父はどうも、私自身の見たくない面を、
意図せず私の目の前に
持ってくるようなところがあって
どうにも嫌だったのだけど。


今日、ふたりきりになる場面があって、
やっぱりいやだな、と思った。


たとえば、
自分のことを棚に上げて、
人になんでもアドバイスしてくるところ。


父「〇〇ちゃん(娘の名前)、
風邪が長引いて辛いね。
でもみんな通ってきた道だから」


わたしの心の中
(でも、ほぼお母さんとおじいちゃんに
任せきりだったんでしょ?
あなたは看病なんかできるひとじゃない。
何を偉そうに)


といいたくなったけど、 

ぐっとこらえて、
この現実は何を私に見せたいんだろう
と思いを巡らす。

はて、
わたしは、どんな現実を望むのか、と。


まぁ、ちょっとお茶でも


私が望むのは
父と楽しく過ごす時間だった。


「父の見解が正しいかどうかはどうでもいい
この二人の空間を楽しく過ごしたい」
そう意図した。



そしたら、
「もしかして、これはただの優しさかもしれない」
と、降ってきた。


不器用な父なりに、
私を勇気づけようとしているのではないか、
応援しているのではないか、と。
 
(外から見たら当たり前かもしれないけど。)



そしたら、急に優しく父の言葉に
相槌を打つことができた。



その後も、父は、

私の夫の事業は順調なのかとか、
父の兄弟の話とか、
なんだか楽しそうにはなして、

私と娘にたくさんのおやつと食料を買ってくれた。




意図した
「父と楽しく過ごす時間」は達成され、

あぁ。。。
と、わかったことがあった。



それまで、私の中で、父は
「かわいそうなお父さん」だった。

でも、今回の意図によって、
その像は消えたのだ。


ふりかえれば、
お父さんはかわいそうでもなんでもなく
(少なくとも本人の中では)
楽しく毎日を生きてきて、
娘と家族を思いやり、
過ごしてきた人ただのたのしいお父さん。
でよかった。


なんだか惨めで独りよがりな人
のような気がしてた。


その像は私の一部分だから、
(自分以外はエキストラ)
なにかするにもいつもわたしは
罪悪感と一緒だった。


なんだ、わたし、楽しく毎日を生きてきて、
娘と家族を思いやり過ごしてきた、、、。



そうじゃん、そうでしかないじゃん。


これが劣っているとか、
誰かに頼っているとか、どうでもいいじゃん。



わたしも、劣っていても、
誰かに助けられていても、
別に私を生きていいじゃん、自身を持って、
と。


私の大きな一点が統合された瞬間だった。


あぁ、お父さん、
きちんと見せてくれてありがとう。