「人間関係」のご相談が続きました。
今日はこのことについて綴ろうと思います。




好きな人
フレンドリーな人
尊敬できる人



あなたから見てこういう対象の人たちは
あなたの気持ちを安らがせ、楽しませ、躍動させ
プラスのエネルギーの影響を与えれくれる人



逆にあなたにマイナスのエネルギーと与える人も
いることでしょう。



表現すると



どう転んでも嫌い
尊敬できない
その人のマイナス部分だけ拾ってしまう
言動に腹が立つ



身近にいて
マイナス部分で気になる人の事を
よく
「目の上のタンコブ」
と表現したりしますね



人が生まれて集団に属することから生まれるそれぞれの意識
集団ですから大人に限らず
子ども達の世界からはじまります



いじめ問題や
不登校に関わる問題も
第一の要因は人間関係からだと言われていますが



勿論大人になれば
どこかの集合体(組織)に関われば必ず人と触れ合う、摩擦するが生まれます。



ビジネス上での組織、仕事での組織
その中で
「自分の思うように全てなったらなんて楽なんだろう」
と思われる事もあることでしょう。
でも自分の思うようには全てならない事を知っておられる
あなたは、感情レベルでの混乱をどう捉えたら、対処したらいいのかわかりません。



好きな、尊敬する人より
「嫌いなあいつをなんとかしたい」
ここなのですね。




こういった意識になった時
その人の


振る舞い
言葉
その人の周りの方からの評価



全てがイヤ...



じつはじつは
嫌いなあの人の嫌いな部分は
あなたの中にも眠っているということ



表面上に顔を出していないだけで
あなたの一部分でもある
だから 気になったり、腹が立ったりするのです



気にしなくなりたい
そうでしょう。



一つの解決策としては


人はどんな顔も持ち合わせている




自分だけが天使のような清い心ばかりではなく
自分だけが邪悪な心を持っているのではなく
人として生まれたことで発生する人との関わりにおいて
見せてくれるものが常にある



(思うままに夢が叶う超瞑想法から引用) 苫米地英人著


どんな存在にもなれる「三法界瞑想」より

解説

自分の心を制御して、自分が何にでもなれることを知り、その上でなりたい自分になるための
瞑想法をお教えします。

はじめにひとつ、たとえ話をしましょう。
ある凶悪な犯罪をおかした人がいます。テレビや新聞は彼の周辺を取材し、近所の人にコメントをもらいます。近所の人は犯人について、
「凄く優しい人だったので、あんな酷い犯罪を犯すなんて.....」
「家族といるときは凄く穏やかそうな人でした.....」
などといかにも「意外だ」といったコメントをします。
さて、このような犯罪行為と矛盾するかのようなコメントを聞いた時、あなたは犯人についてこう考えるはずです。「『凶悪な犯罪を犯した彼』」が彼の本性なのか、それとも『優しく穏やかだった彼』が本性なのか?」と。
しかし、実はこうした問いかけ自体がナンセンスです。
なぜなら、優しさも、凶悪性も、どちらもその人自身だからです。
どんな人もナートマンです。その人の心がその都度何を選んだかがその人のあり方を決めているのです。
その選択の結果、あるときは「優しい人」になり、あるときは「凶悪な犯罪者」になってしまうだけなのです。
「ひとりの人間の心に相反するすべての人間性があり、心が何を選んだかによってその人の存在や生き方が決まる」という人間に対する見方は、仏教の「六道」や「十法界」(じっぽうかい)という言葉に表れています。
六道とは天道、人間道、修羅道、畜生道、飢餓道、地獄道の6つの世界のことで、この六道の上に声聞、緑覚、菩薩、仏の四界を加えたものが十法界です。
人によっては、六道や十法界を「生まれ変わり(輪廻転生)の法則」だと解釈していますが、そもそも釈迦は輪廻転生を否定しており、六道や十法界を輪廻転生と結びつける事は仏教的な考え方ではありません。
では、六道や十法界では、瞑想空間の中で飢餓になった自分、人間になった自分、菩薩になった自分、仏陀になった自分などを瞑想しながら、
「自分の中には餓鬼もいれば仏陀もいること」
「自分の中にはあらゆる可能性が存在していること」
「その可能性の中から、自分が『何を選ぶか?』によって自分という存在が決まること」
をしっかりと認識し、最終的に『じゃあ、自分は◯◯を選ぼう』と、なりたい自分を自分の心(自分の意志)で選びます。



(引用終了)

といっても
自らが自分の生き方を選んでいることを尊重することは相手がどんな顔をみせようと
自らへの投影だと考えろといわれてもなかなか難しい場合



視点を一つ上に上げる



という働きかけをしています。



あなたから見て
好意的な人も
苦手な人も
自らの内面の一部だという事を知ってしまうと
感情的にも落ち着いていくことでしょう。




わたしの大好きな部分も
嫌いな部分も
気になるあの人の嫌いな部分も
好きな部分も
全て「一部の情報」に過ぎない
けっして全体をあらわしていない


それは自らの中にも存在し
対する人の中にも全て存在し
自由に選択いていいのだということでしょうか。






ご興味があれば
是非「視点を上げる」をお試しください。




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