20年前の今日 | Let's write anything.

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20年前の今日、1995年1月17日 午前5時46分52秒 阪神淡路大震災が発生しました。

死者6,434名 

黙祷

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あの日を振り返って見ました。


あの日、私は仕事はたまたま休みで寝ていました。

そして、地震発生ですが、「ん?地震や!けどまぁ直ぐおさまるやろ・・・」ぐらいで居たのですが揺れが大きく長く続き「これはヤバイ死ぬかも・・・」と思った頃に地震はおさまりました。

寝床から起き出して、本棚から落ちた地球儀を横目に家族の居る部屋へと行き、「何処が震源?」とテレビを確認しても豊岡が震度5やな、北部が震源やろか?と悠長に話していると「神戸が震度6(後に7に訂正)」と言う一報が入り、その後テレビを見てると、あの阪神高速が横倒しになっている映像が映し出されました。

えらいことになってるなぁ・・・と見ている内に、出勤のためJRに乗りに行った姉が「電車動いてない」と家に戻ってきたので、車で送るわとマイカーで姉の会社に向かいました。

会社に向かっている間にも、余震が何度も有り車で走っていても分かるほどでした。

まだ地震が起きて時間が経っていなかった為か、朝早かった為か道路が渋滞で走れないと言う事はなく、程なく会社には送れたのですが、帰路では通勤時間帯になった上、電車は走っていないはずなのに、踏切が閉まったままになっているため、踏切周辺の道路は大混乱が起きていました。

踏切を渡らなければ家には帰れない為、何処か開いている踏切をと探し回ったのですが、何処も開いていません。

仕方なく、車が通ってはいけない陸橋が有るので、そこを渡るしかないと向かい、車幅ギリギリのバリケードの間をすり抜け、やっとの思いで帰宅しました。

帰宅すると、父は母を病院に送ってから仕事に行く予定をしていましたが、踏切が開いて無いし道路が渋滞してると言う事で、私が母を病院に送っていくから父は早めに出勤しました。

母を病院に送るために、踏切が開いているか何度も家を出ては確認に行きました。
その時に雪がちらついていたのを今でも良く覚えています。

幸い、9時過ぎになると踏切も開いており、母を病院に送って行けました。

その日一日は、余震の揺れに恐れながら、テレビに映し出されるあの凄まじい光景を目にし、あのよく通った神戸の街が・・・と。

夕方になり、姉の帰社時間が近付いて来たので、今のように携帯電話が無かったので、会社に電話をして、迎えに行こうかと聞こうと電話をしたのですが、電話も調子が悪く何度も何度もかけ直したら、呼び出し音も無くいきなり繋がり、お互いびっくりと言った状況。

姉を迎えに行って家に帰って来ると、母が具合が悪いと言い出し、また朝に連れていった病院に送っていき、診察待ちの間、駐車場に停めた車でラジオでの安否確認情報を聞きながら、車のフロントガラスから見える東の空高くが、オレンジ色に見えたのでした。

60キロ離れた神戸で起きている長田区周辺の大火事が空を朱くし、それを遠くの私の目に届いていたのでしょう。


と、長々と20年前の今日を思いだしてみたのですが、幸い私の住む所では被害もそれほど無く、変わらずに暮らしていったのですが、あの夜に見たオレンジ色の東の空の下で、多くの人が家族・友人・家を失い地震が自分達の生活を一瞬にして変え、幸せを奪っていった瞬間だったに違い有りません。

20年と言う月日が経ち、東日本大震災も発生し、阪神淡路大震災が忘れ去られてしまいがちですが、尊い命が犠牲になった事を忘れずに、防災意識を常に持ち、後生に震災の恐ろしさ無念さを伝えていきたいものです。