20191215





「あ、お疲れ様です。お先、失礼します」




おれと入れ違いに所員の伊野尾がちょうど事務所を出ていくところだった。




「お疲れさま」




親父が事務所の奥の席で図面に目を通している。

大野建築研究所は、所長である親父の他におれを含む所員3名の小さな設計事務所で個人邸宅や共同住宅はもちろん、図書館や公民館、スポーツセンターなどの公共施設、ビジネスホテルなどの商業施設も手がけている。

今は大きな案件がないため比較的健康的な時間に帰ることができるが、ひとたびプロジェクトが稼働すると家には着替えに帰るだけという生活になる。最悪、事務所に缶詰めになることも。ワークライフバランスが叫ばれる近年でもこの業界はハードワークにならざるを得ないのが現実だ。




「智」




図面に目を落としたまま親父がおれを呼ぶ。

事務所には親父とおれしかいない。

親父のことを嫌いだとは思わない。家族を、お袋を見捨てた酷い父親だ、なんて言わない。それでも仕事を通してしか会話ができない。親父はおれ達のことをどう思っているのだろう。家出同然の姉貴のことをどう思っているのだろう。





「伊野尾はどうだ?」





「はい、一所懸命やってます。中原のRC造のマンション、一人でやりきりましたよ。クライアントからの評判もいいです」





「そうか、それならいい。...あぁ、そうだ。明後日、雑誌の取材があるから俺の代わりに受けておいてくれ」




デスクの上に担当者と思われる人の名刺が置かれ、こちらに差し出される。




「は、はい...あの、取材の内容は?」




「何だったかな。今後の建築業界と研究所(うち)の展望だったか」




「その内容なら所長自身が受けられた方がよいでは?」




相変わらずいい加減である。

変なプライドは捨てればいいのに昔から仕事を選り好みしがちだ。

親父はため息をつくと視線をやっとこちらに向けて言う。




「分かっていると思うが、研究所(ここ)はいずれお前が継ぐことになっている。研究所(ここ)の所長になる人間が将来のビジョンを語るのに何か理由が必要か?」




おれは返す言葉がなくて視線を外らす。

見かねた親父は再びため息をつく。

正直ため息をつきたいのはこっちの方だ。




「お前には才能があるんだ。ここを継ぐのは伊野尾でも髙木でもないお前なんだぞ。とにかく明後日、頼んだからな」





「...はい」




心の中で悪態をついても口をついで出る言葉は正反対だ。親父の仕事は尊敬していたし、期待されていることもわかっていた。

そんな矛盾した感情を抱えたまま帰宅する。それでもポストの赤いフラッグが立っているのを見つけ胸が高鳴る。