『相良亨著作集』をちょっと読んだら……
それは「ニヒリズム」から書き始められていて、
「ニヒリスト」が取り上げられている小説は
ツルゲーネフの「父と子」だと紹介されていた。
えっ! そーだったの? と今更に知るわたくし。遅しっ。
――どーしてそんなタイトルにしたのかなぁ?
もっとそれとわかるタイトルなら、若い頃にもっと必死に飛びついて読んだだろうに……。ツルちゃん……。
で、改めて「ニヒリズム」をググったら、
「ニヒリズムという語は、1733年にドイツ人 Friedrich Lebrecht Goetz が De nonismo et nihilismo in theologia caeterisque eruditionis partibus obviot というラテン語の書でラテン語で用いている。
連続論に対置された原子論の意味だった。今まで最高の価値と人々がみなし、目的としていたものが無価値となった歴史的事態のことを言うときが多い。」(ウィキペディア)
……「連続論」とか「原子論」とかって、訳わからないけれど、
「今まで最高の価値と人々がみなし、目的としていたものが無価値となった歴史的事態」ならわかる。うん。
「ニヒリズム」といったら「ニーチェ」なのかと思っていたけれど、
そもそもそのずっと前からあった言葉だったんだね。
(ニーチェは1844年10月15日 - 1900年8月25日の人。ツルゲーネフの『父と子』は1862年に発表された小説。)
ちなみに、
「心理学者を自認するニーチェによれば、ニヒリズムにおいて私たちが取りうる態度は大きく分けて2つある。
- 何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム、消極的・受動的ニヒリズム)。
- すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度(強さのニヒリズム、積極的・能動的ニヒリズム)。」(ウィキペディア)
ほぉぉ?
いつだったか「Yahoo! 知恵袋」の「ニーチェとニートの違いは?」という質問に、
「『神は死んだ』と悲観的なのがニーチェ
『親は死なない』と楽観的なのがニート」
などという名回答があったけれど、
ニヒリズムと格闘したニーチェは結局悲観も楽観もひっくるめてアグレッシブだよなぁ。
ニーチェは「積極的ニヒリズム」を「肯定」していったらしいし。
その後、ニヒリズムを5つに分類した人もいたらしい。
「コロラド州立大学の哲学者ドナルド・A・クロスビー(英語版)は、ニヒリズムを5つの類型に分類している[1]。
- 政治的ニヒリズム - 自由を束縛する、あらゆる権力に暴力で反抗するニヒリズム
- 道徳的ニヒリズム - 自己と他者の関係を規定し、社会秩序の基礎とする行動規範としての道徳を否定するニヒリズム
- 認識論的ニヒリズム - 理性の認識能力はごく限定的であり、真理や現実は一定の立場や色眼鏡抜きに掴む事は不可能であるという主張
- 宇宙論的ニヒリズム - 宇宙に意味は無く、人間に宇宙の本質を掴む事は出来ない。人間が見いだした宇宙の価値と無関係に宇宙は存在するという主張
- 実存的ニヒリズム - 人間存在は無意味であり不条理である。例え何かの意味を見付けたとしても、最終的には死が待っている、という考え方」(ウィキペディア)
どれもこれも“アリ”でしょ……と思うのは、私だけだろうか?
どっちにしても虚無の海の中を浮き沈みしている我々は、
それでもつかの間の意味なり夢なりやる気なりを見出し創り出し生きて死んでく……って気がする。
つまるところ、楽しくありたいから。
ニヒリズムは、到底突き詰められそうにもないし(突き詰める気もなし。)
本の話に戻ると、
この本「相良亨集4」で
唯一気になった部分は、最後の「著者付記」にあった。
「日本人の虚無」は、『何処へ』の虚無感の理解をうけつぎつつも、
虚無の奈落に陥ることがないとしつつ、
日本人は期待願望が満たされない時は、
人との交わりや生活の場を縮小し、
落ち着く場を求めて、
期待願望を後退させて生きるものがあるとしている。
これは、仁戸田六三郎氏の論によったものであるが、
かれは『方丈記』の隠遁のごときは、その縮小後退の極、
ただ自然との交わりのなかにのみ心やすらぐ第二の自己を確保したものとする。
『方丈記』の理解はともかく、
希望のもてない願望はこれを縮小後退させ、
自分の落ち着く場を求めて生きる生き方は、
この世にいだく不如意感や不毛感に対する諦めの具体的な一つの様相といえよう。
(『相良 亨 著作集4 死生観 国学 *本居宣長とその周辺』 著者付記より)
で、
「仁戸田六三郎」って誰? ってググったら、
「ニエダ ロクサブロウ」
明治40年生まれ、昭和期の早稲田大学の先生だった。
宗教哲学の講義をされていて、
「ユーモアあふれる話術と自由奔放な性格で学生たちから“にえろくさん”の愛称で親しまれ」ていた……って。
いいなぁ。こんな先生にお会いして講義を拝聴してみたかったなぁ。
「日本人には(中略)
虚無の奈落に陥ることがない」
……本当にそうかもな、と思う。
だから「ニヒリズム」も突き詰められないっちゅーか、
どこか中途半端な否定というか、
よくいえば「諦念」という“崇高な概念”にとって換われちゃうっちゅーか。
まず現実を直視しないっちゅーか。
直視しようにも、まず現実や事実を客観的に共有するための情報の隠蔽捏造が甚だしいっちゅーか。
なにが言いたいのか、わからなくなってしまった!
とにかく
仁戸田六三郎先生にお目にかかりたかったなぁ……と思ったことでした。
ふぅ。これでやっと友達に借りた本を返せる。9か月間も借りてしまったわ。
9か月かけて、収穫はこれか? というような問いには
ニヒっと笑って澄ますのである。