この記事は、2020年1月25日に「アメンバー限定公開」として投稿したものを、「全員に公開」するものである。

 

 

「不幸」とは、

 

① (稲作などにより)食物を保管できるようになって財産およびそれらの所有と言う概念が生まれたこと

② それに伴って「幸福(財産)量比較」が出来るようになったこと

 

によって発生した相対的な概念である。そして情報伝達速度や拡散方法の進化とともに、比較の対象で無かった人たちまでがまたたく間に比較の対象になっていった。知らなければ不幸も感じなかったのに。

幸福量は財産の量だけで決まるものではないが、年齢/ジェンダー/家族構成などの幸福量構成要素も全て比較の対象となり得るのは同じ。

 

自然(異性すらも)が特定個人の所有の対象物では無かった頃には、「不幸(例えば飢餓のような)」は「死」と同様に誰の身にも平等に訪れる、もしくは抗いようの無い絶対的なものであった。

少なくとも身近には平等に訪れる飢餓を逃れ得る者の存在はなく、比較の産物である相対的な概念としての「不幸」は存在し得なかった。

 

「幸福量比較」の始末に負えないところは、自分の「不幸」が際限なくなってしまう点である。

上を見れば切りが無いし、常に隣の芝は実際より青く見えるものと決まっているのだから。

『世界の最富裕層2153人が、最貧困層46億人(世界人口の60%超)よりも多くの財産を保有』している世の中で、資本主義が格差を元に富の一極集中を図り、その集中度合いのみで「成長」を量る仕組である限り、その格差は広がるばかりである。勿論日本も例外ではない。

「幸福量比較」は誰の役にも立たず、ただ「不幸」だけを増幅させる。

 

 

一方で、「幸福量比較」と対極をなす「不幸量比較」は一時の心の安らぎを与えてくれる。

 

「不幸量比較」にも意味はない。

それも相対的なものでしか無いから。

 

しかし、自分よりも不幸な人がいると思うことで一時でも気が休まるならそれも良いかも知れない。

妄想するだけで人に迷惑をかけるわけでもない。

 

私は、神経難病(同時に悪性リンパ腫も)を患って以来、事あるごとに「自分は未だマシだ」と思うことにしている。

何よりマシか?

即死(特に若い方の)ケースより、である。

 

事故や心筋梗塞などで突然亡くなる方は大勢いらっしゃる。

人生を振り返ることが出来ない、自分自身や残される者のために準備する暇も無い。

さぞや心残りだろう。

残された者も同様、心構えができない。

 

それに比べて、自分は、波乱万丈の小説のような充実した人生を堪能した上に、そんな人生を終わらせるための猶予期間を与えられた、と考えると、「自分は未だマシ」と思えるのである。

 

皆死ぬことは分かっているのだから誰もが準備は出来るのだが、人間は突き詰められるまで気が付かない、もしくは嫌なことからは目を背けようとする愚かな存在なのである。

 

年齢のせいか、最近癌で闘病する知人が増えた。

中には、大げさに悲観して、「自分が世の中で一番不幸オーラ」を発する仲間もいる。

 

私の不幸量比較に於いて、癌は対象外である。

何故なら、(神経難病との比較において)癌は不幸でも何でも無いからだ。

 

その理由は、

 

・癌には治療方法が有るし、新たな治療法が日に日に進化しており、最早不治の病ではない。(例外は有るが、神経難病は例外なく治療法が無い)

・癌は神経難病のように身体機能を奪わない。(亡くなる一月前までは元気にゴルフをしていた、などという話は枚挙に暇がない。ほんの一部の例外を除いて、ギリギリまで会話を含めたコミュニケーションの一切が出来なくなることもない)

・最終的には、緩和ケアという治療法が確立している。(神経難病の精神的・肉体的苦痛に緩和ケアと言う概念は無い)

 

だからである。

 

こんなことをいくら書いても自分自身の気休めにはならないのだが、癌で闘病中の仲間へのエールのつもりで書いている。

私も癌患者だから、この程度のことは書いても許されるだろう。