◆日本での共同性や運動の可能性は?


・ワーキングプア、ネットカフェ難民など雨宮処凛や湯浅誠が行っている  「反貧困ネットワーク」など若者の抵抗


・喪の共同性:秋葉原無差別殺傷事件後の秋葉原での献花台で  献花しに、被害者に追悼をする人々。この秋葉原での喪の時期に  新しい共同性は生み出せないだろうか。容疑者そのものを憎むだけでなく、被害者に冥福を祈るだけでなく、彼を追い込んだ、人格、環境、社会の構造を私たちが反省することで、なにか得られるもの、社会を変える可能性見出す土壌として共同性が発生する可能性があるのではないか。



◎もう一つのナショナル・アイデンティティ

・ガッサン・ハージはネオリベラリズムの多文化主義とグローバリーゼーションの世界経済の人の移動(移民)という文脈で、人種主義(レイシズム)とナショナル・アイデンティティの欲望を批判

・「寛容の域」:移民に対して「寛容」と思われる白人市民社会だが、その域を超えた場合、不寛容になることが許容される、「寛容」の実践を行う人々は、不寛容が認められる人々には依然として「排除」の実践を行う人々であり、ナショナリスト的な「排除」の実践と「包摂」の実践を行う人々でもあり、ナショナリスト的な「排除」の実践を行う人々の差異とは「寛容の域」の差異でしかない

・「寛容の域」の差異とは?⇒「寛容」の実践:ナショナルな空間を管理しようとするナショナリストの実践は、ネイション内部において自分たちの意思を実践する潜在能力があるものとして自らを想像するナショナルな主体(管理する側)と、価値ある対象でありナショナリストな主体の意思に従属することだけが許容されるナショナルな客体(管理される側)という差異化を持つ分類様式を持ち、このナショナルな客体(他者)に価値付与して寛容に扱うことが可能な場所に、他者を位置づけることができる能力を強調する

⇒・「国籍取得特例法案」を支持する民族団体「国籍取得権確立協議会」への批判

 ・坂中英徳 「移民国家ニッポン 1000万人 移民受け入れ構想」と「在日特権を許さない市民の会」

・その他、想像のネイション空間の管理者としてのナショナリストのアイデンティティの他、同じネオリベラリズムの社会変動の文脈で「財政への管理者(統治者)」としてのナショナル・アイデンティティがあるのではないか?


例)・植民地主義や過去の戦争に対して日本政府が謝罪や補償を続けたら、日本政府の財政は破綻する、とくに個人賠償の強制労働や戦時強制動員の旧日本軍や「従軍慰安婦」の方に賠償し続けたらどうなる?といった言説

・何らかの福祉政策の増額に対して否定的な見方をする納税者(金がないから、いなくなって欲しい患者や「障害者」)→優性主義による正当化の恐れ、「健常者」の人種化


・生活保護の不正受給へのヒステリックな反応→貧困の人種化

・大阪府の公務員の退職金減額に対して、府民の「税金で働いているのだから、当たり前」という意見⇒ある意味では、ネオリベの投資家・企業家アイデンティティ(酒井・渋谷)と似ている。税金=資本、株/納税行為=投資行為と考えてしまう

この文脈で語られる、ナショナリズムはネーション・ステイト(国民国家)を考えるとき、もはや国民というのは人民や民衆を指すのではなく、ステイト=国家権力側の人間を意味するのではないか?それはナショナリズムというよりは国家主義に近い

○オルタナティブ・ナショナリズム、民衆主義としてのナショナリズム

・韓国の民主化闘争の運動原理はナショナリズムである

BSE問題とアメリカ牛肉輸入に反対する運動も民衆レベルでのナショナリズムである