”いのちを頂く事について考える解体ワークショップ”@KANAYA BASEに参加してきました。
僕は魚を釣って捌いて食べたりするけれど、、ニワトリは初めて。
6時間のプログラム編成で、ディスカッション等も含め参加者30名で3羽のニワトリを、シメて、捌いて、料理して、頂くという内容でした。
自分は役割分担の立候補で命を絶つ(両手を使って首の骨を折って絞める)大切なパートをやらせてもらいました。
絞める前に、ニワトリに名前(自分のグループは♂の”Andy”)を付けて、参加者全員で抱き上げたり体温を感じたり、散歩させて各々が命を感じてからやるんです。
残酷じゃないか?いや、良いコトじゃないか?様々な意見がやはりあります。だけど個人的にはそこに答えを出そうとする事に少し違和感を覚えるんです。
歴史を振り返っても、生き物が生きる為に自分が食べる分の食料を確保するという事は"当たり前"の事であり、これが本来、人間の"生きる"というコトなんじゃないかと。
結局のところ、スーパーで買った鶏肉も、叙々苑で食べてる焼き肉も、生き物を頂く際には必ず命を絶つ行程があるのであって、昔は狩りや家畜っていう方法で各々手間ひま掛けて確保していたお肉を、今はスーパーマーケットっていう便利な方法で最後のステップから肉の塊を確保しているだけな訳ですから。
結果、時代と共に、ものが簡単に手に入ったり、大量生産される事によって食べ物がどういう風に食卓に並んでいるかっていう過程が見えずらくなってるから、非日常的に感じてしまい、否定や肯定が生まれてるんじゃないかと。
だから、自分は"食べるコト=生きるコト"これを感じていたいって改めて思うんです。
イベントには都内から女性の参加者も多く、ディスカッションでは"参加前は感情的になるんじゃないか" "取り乱したりするんじゃないか"と心配があったけど、”実際に体験してみると以外とそういった感情は生まれなかった”と口にする人が多数でした。
自分は狩猟免許を取得してから、狩りにもなかなか行けてないし、未だに1頭すら捕まえていないです 笑。
昔ならとっくに餓死してるだろうな…
ただラッキーな事に今は、そんな事しなくても生活はしていける。
そんな時代に感謝しつつ、"生活する為に生きる"だけじゃなく、"生きる為に生きる"コトを自分のバランスで、自分のペースでライフスタイルに取り入れていきたいって思うんです。
DSやTVゲームでは死んでもリセットボタン押せば、また生き返ってやり直せるけど、生き物はそうじゃない。
その命を頂いて食べた焼き鳥は、すごく美味かったです