十数年ほど前から手帖と別に三年日記帳も付けている。

日記とはいっても、がん診断後からほぼワタシの体調とか気分とかをメモ書きするログブックみたいなもので、絶不調の時は当然メモすら出来ず、空欄の日が続くなんてことはザラだ。それは、手帖もしかり。

一応、三年日記帳なので去年の今日のジブンと比較することが出来るのだけれど、残念ながら未だに、「いつ、何処で、どんなときに、何をして」体調が突然クラッシュして倒れたりするかの予測が出来ずにいるので参考にならない。因果関係とか、前触れとかの何か手かがりを探ってはいるものの、そんなに簡単には、この気難しいガンコモノのワタシには体調の規則性なんぞ導き出すことなど不可能らしい。

また、最近は側にあるスマホにメモったりする方が便利で、日記はおろか手帖すらキチンとログするのが億劫になってきていた。昨年は、絶不調でもないのに空欄の日の方がはるかに上回った。

反省した大晦日の夜、仕事先で紅白を観ながら、
「よし、来年は、毎日欠かさず日記つける!」
と、意気込んで記し寝、新年が明けた数時間後から連日仕事三昧の松の内にはもう、日記のことなど忘れていた。言い訳にしたくないけど「つい、忙しくてつかれたゃったからまた今度」ってなわけ。


ようやく仕事が一段落した数日前に、はて、その日記帳と手帖が見つからない。仕事用のカバンを捜せど見つからない。どうやら、新年早々、仕事で何処かの宿泊先のホテルに忘れて来てしまったらしい。やれやれ。



捜すのも面倒だなぁ…。




さて、渡米する機内で観た映画『君の膵臓をたべたい』で高校生のヒロインが付けていた「共病日記」(英語字幕でLiving with Disease Diaryとあった)というタイトルに英訳との違和感(どちらかというと、”Sharing”の方がしっくりくる)というかなんか不思議なモヤモヤした印象を受けた。

だってJKが付ける日記のタイトルですよ?なんで、そんなオカタイ名前にしたのかなぁ…?

ま、そこがこの映画の中である意味重要な鍵みたいなので敢えてこれ以上突っ込まないが、生来アマノジャクなワタシは、『ガンと共に生きる』とか『サバイバー』とか『病気と闘う』とか『討ち克つ』とかいうコトバがどーもむず痒くて受け入れ難く(今、ここに書きながらむず痒く苦々しい。)自らそういったコトバたちや「ガン」すら使うことを極力避けている。(いや、嫌悪感剥き出しの全回避という表現が正しいけど…。)それ故に、この「共存」でなく「共病日記」というタイトルが頭の片隅から離れない。



何はともあれ…

まぁ、日記帳を失くして捜すのも面倒ってことは…

「もう、日記を付けなくていいんじゃね?」

ってことなのだろう…


なので、追わない。


日記も手帖もやめる。


そう、結局は、タイトルがないあのログブックもなんだかんだいっても「共病日記」だったんだろう…



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(お世話になっているステイ先のオーナーさんへのクリスマスギフト。戌年に掛けて…)