なぜ藤原先生が危機感をつのらせているかについて始めたいと思います。

ローマ帝国のヴェシパシアヌスが帝位につく前、ヴィテリウスが殺害されたのち

ガリアの反乱を鎮めた、おそらくは50代に入っていたに違いない

前線経験豊富な武人の演説から、考えてみたい。ケリアリスは、こう云う。


「出来のよい皇帝は属州民にも利益をもたらすが、それはわれわれローマ人にとっても同じこと。ところが、出来の悪い皇帝による弊害となると、身近にいるだけにわれわれローマ人のほうが直撃を受ける羽目になる。だが、雨に恵まれなかったり、または雨が降りすぎたりしての天然の被害を、人間である我々はどうすることもできないのと同じで、皇帝の出来不出来も、そして不出来な皇帝による放置であろうと強欲であろうと、我慢可能な間は我慢するしかないのである。」 (危機と克服・ローマ人の物語Ⅷ・塩野七生著より抜粋)


そう、我慢可能な間はである。(なかなか、痺れる演説であるので全文を読んでほしいところであるが)

先生はもはや限界に来ているのだと思う。


今回は、「個の尊重」は身勝手と同義語か・祖国愛なくして危機は乗り切れず、にふれたいと思う。

前章では、こういう風に述べておられます。

「個の尊重」は「自由」とないまぜになって広く社会で猛威をふるっており、「個」や「自由」は結果的に私たちの美風を破壊している。世界中でこれらの弊害のほう」が目立ち、多くの先進国で教育や社会がギクシャクし、経済では自由競争のもと、資本主義の息の根を止めかねないものが跋扈していると。


また、地球物理学者の松井孝典先生は2020年ごろ、こうしたものが破綻すると予言されています。

(これについては、また別の機会に)


相場ジャンキーとしては、ギクッとしますが、一芸を極めた方たちの言というものは恐ろしいものがあり、なぜだか常に正鵠を得ます。


後章では締めに、

祖国愛を培わない限り、日本はこれからも不様な狼狽を何度でも繰り返し、ついには消え去ることになろう。

と述べておられます。


これは、太古にローマ人のスキピオがカルタゴの滅亡を見ながら、涙をながし、語った言葉にあまりに近似してはいないだろうか。


次回は、英語の教育論について、また藤原先生のお考えを軸に考えたいと思います。

(自分の仕事の領域でもあるが・・・・・)


ここのとこ、かたいものばかりだな。

(-。-;)