を考えるのは至難の業。それを父なる神≒イエスとして聖霊まで引っ張り出して、『三位一体論』なるもの(本質的には一体だけど、異なった現れ方をすんねんというロジック)で辻褄あわせ?をして神を確立した。

このように例えば聖書では父なる神と神の子が組み合わさって、その血縁が強調されて、正当化するために聖霊を加えたんだよね。光と闇を対比し、その明暗を際立たせ、敵対する宗教に悪のイメージを加えたんだよね。

人間が普遍的に共有することのできる理屈を考えるなんてすげーよと思いながらも、こういった(無意識に根付いた)二元的な価値観がキリスト教とイスラム教、イスラエルとパレスチナ、シーア派とスンニ派といった宗教の内外での対立や国家の対立を生んでいるのも事実だよね。


じゃあ次いってみよか。
世の中、境界線も区別もないことがあってもいんじゃないの的な東洋思想。
世の中、一神教だけじゃうまくいかんこともあるんじゃないの的なバロック文化。



・荘子の蜘蛛の夢、日本の侘び寂び
東洋の仏教や儒教や道教は、悟りを開き、礼を尽くし、仁を身に着けるなど、普遍的な人間一般の本質や理想に迫ろうというもの。「蜘蛛の夢」は道教の始祖である荘子が夢で見た蝶について、自分が見た夢なのか、蝶が荘子を想って見た夢なのかと主体と客体が入れ替わり、判然とせず、溶け合い、過去と現在と未来の間を、夢と現の間を、全ての境界線の間をトランジットしていく。
日本の枯山水は余白、余情を重視した。小さな庭の空間のなかで川を表現するために、あえて石だけを用いた。これが意味するのは水を感じたいから、あえて水を抜き、美しさを奏でる引き算の美学なんですね。何もないところから、見る人の精神世界と繋がろう。多分ネガティブスペースに無限の何かを感じていたんでしょう。

このように東洋思想では主体と客体が溶け合うことが強調されていったり、現実では何もないところから大きな世界を創りあげたんだね。言うなればコスモみたいなw

・異教がいっぱいバロック文化
ルネサンス時代の人々はそれまでの理路整然とした世界だけではなく、錬金術的な世界観をもっていた。十字軍の失敗やら国家間の領土問題などによりキリスト教権力の弱体化が起こり、それによって今までダメよと言われていたギリシア、ローマの知の復興(錬金術的な世界観)がされたんですね。要はキリスト教と異教の混ざり合い、ユダヤ教のきっかけを作った十戒のモーセとアテネの哲人プラトンは一緒やと言い出し、モーセ=プラトン=ヘルメス神とか無茶苦茶な編集が行われた。

「異」と「同」が重なりあい、編集された結果、生まれたのがバロック文化。バロックはポルトガル語で「ゆがんだ真珠」の由来で、科学革命が起こった時代である。このバロック文化がおもしろいのが、今まで唯一型世界観から二つの世界の対比、かつ二つの世界が必ずしも完全に対照しあってない世界観が生まれるんです。イメージとしては唯一型は円に対してバロック的世界観は楕円。ケプラーの法則みたく、焦点が二つあるんですね。これによって常に人間は考える葦となった。唯一無二って思考停止をよく引き起こしていたけど、イコールで成り立たない二つの世界が存在することによって人々は考え続け、科学の革命が起こったんだ。

 
・・・自分なりに編集して発散させたらどう収束させていいかわかんなくなったw
宗教観自体、一長一短的にとらえるのはおかしいし、こういう性質があるといった事実で捉えるべきと僕は思うのですが、西洋的な思想に偏り、東洋的なものを失いつつある現代の日本人への問題提起には十分になるだろう。そもそも考える葦となってない方が多くいらっしゃる日本やもんね。

要は対照的な見方。鳥の目と魚の目やんって思ってしまったあなた!確かにその通り!
でも実際に物事を捉えるために対照的な見方なるものちゃんとできてるんですかねー!?
甚だ疑問w だから最後まで読んでくれたんでしょ!?<何を偉そうに。
それこそセイゴオ先生の「関係を編集する」ことから始まると思います。

そういった意味でこんなに多くの文化的事例をセイゴオ先生が編集した関係の中で、対照的にわかりやすく示された歴史の教科書は他にありませんよ!教養書というだけでも半端ない価値があるので読むべし。読むべし。

やまゆうなんて無知すぎて、こんなにも付箋だらけになっちゃったもの。恥ずかしいかぎり。
$やまゆうのブログ-100113_2312~01.JPG

あぁー駄文すぎる。東洋生まれですが、西洋のような理路整然さが欲しい今日このごろ。