あぁぁぁぁ・・・・・辞めた方が良い。。。。
真理を見るという事など、安直に見ようとするものではない、、、、、です
あらゆることを追求して、真理を見たとして、それを幸福などと表現できるモノではそもそも無い・・・・death
これすらも、どう表現していいのか、纏まりません。。。。
深淵は見えます、そう前にも言ったように、誰にでも見えるのです。
そして、それを見て今私が想う事は、私はもう生まれ変わりはしないという事です。。。。
なぜなら、もう人間をするという事を心底望まないという事が解ってしまったからです・・・・
とはいえ、誰しもが何時かは、ここに至るのであろう事も同時に理解したので、無理な話ですが( ノД`)
因と果・・・
因と縁・・・
西洋哲学のそれは、東洋哲学や物理学のそれ全てをして、同じ事を示しているだけでしかないのです。。。。
「我思う故に、我在り」
とは、まさしくそれで、その意味はその言葉の短さとは裏腹に、恐ろしく長い説明となる言葉でしかありません。
この言葉の本質を知る時が、人が人を辞めたくなる時となるのかもしれません。。。。
因果や因縁とは、まさしく塵一つの誤算を許さない無限の連鎖でしかない・・・・
そこにあるのは、人の欲までも含めた、因果・因縁を含んだ誘導とでも云える様な事象の連鎖でしかないのです。
先に書いた、希釈を何故私が望んでいるのかは、その誘導的な因果・因縁を断ち切る為でしかないのだと・・・・・
私がいくつも書ききれない記事を抱えているのかのその理由すらも、おそらくそれでしかないと思います。
示すという事のその意味や、その重篤さゆえに、その困難さが果てしなく高く設定されているという事すらも、、、、
知ってはいけないのだろうと思います。
知るという事の意味や意義や危険さという事だけが、嫌という程に解ります。。。。
人は、人を辞めようと思うその時まで、この事実だけは見てはいけないのかもしれないです。
この力や智慧は、自らの繁栄の為には決して使えないと思います。
使うというだけなら、いかようにも使えるのだと解りますが、その為に使えば、
想像を絶する不幸という感覚だけが、その人を打ちのめすことになるのだと・・・・
そういう意味では、今この世界に蔓延している程度のハッピー論的なスピリチュアルな世界観が丁度良い。
のかもしれません。
この世界にある先人の知恵というのは、ある程度は本当です。
今の世界には、その本質はほとんど伝わっていませんが、今の時代に於いては、それが時代背景的な限界かもしれない。
今の世界の価値観は、絶対的な真理を求める事を、かなり前から辞めてしまったのは理解しています。
今はどちらか言えば、集団的・相対的な価値観を是とする世界を示すことで、集団をコントロールしています。
絶対的価値観というモノに至る困難さを、敬遠するような慣習を創り出すことで、相対的な理解しやすい指針
を使い、その困難さを避けて解りやすく安直な指針で、人の理性をコントロールし、叡智を人から遠ざけた・・・・
それは何の為かと言われると、人を富を創り出し、それを搾取するための対象へと誘導したかったからなのでしょう。
その為に、真理という絶対的な力や智慧は、搾取を続けたい存在以外にとっては邪魔でしかなかったのだと・・・オモイマス
ですが、真理はそれを遥かに超える力です。
真理を知るとは、自分という価値観の消失の先にあるものでした・・・・
欲の追求の為には、全ての存在が平等に存続するという力や智慧としての真理を恐れたのだと思いますが、
真理とはそんな欲というモノを超越した先にこそ本来の姿を現すものです。それを今の権力者は・・・・タブンワカッテナイ
だめですね、文章では書ききれませんね、この事については( ノД`)
という事で、世迷言だ程度に読んで頂ければ嬉しいですw
だれか、この心理を本気で聞きたい人がいたら連絡ください・・・・ウソデス、スイマセンwww