昨日、ダラスで訪れた美術館を思い出した。そのときの友人も街も食べ物も。

その近くにある、J.F.ケネディが暗殺された道路の×印を見たこともついでに。


そして今日、思いもかけず、再びダラスを想うことになった。

今度は、実体験に基づいたものではなく、自分の思いを過去に飛ばして…


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『13 Days』


今日は、キューバ危機に際した2週間の、ケネディ大統領率いるホワイトハウス周辺の模様を描いた作品である

この映画によって、ケネディ大統領が暗殺されたダラスを再び思い出すことになった。


映画の初めから終わりまで一貫して、

キューバ危機が起こった当時の緊張状態が、登場人物の緊迫した演技によって、手に取るように感じられた。





この映画を見て心に残ったことは、次の4つに集約できる。





①ひとつは、政治と道徳の区別を、当たり前のものとして政治的指導者が語っていたこと。


ケネディ大統領の側近であるオドネルがこう言う。


「人命の犠牲、時にはそれが正しいこともある。」


この言い回しには、今の私は、まだ素直には納得できないし、これから先も納得できるかわからない。できれば納得できるようにはなりたくない。オドネル自身も、この言葉を大統領に向かって発しながら、動揺を隠せていない様子が映画では描かれている。


ここでの要点は一つ。それは、「人が死ぬのを見過ごすということが、何にとって正しいのか」、ということ。

オドネルによると、それは「国防という国家の利益にとって正しい」のである。


中世の時代に、宗教と政治が区別して考えられたのは、

人間の霊的な部分と肉的な部分それぞれの欲求を満たす営みを区別して考えたため。

つまり、道徳と政治を峻別したのであり、したがって、道徳は政治に少しも立ち入ることができない。


近代に入って、マキァヴェリは、『君主論』の中でこう書いている。

「良い為政者に必要なのは、善悪の判断能力ではなく、効率性や損得を勘定できる能力だ。」


この2つのことから言えるのは、

「政治は、国家がいかに利益を得るかを計算して行われる営みであって、

その目的達成のためには手段の道徳的善悪を問題にしない営みである」ということ。


このことを、先日とある人から聞かされ、納得半分、疑問半分という気持ちで心の隅に置いていたのだけれど、

そのことを今日再び思い出すことになった。オドネルのこの言葉によって。


この言葉に対する価値判断は、今の私にはできない。これから先できるかどうかもわからない。

けれど、深く大きく心に残ったことを、覚えておきたいし、度々取り出して考えたい。だから、書いておこうと思う。




②二つ目は、政策決定(国家の意思決定)に、諸々の立場の人たちが関わる様子。


ホワイトハウス、国防総省、国務省、CIA、国連といった、各アクターが意思決定に関わり、

ひとつの意思決定を行うことの難しさを描いている。




③三つ目は、ソ連という見えない相手の意図を必死で探りながらホワイトハウスが判断を下していく様子。


これと全く同じアナロジーを、科学が発達した上に国際情勢も変わった今の時代に適用することはナンセンスだけれど、一方で、この一部始終を目撃することで、今の時代にも通じる、外交がどういうものかということに少しは接近できると思う。





④四つ目は、責任ある重大な意思決定に直面して、時には怖れを感じながら、

  しかし勇気を持って、英断を下していくホワイトハウス周辺の様子。


「想像を超えることは書けない。とても…。」

空爆について書くよう大統領に言われた演説原稿作成者が思わず吐いた言葉。


「人命の犠牲が時には正しい」と言ったオドネル自身も、

実際にパイロットの命が危険に晒される時には不安だった。




書きたいことはまだまだあるけれど、長くなるので今日はこの辺で。

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それにしても、オドネル演じるケビン・コスナーがカッコいいですね。

個人的には、ケネディ弟とマクナマラ国防長官も好きです。


やっぱり私は、人間くさい人が好きみたいです。




というおかしな結論で、今日は終わります笑。


ではまた